第57話 すれ違う夜
十月の声を聞くと、夜の空気は急激にその温度を下げる。
窓ガラスの向こう側で、秋の冷たい風がサッシをがたがたと揺らす低い音を立てていた。
松井家の古い居間は、シーリングライトの照度を落とし、薄暗く保たれていた。
部屋の中央に置かれた使い込まれたローソファでは、フリースケットに包まれた湊が、規則正しい寝息を立てている。その足元には、茶トラのムギとポメラニアンのポンが、まるでひとつの毛玉のように丸まって互いの体温を分け合っていた。
慎太郎はちゃぶ台にノートパソコンを開き、明日の会議で使う資料の数字を追っていたが、時折、壁掛け時計へと視線が向かうのを止められなかった。
時刻は、二十一時半を回ろうとしている。
ここ最近、みどりの帰りが遅い日が増えていた。
工場での作業を定時で上がり、「野暮用があるから」と湊を慎太郎と親父さんに預けたまま、夜遅くまでどこかへ出かけている。彼女のキャンバストートバッグの中に『実践CAD・製図入門』という分厚いテキストが隠されているのを、慎太郎はすでに知っていた。
みどりは今、自分の力で工場の戦力になろうと、慎太郎に内緒で専門の学校に通っているのだろう。その意欲は喜ばしいことのはずだが、彼女の目の下に日に日に濃くなっていく隈を見るたび、慎太郎の腹の底にはざらついた懸念が溜まっていった。
不意に、玄関の引き戸が静かに、ガラガラと鳴った。
慎太郎はパソコンを閉じ、足音を忍ばせて玄関へと向かった。引き戸を開けると、廊下の冷たい空気とともに、みどりが立っていた。
「……ごめん、遅くなっちゃって」
みどりはハスキーな声をさらに潜め、申し訳なさそうに言った。
ジーンズにパーカーといういつもの格好だが、肩から下げたトートバッグはずっしりと重そうだ。その顔色は青白く、隠しきれない疲労が滲み出ている。
「親父さんはもう寝た。……夕飯は食ったのか」
「うん、駅前で適当に済ませたから大丈夫」
みどりはスニーカーを脱ぎ、足早に居間へと向かった。眠っている湊の頭をそっと撫で、その小さな体を愛おしそうに見つめる。湊は「んぅ……」と小さく寝返りを打ったが、母親の匂いに安心したのか、再び深い呼吸に戻った。
「もう遅い。湊はここで寝かせておく。早く風呂に入って、温まって寝ろ」
慎太郎が声をかけると、みどりは小さく肩を跳ねさせ、それから振り返った。その大きな瞳には、心配させまいとする強がりと、どこか彼を拒絶するような硬い光が混ざっていた。
「うん……。しんちゃん、いつも湊のこと、ありがとね」
「みどりが困っていることなら、俺にも手伝えることがあるはずだ。一人で抱え込むな」
「だから、平気だってば」
みどりは慎太郎の言葉を、そっと、しかし明確な力で遮った。
「ちょっと、自分のことで忙しいだけだから。しんちゃんは、あんまり気にしないで」
みどりは小さく頭を下げ、静かに洗面所へと向かった。
パタパタと消えていく足音を見送りながら、慎太郎は小さく息を吐いた。
これ以上踏み込めば、彼女の意志を否定することになる。最適な解決策を提示し、効率よく問題をクリアすることは慎太郎の最も得意とする領域だ。だが、今の彼女が求めているのは、与えられた正解ではなく、不格好でも自分自身で答えに辿り着く過程なのだ。
同じ屋根の下に暮らしながらも、彼女が意図して作り出す微かな壁が、二人の間に静かなすれ違いを生んでいるような気がしてならなかった。
★★★★★★★★★★★
その週末の土曜日。
駅前通りから一本裏路地に入った場所にある、昔ながらの純喫茶。
焙煎された深い珈琲の香りが染み付いた店内は、マスターが淹れるサイフォンのコポコポという音と、静かなクラシックの調べだけが流れていた。
「お久しぶりです、武田専務」
奥のテーブル席で立ち上がった岩崎瑞穂は、悪戯っぽく口角を上げて笑った。
彼女の服装は、かつて東京のオフィスで纏っていたような隙のない戦闘服としてのスーツではなかった。上質なネイビーのセットアップは少し肩の力が抜けた柔らかなシルエットで、彼女の内面の充実と余裕を雄弁に物語っている。
「からかうな。……いい顔になったな、瑞穂」
「武田さんこそ、すっかり地方の経営者の顔ですね。お会いできて嬉しいです」
新しいプロジェクトの立ち上げに伴う地方視察の合間を縫って、瑞穂は約束通りこの町に立ち寄ってくれた。
二人は向かい合って席に着き、ブレンドコーヒーを注文した。
「新しいプロジェクトのリーダーになったそうだな。メールを読んだ」
「はい。おかげさまで、毎日胃に穴が開きそうな思いをしながら走り回っています。武田さんがいかに異常なスピードで決裁を回していたか、今になって痛感していますよ」
瑞穂は明るく笑いながら、手元に置いてあった紙袋をテーブルの上に滑らせた。シックな黒いロゴが入った、東京の有名なパティスリーのものだ。
「約束のケーキです。みどりちゃんと一緒に食べてください」
「気を遣わせて悪いな。みどりも、これを何より楽しみにしていた」
「いいんです。私が食べたいものを買ってきただけですから」
運ばれてきたコーヒーに口をつけながら、二人は互いの仕事の現状について簡潔に情報交換をした。工場の新規開拓、歩留まりの改善、そして瑞穂が手がけるインフラ事業の展望。かつての上司と部下としてのテンポの良さはそのままに、今は対等なビジネスパーソンとしての敬意がそこにはあった。
ひとしきり仕事の話が落ち着いた頃、瑞穂がコーヒーカップをソーサーに置き、ふと慎太郎の顔を静かに見つめた。
「武田さん、何かありました?」
「ん?」
「今日、お会いした時から、ずっと眉間に薄い皺が寄っています。仕事のトラブルの時の顔じゃない。……もっと個人的で、答えの出ないことでもどかしい思いをしている時の顔です」
瑞穂の観察眼は相変わらず鋭かった。
慎太郎は、窓の外を流れる秋の雲を見つめ、静かに目を細めた。
「……みどりのことだ」
「みどりちゃんが、何か?」
「みどりが、俺に内緒で図面を引こうとしていることくらい、とっくに気づいている。工場の戦力になるために、夜遅くまで専門的な勉強をしているんだ」
「……」
「だが、俺が声をかけても、『大丈夫だ』と壁を作られてしまう」
慎太郎の吐露を聞き、瑞穂は少し目を丸くした。
「なら、どうして? 武田さんなら、すぐにでも最適な解決策を提示して、彼女を助けられるじゃないですか」
「俺が手を出せば、みどりのプライドを折る。だから俺は、ただ彼女が帰ってきたときに、生姜のきいたにゅうめんを黙って出すことしかできないんだ。……もどかしいものだな」
慎太郎が自嘲気味に笑うと、瑞穂は驚いたように目を丸くし、それから、本当に嬉しそうに破顔した。
「笑い事じゃないんだが」
「いえ、すみません。武田さんって、何十億の数字や事業のリスクは完璧に読めるのに、人の心の面倒くさい部分は相変わらず不器用ですけど……本当に、いい男になりましたね」
瑞穂は居住まいを正し、真っ直ぐに慎太郎を見た。その大きな瞳には、かつての自分自身を振り返るような、穏やかな光が宿っていた。
「武田さんは、いつも完璧に先回りして、誰も傷つかないように問題を片付けてしまう。……それって、すごく優しくて、すごく残酷なんですよ」
「残酷?」
「ええ。隣にいる人間は、ただ守られるだけの無力な子供に引き戻されたような気がしちゃうんです」
瑞穂の言葉は、静かだが確かな質量を持って響いた。
「私は、あなたのそういう圧倒的な優しさに、いつも息苦しさを感じていました。あなたに頼っていれば絶対に失敗しない。でも、自分の足で立っている実感がないから、いつも焦っていた。……もしかしたら、みどりちゃんも、昔の私と同じなんじゃないですか」
「……」
「あなたと対等に立つために、今、必死で踏ん張っているんだと思います」
その言葉は、慎太郎が薄々感じていたみどりの焦りの正体を、優しく浮き彫りにするものだった。
すでに分かっていたことだ。彼女はもう守られるだけの少女ではなく、自分の足で立ち、同じ景色を見ようともがいている一人の自立した女性なのだ。だからこそ、手を出さずに見守るという静かな戦いを、慎太郎は自らに課している。
「……瑞穂には、敵わないな」
「当然です。私は武田さんの元で、一番厳しく鍛えられたんですから」
瑞穂は誇らしげに笑い、伝票を手にした。
「さ、私はそろそろ次の視察先に行かないと。武田さん、みどりちゃんによろしく伝えてくださいね。そのケーキ、本当に美味しいですから。……本当は、ちょっとだけ悔しいんですけどね」
清々しい笑顔を残し、瑞穂は純喫茶の入り口へと向かっていった。
閉ざされた木製の扉を見つめながら、慎太郎の手の中にある紙袋の重みが、心地よく感じられた。
★★★★★★★★★★★
その日の夜。
松井家の居間は、いつも以上に明るい声と賑やかな空気に包まれていた。
夕食を終えたちゃぶ台の真ん中に置かれた白い箱が開けられると、中から宝石のように艶やかな数種類のケーキが顔を出した。
「うわ、すっげえ……!」
みどりが目を輝かせ、箱の中を覗き込んだ。
「瑞穂さん、さすがだね! これ絶対高いやつじゃん!」
「おお、こりゃまた洒落たもんを持ってきたな。俺には甘すぎるかもしれんが」
親父さんが頭を掻きながら笑い、湊は「けーき! けーき!」と身を乗り出して短い腕を伸ばしている。
「こら湊、手掴みでいこうとすんな。順番ね」
みどりが湊の手を軽く制しながら、ケーキを四つの小皿に取り分けていく。
「しんちゃんは、このチョコレートのやつでしょ。で、じいちゃんが抹茶のやつ」
それぞれの手元に行き渡り、みどりはショートケーキを一口頬張った。
「んっ……! なにこれ、めっちゃ美味い! 生クリームが全然違う!」
みどりは本当に嬉しそうに目を細め、隣で口の周りをクリームだらけにしている湊の口元をティッシュで拭ってやった。
「おいちーねえ、湊」
「おいちー!」
親父さんも「ほう、案外いけるな」と抹茶のケーキを少しずつ口に運んでいる。ムギとポンは自分たちの分がないことを悟り、不貞腐れたように定位置のソファの端で丸まっていた。
温かいお茶の香りと、甘いケーキ。同じちゃぶ台を囲み、家族として過ごす何気ない、けれどかけがえのない時間。
慎太郎は自分のチョコレートケーキにフォークを入れながら、目の前で笑うみどりの顔を静かに行き来した。
目の下には、連日の睡眠不足を物語る薄い隈がまだ張り付いている。
美味しいと無邪気に笑うその笑顔の裏で、彼女は「しんちゃんの隣に立つため」という健気な強がりを隠し、一人で見えない壁の向こう側で必死に背伸びをしているのだ。
瑞穂の残した言葉が、慎太郎の胸の奥で静かに反響していた。
『あなたと対等に立つために、今、必死で踏ん張っているんだと思います』
踏み込んでしまえば、その努力とプライドを無に帰してしまう。だから今は、ただ彼女が自らの足で立ち上がるのを待つしかない。
「どうしたの、しんちゃん。食べないの?」
みどりが不思議そうに首を傾げた。
「いや、美味いな。瑞穂のセンスは相変わらず確かだ」
慎太郎は短く答え、ケーキを口に運んだ。上品なカカオの苦味と甘みが広がる。
「でしょ。今度お礼のメールしとこっと」
みどりは屈託なく笑い、残りのイチゴを大事そうに口へ放り込んだ。
同じ家の中で、同じものを食べ、同じ時間を共有している。それなのに、彼女が一人で戦っている時間は、慎太郎には手の届かない場所にある。
そのもどかしい距離感が、秋の夜長の静寂の中で、微かな切なさとともに慎太郎の胸に降り積もっていく。
今はまだ、見守るしかない。
大人の男の静かな葛藤を抱えたまま、すれ違う夜はゆっくりと更けていった。
【書籍発売のお知らせ】
作者の別作品『実力S級の俺、配信切り忘れで「虚無顔でボスを瞬殺する姿」が全国放送されてた件。今さら「ただの荷物持ち」とは言えない~定時で帰りたいので、追放してくれてありがとう~』第1巻が、9月4日に発売されます。
現在予約受付中です。
もしご興味がありましたら、こちらもチェックしていただけると嬉しいです。
書籍の詳細は活動報告をご覧ください。




