第21話 究極の全肯定
スマートフォンの無機質なアラーム音が、薄暗い部屋の静寂を切り裂いた。
画面に表示された時刻は、午前5時30分。
慎太郎は薄いタオルケットを跳ね除け、気怠い身体を起こした。窓の外はまだ白み始めたばかりで、空気には夜の冷気が微かに残っている。
部屋の隅に置かれた段ボール箱から、微かに「ミィ、ミィ」という甲高い鳴き声が聞こえた。嵐の夜に保護した子猫のムギだ。数時間おきのミルクのタイミングに合わせ、今朝は特別に少し早めのアラームをセットしていた。
慎太郎は顔も洗わず、台所へ向かって電気ケトルのスイッチを入れる。棚から小さな哺乳瓶を取り出し、計量スプーンで粉ミルクをすりきりにして入れた。沸きたての湯を注いで軽く振り、シンクの流水に当てて人肌まで冷ます。手首の内側に数滴落として温度を確かめてから、居間に戻った。
テレビの電源を入れ、音量を極限まで絞ってスポーツチャンネルに合わせた。
画面には、鮮やかな緑のピッチと、それを囲む数万の観衆が映し出されていた。スペインのプロサッカーリーグ、伝統の1戦であるクラシコ。バルセロナとレアル・マドリードが激突する、世界で最も熱狂的な90分間だ。
あぐらをかいた膝の上にムギを乗せ、口元に哺乳瓶の乳首を当てる。ムギは小さな前足で哺乳瓶をリズミカルに押し込むようにしながら、ゴクゴクと音を立てて飲み始めた。
画面の中で、キックオフの笛が鳴る。
ムギの授乳と排泄の世話を終え、箱の中のタオルケットに戻すと、慎太郎は再び台所へ向かった。
冷蔵庫からプレーンヨーグルトのパックを取り出し、ガラスの小鉢に移す。戸棚の奥から出した蜂蜜のボトルを傾ける。黄金色の粘り気のある液体が、真っ白なヨーグルトの上に幾何学的な円を描いて落ちていく。
小鉢を持って居間に戻り、再びテレビの前に座った。
画面の中では、研ぎ澄まされた肉体を持つ選手たちが、ボールを巡って激しく身体をぶつけ合っている。一瞬の判断ミスが致命傷になる、ヒリヒリとした極限の戦場。
スプーンでヨーグルトをすくい、口に運ぶ。
蜂蜜の暴力的な甘さと、ヨーグルトの乳酸の酸味。だが今朝は、その味がひどく平坦に感じられた。飲み込んでも、腹の底で熱に変わる感覚がない。
金曜日の夜から、時間と感覚が止まったままのように感じられていた。
高架下の赤提灯。空席のパイプ椅子と、溶けかけた氷だけが残ったグラス。あの光景が、まぶたの裏にこびりついて離れない。
テレビの画面では、激しいタックルを受けた選手がピッチに倒れ込み、両チームの選手が入り乱れて審判に詰め寄っている。怒号と熱気が飛び交っていても、どこか遠い国の出来事のようにしか認識できなかった。
前半戦終了のホイッスルが鳴った。スコアは0対0のまま。
ハーフタイムに入り、スタジオの解説に切り替わった画面を見つめながら、慎太郎は小さく息を吐いて立ち上がった。
台所へ行き、買い置きしてあった四角い容器のカップ焼きそばを取り出す。
透明なフィルムを剥がし、蓋を半分だけ開けて、中からソースとふりかけの小袋を取り出した。乾燥したキャベツと肉の破片の上に、ケトルで沸かし直した熱湯を注ぎ込む。
蓋を閉め、スマートフォンのタイマーを3分にセットする。
秒針が時を刻む音だけが、古い日本家屋に響く。3分後、湯切り口のシールを剥がし、シンクに傾けた。ボコボコとプラスチック容器が熱で変形する鈍い音とともに、白い湯気がシンクを覆う。
湯を切り終えた麺の上に、黒いソースを絞り出した。箸でかき混ぜた瞬間、ソースが熱い麺に絡み、独特のスパイスと強烈な脂の匂いが立ち昇った。
むせ返るような、チープでジャンクな匂い。
居間に戻り、ズズッと音を立てて麺を啜る。
口の中に広がるのは、塩分と化学調味料の容赦のないパンチだった。緻密な計算も繊細な包丁捌きも必要ない、ただ胃袋を満たし、血糖値を強制的に上げるためだけの味。
今のひどく投げやりな気分には、その味が妙に心地よかった。みどりが現れなかったというただ1つの事実が、慎太郎の中から「まともに生活を組み立てよう」という細い糸を呆気なく断ち切っていた。
後半戦が始まっても、試合の展開は頭に入ってこなかった。ただ、カップ焼きそばのソースの濃い後味を冷たい麦茶で流し込みながら、ぼんやりと画面の光を眺めているだけだった。
試合が終わり、時計の針が午前10時を回った頃。
段ボール箱の中を覗き込むと、ムギは腹を満たし、丸くなってスヤスヤと規則正しい寝息を立てていた。次のミルクの時間は午後2時過ぎだ。
日差しが強くなり始めた窓の外を見て、慎太郎は財布とスマートフォンだけをポケットに突っ込んで家を出た。
じっとしていると、壁が迫ってくるような息苦しさがあった。次のミルクの時間までに戻る、短い散歩のつもりだった。
初夏の日差しは容赦なくアスファルトを照らし、湿度を含んだ空気が肌にまとわりつく。慎太郎は無意識のうちに、駅や工場の立ち並ぶエリアとは逆の、町外れへと足を向けていた。
30分ほど歩き、竹林に囲まれた緩やかな坂道を登りきったところで、慎太郎は足を止めた。
少し開けた土地に、立派な門構えの古い日本家屋が建っていた。以前散歩した時には誰も住んでいない空き家だったはずだが、門扉は新しく作り直されており、手入れの行き届いた広い庭には、色鮮やかな紫陽花などの季節の花が丁寧に植えられている。
表札はない。だが、開け放たれた縁側の向こうに見えた光景に、慎太郎は思わず目を奪われた。
広い縁側に置かれた、モダンなデザインの木製のリクライニングチェア。
そこに、1人の女性がゆったりと身体を預けていた。
年齢は30代半ばから後半だろうか。目を引くのは、そのエキゾチックで息を呑むほどの美貌だった。彫りの深い南アジア系の骨格に、透き通るような肌。豊満でグラマラスなプロポーションを、深いワインレッドの上質なシルクのルームウェアがゆったりと包み込んでいる。
彼女の傍らには、アンティーク調の小さなサイドテーブルが置かれ、そこには半分ほど中身の減ったワイングラスと、読みかけの洋書が開かれていた。
日本の古い田舎の風景の中に、そこだけが切り取られたような圧倒的なラグジュアリーと、アンニュイな空気が漂っている。
立ち尽くす慎太郎の視線に気づいたのか、彼女はゆっくりと顔を向けた。
深く、濡れたような黒い瞳が慎太郎を捉える。驚く様子もなく、警戒する素振りもない。彼女は艶やかな唇の端を少しだけ上げ、余裕に満ちた微笑みを浮かべた。
「あら」
滑らかで、少しだけハスキーな声が、風に乗って耳に届いた。流暢な日本語だった。
「道に迷ったの? それとも、ただの散歩かしら」
慎太郎はハッとして我に返り、軽く頭を下げた。
「……失礼しました。散歩の途中で、立派な家が見えたもので」
「いいのよ。この辺り、人も通らなくて退屈していたところだから」
彼女はシルクの裾を静かに翻し、リクライニングチェアから立ち上がった。ゆっくりとした足取りで庭を歩き、門のところまでやってくる。
近づくと、高価な香水とは違う、上質なアロマオイルのような甘く深い香りが漂ってきた。
「私はマヤ。マヤ・ヴァンス。この古い家が気に入って、最近買い取ったの」
マヤと名乗った女性は、門柱に軽く寄りかかりながら、慎太郎を上から下まで静かに観察した。その視線は、焦りもなく、暴力的な熱もない。ただ、すべての事象を達観して受け入れているような、底知れない深さがあった。
「……武田、です」
「タケダ」
マヤは慎太郎の名前を舌の上で転がすように反芻し、それから、ふふっと小さく笑った。
「あなた、すごく良い顔をしてるわね」
「……良い顔、ですか。お世辞にもそうは言われませんが」
無精髭に、よれたTシャツ。昨夜からろくに眠れず、カップ焼きそばを食っただけの自分の顔がまともなはずがない。
「ええ。すごく擦り切れて、中身が空っぽになっている顔。……昔の私と、同じ匂いがするわ」
慎太郎は微かに眉をひそめた。初対面の、しかも外国人の女性に、なぜここまで的確に自分の状態を見透かされているのか。
「ずっと、何か重いものを背負って走ってきたのね。誰かの期待に応えるために、息をするのも忘れて」
マヤは長い指を伸ばし、門扉の鉄格子越しに、慎太郎の頬にそっと触れた。
驚くほど滑らかで、少しだけ冷たい指先だった。反射的に身を引こうとしたが、彼女の瞳の奥にある圧倒的な包容力に気圧され、動くことができなかった。
「もう、走らなくていいのよ」
マヤの囁くような声は、甘く、鼓膜の奥を直接撫でるような響きを持っていた。
「壊れてしまったなら、壊れたままでいいの。あなたは、そのままで十分美しいわ」
慎太郎は息を呑んだ。
甘い毒のように脳髄に染み込むその言葉は、過去の責任も未来の不安も、すべてを無化してしまうような響きを持っていた。抗いがたい引力に、背筋が微かに粟立つ。
「……あんたは、何者なんだ」
慎太郎が掠れた声で尋ねると、マヤは指を離し、再び艶やかに微笑んだ。
「ただの、ドロップアウトした先輩よ」
彼女は門扉のラッチを外し、内側へと引き入れた。
「さあ、中へ入って。昼間から開けるいいワインがあるの。冷えたチーズと一緒にどうかしら。難しい話は抜きにして、ただ流れる雲でも見ましょう」
初夏の日差しの中、マヤの背後に広がる古民家の縁側は、ひどく静かで、どんな痛みも吸い込んでくれそうな心地よい影を落としていた。
慎太郎は、自分の足がその門の内側へと、無意識に1歩を踏み出すのを止めることができなかった。




