第20話 金曜20時、すっぽかされた約束
金曜日の18時。駅前に建つシティホテルの最上階にあるラウンジは、この地方都市の喧騒から完全に切り離されたような、静かで重厚な空気に包まれていた。
分厚い絨毯が靴音を吸い込み、フロアの各所に配置された間接照明が、テーブルの上のキャンドルの火を柔らかく反射している。黒服のウェイターたちが足音を立てずに立ち回り、静かに流れるジャズのピアノソロが、客たちの抑えたさざざめきを上品に包み込んでいた。
慎太郎は、目の前に置かれたグラスの氷を無意識に見つめていた。
向かいの席には、岩崎瑞穂が座っている。深いネイビーのシルクのワンピースに、小ぶりなパールのネックレス。完璧に整えられた髪とメイクは、この薄暗い照明の下で最も美しく見えるように計算し尽くされているかのようだった。彼女が少し動くたびに、洗練されたフローラル系の香水が微かに漂ってくる。
「このテリーヌ、すごく美味しいですね。地方にも、探せばこういう素敵なフレンチのお店があるんですね」
瑞穂がシルバーのフォークを置き、花が咲くような笑顔を向けた。
「ああ。そうだな」
慎太郎は短く答え、自分のグラスに口をつけた。
昨日、瑞穂から突然スマートフォンに連絡があった。「仕事の話も、東京に戻ってほしいという話も一切しません。ただ、明日の夜、一緒に食事をしていただけませんか。それだけで、私は納得して帰りますから」という、ひどく落ち着いた、だが切実な声だった。その誘いを、今の慎太郎は断り切ることができなかった。
白いプレートの上には、色鮮やかな野菜と地元の海鮮を使ったテリーヌが、まるで絵画のように配置されている。だが、丁寧に盛り付けられたその料理の味は、少しも舌の記憶に残らなかった。
瑞穂は約束通り、仕事の話は一切口にしなかった。
学生時代の旅行の話や、最近観て面白かった映画の話。彼女は沈黙が落ちないよう、慎太郎が答えやすい話題を選び、懸命に明るく振る舞っていた。グラスが空きそうになれば、ウェイターを呼ぶ前にさりげなく次の飲み物を提案する。その完璧な気遣いが痛いほど伝わってくるからこそ、慎太郎は相槌を打ちながらも、自分の内側にある決定的な温度差を誤魔化すことができずにいた。
メインディッシュの肉料理が運ばれてきても、慎太郎のナイフの動きはひどく緩慢だった。赤ワインの香りが鼻を抜けても、それが良質なものだという知識としての理解しかなく、味覚として楽しむ余裕はどこにもない。
ふと、視線が左手首の腕時計に向かう。
時刻は、19時15分を回っていた。
「……武田さん」
不意に、瑞穂の静かな声がした。
顔を上げると、瑞穂はグラスのステムを細い指でなぞりながら、真っ直ぐに慎太郎を見つめていた。その大きな瞳の奥に、隠しきれない諦念の色が滲んでいる。
「時計を見るの、今日で4回目ですよ」
「……すまない」
慎太郎が短く謝罪すると、瑞穂はふっと力なく口角を上げた。その笑顔には、先ほどまでの完璧な装飾はなかった。
「仕事の話はしないって約束しましたけど。……1つだけ、聞いてもいいですか」
「何だ」
「武田さんは、あの埃っぽいお店と……あの子の、どこがいいんですか」
声は震えていなかった。ただ、純粋な疑問と、どうしても届かないものに対する静かな絶望が混ざっていた。
慎太郎は自分の手元に視線を落とした。
白いテーブルクロスの上に置かれた、自分の両手。昨日まで土をいじり、錆びたパイプ椅子を引いていた手だ。
「わからない」
慎太郎はゆっくりと顔を上げ、瑞穂の目を見た。
「ただ、あの場所にいる時だけは、自分が何者でもない、ただの男でいられるんだ」
瑞穂は小さく息を吸い込んだ。カトラリーの触れ合う微かな音が、遠くの方から聞こえる。
「私と一緒にいる時は、休まらないですか」
「お前と一緒にいると、俺はどうしても『完璧だった頃の自分』を演じようとしてしまう。……それはお前のせいじゃない。俺自身の問題だ」
沈黙が落ちた。
ピアノの旋律だけが、2人の間を通り抜けていく。
瑞穂は数秒間、慎太郎の顔をじっと見つめていた。やがて、彼女はハンドバッグから小ぶりな財布を取り出し、テーブルの上にそっと置いた。
「……わかりました。もう、引き留めません」
瑞穂の背筋はピンと伸びていた。東京で最前線を戦ってきた彼女なりの、精一杯のプライドと引き際だった。
「19時半です。……行ってください。遅刻しますよ」
その言葉の裏にある痛みを思い、慎太郎は短く息を吐いた。
「……ありがとう。すまない」
慎太郎は席を立ち、テーブルに少し多めの紙幣を置いた。振り返ることなく、足早にラウンジの出口へと向かう。エレベーターの扉が閉まる直前、1人残されたテーブルで瑞穂が静かにワイングラスを傾ける姿が、一瞬だけ視界の端に映った。
ホテルを出ると、初夏の夜風が生温かく頬を撫でた。
慎太郎はネクタイを緩め、駅前のロータリーを抜けて暗い道へと走り出した。
タクシーを拾う余裕すらなかった。革靴の靴底がアスファルトを叩く音が、静かな夜の住宅街に響く。
ネクタイを外し、ジャケットと一緒に小脇に抱える。シャツの背中にじわりと汗が滲むのがわかった。
息が上がる。肺に吸い込む空気が熱い。
すれ違う自転車のライトが顔を照らしても、歩幅を緩める気にはなれなかった。暗い夜道を、ただ足元の白線だけを頼りに駆け抜ける。
腕時計の針は、容赦なく進んでいく。
19時45分。19時50分。
遠くに、見慣れたバイパスの高架が見えてきた。
19時55分。
息を切らせて高架下に到着すると、頭上をローカル線が重い金属音を響かせて通り過ぎていった。
轟音の奥に、赤提灯の灯りが揺れている。
慎太郎は乱れた呼吸を整える間も惜しみ、『鳥寅』の油じみた引き戸に手をかけて勢いよく開けた。
ガラガラという音とともに、換気扇から溢れ出た白い煙と、焦げた醤油の匂いが視界を覆う。
店内を見渡す。
入り口から一番近いカウンターの隅。テレビの青白い光が落ちる定位置。
誰もいなかった。
破れたビニールのパイプ椅子だけが、ポツリと空席のまま残されている。カウンターの上には、水滴のついたウーロン茶のグラスも置かれていない。
慎太郎は足を踏み出し、その空席の隣のパイプ椅子にゆっくりと腰を下ろした。乱れた呼吸が、煙の充満する店内で白く濁って消える。
「おや、しんちゃん。今日は1人かい。珍しいね」
焼き台の奥で網の上の灰を片付けていた女将が、不思議そうな顔をして声をかけてきた。
「……みどりは」
「今日は来てないよ。じいちゃんの具合でも悪いのかねえ。あの子が金曜の夜に顔を出さないなんて、本当に珍しい」
女将の言葉が、耳の奥で反響した。
慎太郎は無言のまま、女将に瓶ビールを頼んだ。
ドン、と置かれた冷えたビールをグラスに注ぐ。トクトクという音が、やけに虚ろに店内に響いた。グラスをあおり、一気に喉の奥へ流し込む。
味がしなかった。
炭酸の刺激も、ホップの苦味も、何も感じない。ただ冷たい水が胃の腑に落ちていくだけの感覚。先ほどホテルのラウンジで飲んだ赤ワインと、まったく同じだった。
時計の針が、20時半を回る。
引き戸がガラリと開くたびに、慎太郎は反射的に視線を入り口に向けた。だが、入ってくるのは見知らぬ仕事帰りの作業着の男たちや、近所の老人の客ばかりだった。彼らは慎太郎を一瞥すると、少し離れた席に座り、女将に焼酎を頼む。
テレビからは、バラエティ番組の甲高い笑い声が流れている。焼き台から爆ぜる炭の音。他の客たちの、くぐもった話し声。
21時。
煙が立ち込める店内で、慎太郎は隣の空席をじっと見つめていた。
スマートフォンの画面を見る。父親からの着信履歴が1件あるだけで、他には何も通知はない。
連絡先すら、知らないのだ。
ここに来なければ、繋がりは完全に絶たれてしまう。彼女の家の正確な住所も、電話番号も、何も聞いたことはなかった。ただ「金曜の20時にここに来る」という不確かな約束だけで、これまでの時間は繋がっていた。
グラスの表面に結露した水滴が、一筋、ツーと流れ落ちてテーブルを濡らした。
慎太郎はゆっくりと瞬きをした。
周囲の喧騒が、ひどく遠くに感じられる。目の前にある冷え切った焼き鳥の皿も、半分残ったままぬるくなったビールも、今の自分には何の熱も持っていなかった。
慎太郎は空になったグラスを静かにテーブルに置き、千円札を何枚かカウンターに投げ出すと、パイプ椅子を蹴るようにして立ち上がった。




