第23話 プライベートジェットの女
「……元に戻らなきゃいけないんです」
慎太郎の口から、掠れた声が漏れた。
両膝の上で固く握りしめた拳は、爪が手のひらに食い込むほど力が入っていた。身体の奥底から込み上げる焦燥が、彼自身の喉をカラカラに乾かせている。
庭の緑が、初夏の強い日差しを浴びて、飛び石の上に濃い影を落としていた。腕時計の針は、午後1時を少し回ったところだった。2時には次のミルクの時間が来る。そろそろ実家に戻らなければならない。頭の片隅でそんな現実的な時間を計算しながらも、慎太郎の口からは、抑えきれない不安が零れ落ちていた。
「壊れてしまったものを、早く直して、機能するようにしなければ。そうしないと、俺は誰の役にも立たない。存在している意味がないんです」
マヤは水面から視線を外し、ゆっくりと慎太郎の方へ顔を向けた。その深く濡れたような黒い瞳には、一切の否定の色がなかった。
「どうして、何かの役に立たないと、ここにいてはいけないの?」
彼女の白く柔らかな手が、慎太郎の震える拳にそっと重ねられた。マヤの手のひらから伝わる微かな体温と、彼女から漂う甘く深いアロマの香りが、こわばっていた慎太郎の肩の力をゆっくりと抜いていく。
「ただ息をして、この庭の緑を眺めているだけじゃ、許されないかしら」
「それは……」
「あなたはもう、十分に働いたわ。競争社会の頂点で、誰よりも重い責任を背負って走ってきた。だから、壊れてしまったなら、無理に直さなくていい。機能しなくたっていいのよ」
マヤの言葉は、恐ろしいほどに甘く、そして心地よかった。
彼女自身が、かつてウォール街という欲望と競争の頂点で戦い、そしてすべてを投げ出した人間だからこそ、その響きには圧倒的な説得力と包容力があった。
そのままのあなたで、ここでゆっくりしていけばいい。
それは、底なしの心地よい沼だった。もがき苦しむことをやめ、この静かで美しい空間に身を委ね、ただ沈んでいけば、どれほど楽だろうか。張り詰めていた神経の糸が、音を立てて緩んでいくのを感じた。
その時だった。
古い日本家屋の静寂を切り裂くように、重厚な車のエンジン音が近づいてきた。
音は門のすぐ外でピタリと止まり、車のドアが開閉する重い音が響く。続いて、玉砂利を一定のリズムで踏みしめる、硬質なヒールの音が近づいてきた。
門柱の影から現れたその姿に、慎太郎は思わず息を呑んだ。
180センチ近い長身と、息を呑むほどに完璧なプロポーション。
艶やかなダークスキンに、シャープで意思の強い骨格。彼女が身に纏っているのは、目にも鮮やかなロイヤルブルーのハイブランドのセットアップだった。計算し尽くされたアバンギャルドなカッティングの服は、苔むした庭石や古い木造の縁側といった、この場のわびさびの空間を完全に破壊するような、圧倒的な異物感を放っていた。
「……ずいぶんとクラシックな隠れ家を見つけたものね、シンタロウ」
滑らかで、凛とした響きを持つ流暢な日本語。
彼女がゆっくりと庭の飛び石を歩くたびに、シャープで知的な香水の匂いが、湿った空気を鋭く切り裂いていく。
「エレノア……」
信じられないものを見る目で、慎太郎はゆっくりと立ち上がった。
エレノア・ウォーカー。
かつて慎太郎が総合商社で数百億規模の海外インフラプロジェクトを担当していた際、外部のトップ戦略コンサルタントとして参画してきたイギリス人の女。
国籍も年齢も違ったが、互いの能力を限界まで引き出し合い、冷徹なロジックと圧倒的な行動力で数々の修羅場を共に潜り抜けた、最高のビジネスパートナーだった。現在は独立し、ロンドンとシンガポールを拠点にする投資ファンドの幹部を務めているはずだ。
「どうして……ここに」
「ロンドンから直行便で来たわ。羽田からヘリをチャーターして、そこからはハイヤーよ。あなたの足取りを追うのに、少し手間取ったけれど」
エレノアは縁側の前に立ち、ミステリアスな黒い瞳で、慎太郎を上から下まで冷徹に観察した。
「少し見ない間に、随分と毒気を抜かれた顔になったわね」
「……」
「でも、瞳の奥の光までは完全に死んでいない。安心したわ」
エレノアの視線が、慎太郎の横で座ったままのマヤへと移った。
タイプの全く違う、2人の大人の女の視線が空中で交錯する。
マヤはシルクのワンピースの裾を直すこともなく、余裕の微笑みを浮かべたままエレノアを見上げた。
「素敵なお客様ね。冷たいお茶でも淹れましょうか」
「結構よ」
エレノアは表情1つ変えずに答えた。
「私は彼を連れ戻しに来ただけだから」
「連れ戻す?」
マヤが小首を傾げる。
「彼は今、お休み中よ。無理に引きずり出そうとすれば、本当に壊れてしまうかもしれないわ」
「壊れる?」
エレノアは鼻で短く笑った。
「彼のような才能が、こんな日本の片田舎の庭先で腐っていくことこそ、世界的な損失よ。才能ある人間は、それに相応しい舞台に立つ義務があるの」
エレノアは再び慎太郎に向き直った。
その眼差しは、ただ冷徹に彼の現在地を測り、その奥にあるはずの駆動力を信じ切っていた。
「シンタロウ。あなたが日本の古い組織のシステムに合わなかっただけのことよ。それを適応障害だの何だのと、くだらないラベルを貼られて腐っているなんて、あなたらしくもない」
彼女の言葉は、鋭利なナイフのように慎太郎の胸に突き刺さった。慰めや同情は一切ない。
「傷を舐め合うだけの休息は、もう終わりよ」
エレノアは左腕の高級時計を一瞥した。
「今日の18時に、駅前のホテルで待っているわ。服を着替えてきなさい。あなたのフリーズした脳を再起動させるための、最高のディナーを用意したから」
「エレノア、俺は……」
「断る理由はないはずよ。私をロンドンからここまで来させたのだから、最低限の礼儀は尽くしなさい」
有無を言わさぬエレノアのペース。ビジネスパートナーとしての絶対的な優位性と、論理の力で、慎太郎の逃げ道を塞いでいく。
彼女はそれだけ言い残すと、鮮やかなロイヤルブルーの背中を向けて、再び玉砂利を踏んで門の外へと消えていった。
残された縁側には、静寂と、エレノアが残していったシャープな香水の残り香だけが漂っていた。
マヤは小さくため息をつき、微笑んだ。
「……強引なお姫様ね。どうするの?」
慎太郎は、門の方を見つめたまま、ゆっくりと拳を握りしめた。
マヤの甘い沼の底から、強引に水面へと引き上げられたような感覚。肺に冷たい空気が流れ込んでくるのを感じた。
「……行きます。彼女は、俺が納得するまで絶対に引かない女だから。それに、ムギのミルクの時間もありますし」
マヤは少し寂しそうに目を伏せたが、すぐにいつもの艶やかな微笑みを取り戻した。
「そう。でも、いつでも戻ってきていいのよ。ここは逃げ場所なんだから」
★★★★★★★★★★★
午後2時前。実家に戻った慎太郎は、一直線に台所へ向かい、電気ケトルのスイッチを入れた。
部屋の隅の段ボール箱からは、空腹を訴える「ミィ、ミィ」という切実な鳴き声が響いている。
手を洗い、小さな哺乳瓶に粉ミルクを入れ、湯で溶かしてから流水で人肌まで冷ます。手首の内側に数滴垂らして温度を確かめる一連の動作は、この数日間ですっかり身体に馴染んでいた。
箱から薄茶色の小さな毛玉をそっと掬い上げ、あぐらをかいた膝の上に乗せる。哺乳瓶の乳首を口元に近づけると、ムギは小さな前足で哺乳瓶をギュッと抱え込み、ゴクゴクと勢いよく飲み始めた。
ミルクの減っていくメモリを見つめながら、慎太郎は微かに息を吐いた。
つい数時間前まで、自分は何の役にも立たない無価値な存在だと、マヤの前で強迫観念に苛まれていた。だが、手のひらから伝わってくるこの100グラムにも満たない命の熱と、規則正しい嚥下の振動は、圧倒的な物理的現実としてそこにある。自分が数時間おきにこのミルクを作らなければ、この小さな命は明日を迎えられない。
それは、何百億という投資案件を回していた頃のプレッシャーとは全く質の違う、ひどくささやかで、それでいて絶対的な責任の手触りだった。
満足するまでミルクを飲ませ、湿らせたティッシュで排泄を促し、再び段ボール箱の底に敷いたタオルケットの上に寝かせる。ムギは小さく丸まり、すぐに静かな寝息を立て始めた。
その小さな背中を指先でそっと撫でてから、慎太郎は自室のクローゼットを開けた。
奥の方に追いやられていた、唯一シワになっていなかったチャコールグレーのジャケットを引っ張り出す。袖を通すと、生地の肩のラインが今の自分には少し窮屈に感じられ、どこか他人の服を借りて着ているような、奇妙な居心地の悪さがあった。
★★★★★★★★★★★
18時。駅前に建つシティホテルの最上階。
貸し切られたフレンチレストランの個室には、重厚なマホガニーのテーブルが置かれ、窓からは地方都市のささやかな夜景が見下ろせた。
向かいの席には、昼間とは違う、背中の大きく開いた漆黒のイブニングドレスに着替えたエレノアが座っている。テーブルの上のキャンドルの光が、彼女の滑らかなダークスキンを妖しく照らし出していた。
エレノアは、ソムリエに注がれた赤ワインのグラスを軽く回し、香りを確かめてから一口飲んだ。
「この街のワインセラーにあるものでは、これが限界だったわ」
彼女は微かに肩をすくめ、ワイングラスをテーブルに置いた。
「で? あの古民家にいた妖精のような女性は、あなたの新しい主治医かしら」
「……ただの知り合いだ。俺が一方的に入り浸っていただけで、彼女には何の関係もない」
「そう。ならいいわ」
エレノアはシルバーのナイフを手にとり、前菜のテリーヌに切れ目を入れた。
「単刀直入に言うわ、シンタロウ。私のファンドに来なさい」
その言葉に、慎太郎はグラスを持とうとした手を止めた。
「シンガポールに新しい拠点を作るの。アジア圏のインフラ投資に特化した、数百億規模のファンドよ。私には、現地の複雑な利権を調整し、数字の裏にあるリスクを正確に弾き出せる人間が必要なの。世界中を探したけれど、あなたの右に出る人間はいなかった」
「……過大評価だ。俺は、日本の会社で1つのプロジェクトを最後まで回し切ることもできずに、逃げ出した人間だぞ」
「だから、システムの問題だと言っているのよ」
エレノアはナイフを置き、真っ直ぐに慎太郎を見据えた。
「単なる投資じゃないわ。国家規模のインフラを動かし、数十年の単位で地図を描き換える仕事よ。あなたとなら、それができる。あなたの会社は、あなたに全責任を押し付けながら、裁量は与えなかった。無能な役員たちの顔色を窺い、無意味な根回しに膨大な時間を割かせる。そんな環境で心をすり減らすのは、努力ではなくただの消耗よ。私のファンドなら、あなたに完全な裁量と、最高水準のチームを用意するわ」
エレノアの提示する条件は、かつての慎太郎であれば、迷わず飛びついていたであろう魅力的なオファーだった。
彼女の目の中に嘘はない。純粋に、慎太郎という人間の能力を誰よりも高く評価し、それを最大限に活かせる場所を用意してくれている。
社会から弾き出され、自分の価値を見失っていた慎太郎にとって、これ以上ないほどの絶対的な肯定だった。
「年俸は、今の会社の3倍。赴任の準備はすべてこちらで手配するわ。……どう?」
個室の中に、静かな沈黙が落ちた。
窓の外の夜景は、東京のそれに比べれば圧倒的に暗く、光の数も少ない。
慎太郎は、自分の内側を深く探った。
何億という金を動かし、世界を舞台に戦う高揚感。エレノアとともに、誰も見たことのないような結果を出し続ける日々。そのビジョンは、確かに魅力的だった。
だが、どういうわけか、心がかつてのような熱を帯びない。
優秀なチームと莫大な資金を動かす未来の景色よりも、今の慎太郎の足元には、もっと手放しがたい引力のようなものが絡みついていた。
先ほどまで手のひらの中にあった、小さな命の規則正しい鼓動と、ミルクの甘い匂い。
サビの浮いたガードレールに反射する夕陽。川沿いを吹き抜ける青臭い風。不器用なほど真っ直ぐに今日という日を生きている、泥臭い生活の手触り。
世界を動かす巨大な歯車に戻るよりも、今はただ、自分の足でこの街の土を踏みしめていたい。そのひどくささやかで、個人的な執着が、エレノアの提示する完璧な論理の前に、静かに、だが頑なに立ち塞がっていた。
「……光栄な話だ、エレノア」
慎太郎はゆっくりと口を開き、グラスの赤ワインに視線を落とした。
「お前が俺をそこまで評価してくれていることは、本当に嬉しい。だが」
言葉を紡ごうとした瞬間、個室のドアが控えめにノックされた。
コースのメインディッシュを運んできたギャルソンが、一礼して静かに入室してくる。
慎太郎は言葉を止め、エレノアは少しだけ不満そうに細い眉を寄せた。彼女はギャルソンが料理を並べ終えて退室するまでの数十秒間、指先でテーブルクロスを軽く叩いていた。
ドアが静かに閉まると、エレノアはすぐに口を開いた。
「即答は求めないわ。あなたの頭はまだ、あの田舎の淀んだ空気に浸かっているようだから。明日の夜まで、ロンドンには戻らないわ。よく考えて、答えを出してちょうだい」
エレノアはワイングラスを持ち上げ、挑戦的な笑みを浮かべた。
「あなたの才能は、こんな小さな町で終わらせていいものじゃないわ、シンタロウ」




