第19話 みどりの不安
薄い雲が空全体を低く覆い、湿気をたっぷり含んだ蒸し暑い空気がアスファルトにべったりとへばりつくような、水曜日の午後だった。
みどりは、工場の資材である重い鉄パイプを荷台に積んだ実家の軽トラを運転し、駅前の大きな交差点で赤信号のためブレーキを踏んだ。年季の入った車体はアイドリングのたびにガタガタと不満げな振動を繰り返し、使い古されたエアコンの吹き出し口からは、微かにカビの匂いが混ざった生温かい風しか吐き出されてこない。開け放たれた窓からは、隣の車線を走る大型トラックの排気ガスの匂いが容赦なく入り込んでくる。
みどりは安全靴の中で蒸れた足先の感覚を確かめるように小さく動かし、首に巻いていたタオルで汗ばんだ首筋を乱暴に拭った。
そして、何気なく歩道の方へ視線を向けた時。
横断歩道の手前で信号待ちをしている2つの人影が、不意に視界に飛び込んできた。
1人は、慎太郎だった。
キャップも被らず、シンプルな白のリネンシャツにネイビーの細身のパンツというラフな格好だが、その背筋の伸びた立ち姿は駅前の埃っぽい風景の中でひどく目を引いた。少し前までの、あの今にも消え入りそうな亡霊のような顔色はない。最近の散歩やバーベキューで適度に日焼けした肌は健康的な艶を取り戻し、元々の端正な顔立ちがはっきりと、大人の男としての輪郭を取り戻している。
そして、その彼の隣にピタリと寄り添うように立っている女性。
みどりは思わず息を呑み、ハンドルの上で指を強張らせた。
彼の腕に絡みついているのは、目を奪われるような鮮やかな原色のサマードレスを着た外国人の女性だった。長い手足と彫りの深い顔立ち。そして何より、周囲の通行人が振り返るのも全く気にする様子もなく、太陽のように情熱的な笑顔で彼に話しかけるその自由な振る舞いは、この地方都市のくすんだ景色の中で、そこだけが切り取られた映画のセットのように浮き上がっていた。
慎太郎は困惑したように眉間に軽くしわを寄せ、時折苦笑いを見せている。だが、彼女の細い腕を無理やり振り払おうとはしていなかった。どこか呆れたような、しかし明確な拒絶ではない、甘さを含んだため息がこちらまで聞こえてきそうだった。
先週の夜、『鳥寅』の狭いカウンターに突然現れた、あの東京の女性の姿が脳裏をよぎる。
隙のないメイクと、仕立てのいい完璧なオフィススーツ。そして、換気扇から漂う焼き鳥の焦げた匂いすらも完全に上書きしてしまうような、あの強烈でハイブランドな香水の匂い。
軽トラの古いエンジン音が、車体を小刻みに揺らす。
みどりは、汗ばんだ掌で古い樹脂製のステアリングをきつく握り直した。自分の左手が視界に入る。
親指の付け根の皮膚は固く分厚くなり、関節のあちこちには作業でついた微細な生傷がある。短く切りそろえられた爪の端や指紋の隙間に染み込んだ鉄粉の黒ずみは、同世代の女性たちが選ぶような華やかなマニキュアとは無縁の、彼女自身の逃げ場のない現実そのものだった。
信号が青に変わる。後続車が短いクラクションを鳴らした。
みどりは弾かれたように前を向き、無言でアクセルを踏み込んだ。バックミラー越しに小さくなっていく美しい2人の姿から、逃げるように目を逸らした。
21時を回っていた。
納期の迫った急ぎの部品加工を終え、工場の旋盤の電源をすべて落としたみどりは、暗い土間の中で1人、深く息を吐いた。熱せられた鉄の匂いと、機械油の匂いが肺の奥まで入り込んでくる。
湊は、とっくにじいちゃんが寝かしつけてくれている時間だ。まっすぐ家に帰ってシャワーを浴びればいいものを、今の自分はどうしても、明るい居間でじいちゃんの顔を見ながら晩飯を食う気になれなかった。
無性に、味が濃くて、熱くて、内臓にガツンとくるものが食べたかった。
みどりは実家の玄関には向かわず、油臭い作業着のまま自転車に跨り、夜の国道沿いにぽつんと光る『豚骨ラーメン大将』の黄色い看板を目指した。
色褪せた赤い暖簾をくぐると、長年の豚骨の脂で微かにぬるりと滑る床が靴裏を迎えた。L字型の赤いカウンターだけの狭い店内には、獣臭さとニンニクの強烈な匂いが充満している。客は長距離トラックの運転手らしい大柄な男が2人いるだけだ。
入り口の券売機で『とんこつ味噌ラーメン』のボタンを押し、無言で店主に食券を渡してカウンターの1番隅に腰を下ろす。
作業着の袖を捲り上げ、備え付けの冷水機からプラスチックのコップに水を汲んで一気に飲み干した。冷たい水が乾いた喉を通っても、昼間から胸の奥に居座っている重たいモヤモヤは少しも晴れなかった。
厨房で中華鍋が豪快に振られ、ラードが炎を上げてモヤシと豚肉が炒められる爆音が響く。やがて、「お待ち」と店主の短い声とともに、もうもうと湯気を上げるどんぶりがカウンター越しにドンと置かれた。
茶濁した濃厚な豚骨スープに、特製の味噌ダレ。表面には数ミリの厚さでラードの層が浮いており、中央には焦げ目のついた炒め野菜と大ぶりのチャーシュー、そして黄色いコーンが山盛りにされている。
みどりは割り箸を割り、レンゲでスープを1口飲んだ。
舌を焼くような強烈な熱さと、脳を直接殴るような塩気、そして豚骨の圧倒的なカロリーが暴力的に口の中に広がる。疲労の極致にある身体には、間違いなく染み渡る味のはずだった。
だが、なぜか今日は、その味がひどく平坦で、まるで油まみれの砂を噛んでいるようにしか感じられなかった。
ちぢれ麺を無心ですすり始めたその時、背後のガラス引き戸がガラガラと重い音を立てて開いた。
「いらっしゃい」
店主の声に、みどりは何気なく振り返り、そして動きを止めた。
入ってきたのは、慎太郎だった。
黒い無地のTシャツにジーンズという身軽な格好の彼は、券売機の前で小銭を探しながらふと顔を上げ、カウンターの隅に座るみどりに気づいた。
「……みどり?」
慎太郎は少し驚いた顔をした後、食券を買って、みどりの1つ空けた隣の席に腰を下ろした。
「こんな時間に珍しいな。湊は」
「……じいちゃんが寝かしつけてる。ちょっと残業だったから、食って帰ろうと思って」
みどりは視線をどんぶりに戻し、わざとらしく音を立てて麺をすすって見せた。
慎太郎はカウンターの上に、小さな薬局のレジ袋を置いた。
「ムギの粉ミルクが切れそうだったから、駅の向こうまで行ってきた帰りだ。……あいつ、恐ろしいペースで飲むようになってな」
慎太郎がどこか父親のような、少しだけ嬉しそうなトーンで言うのを聞き、みどりは割り箸の先でコーンを無意味に突いた。
「ふーん」
声のトーンが、自分でも嫌になるほど素っ気ないものになった。
慎太郎が微かに眉をひそめるのが気配でわかった。
「何かあったか?」
「別に」
みどりはスープをレンゲですくい、口に放り込む。熱さが食道を落ちていくのを確かめてから、前を向いたまま言った。
「しんちゃんこそ、最近充実してんじゃん」
「ん?」
「今日、昼に駅前の交差点で見たよ。なんか、すげえ綺麗な外人の人と歩いてたじゃん。腕組んでさ」
慎太郎がお冷やのコップを持とうとしていた手が、ピタリと止まる。そして、短く深い溜息をついた。
「……カルメンのことか。あれは、突然実家に押しかけてきて、町を案内しろと無理やり引っ張り出されただけで、俺が望んだわけじゃない。腕も、勝手に組まれただけだ」
「言い訳なんて聞いてないし。……モデルみたいだった。すげえ目立ってたよ、2人とも」
「俺にはただの台風みたいなもんだ。無茶苦茶で、疲れる」
慎太郎は自嘲気味に鼻で笑い、コップの水を飲んだ。
だが、その言葉の裏にある「そんな非日常の美しい存在が、当たり前に自分の周囲にいる」という圧倒的な余裕が、みどりには痛いほど伝わってきた。
「しんちゃん、やっぱり住む世界が違うね」
みどりはどんぶりに視線を落としたまま、ぽつりとこぼした。換気扇の低い唸り声に掻き消されそうなほど小さな声だった。
慎太郎の表情がスッと硬くなる。
「……どういう意味だ」
「言葉通りの意味だけど。あんたは、本当ならあんな綺麗な人たちと一緒に、東京のピカピカのビルにいるのが普通の人なんだよ。こんな油臭いラーメン屋で、作業着の女と一緒にいるような人間じゃないってこと」
「みどり」
慎太郎の声が一段低く、凄みを帯びた。だが、みどりの口は止まらなかった。胸の奥に溜まっていた黒くドロドロとした感情が、自分でも抑えきれずに溢れ出していた。
「私はさ、一生この町から出られないの。親父の工場と、湊と、この油汚れと一緒に生きていくしかないの。あんたみたいに、東京に戻るか、どこに行くかっていう、選べる選択肢なんて最初から1つもないんだよ。……だから、あんたみたいな人が、いつまでもこんなところに居ちゃ駄目なんだよ」
みどりは、カウンターの上に置いていた自分の左手を、そっと隠すように膝の上に下ろした。
店主が慎太郎の前にラーメンを置いたが、慎太郎は箸をつけようとしなかった。彼は静かに、しかしはっきりとした声で言った。
「……俺は、今の自分のいる場所が嫌だと思ったことはない」
「それは、あんたが今だけここで『休んでる』からでしょ。いつかは帰る場所がある人間のセリフだよ」
みどりは作業着のズボンのポケットから1000円札を取り出し、乱暴にカウンターに置いた。
「ごちそうさん。……なんか、味がわかんなくなっちゃった」
「待て、みどり」
慎太郎が腕を伸ばそうとしたが、みどりはそれを避けるように身を翻し、パイプ椅子から立ち上がった。
「じゃ、また」
慎太郎の顔を見ることなく、みどりは逃げるように引き戸を開けて外へ飛び出した。
深夜の国道沿いを走るトラックの風圧が、油と汗の匂いを孕んでみどりの身体を吹き抜けていく。
アスファルトの上を足早に歩きながら、みどりは作業着の袖で乱暴に目元を擦った。自分が彼に何を期待していたのか、何に傷ついているのか。彼に何の責任もない理不尽な感情をぶつけてしまった自己嫌悪で、胃の奥がギリギリと雑巾のように絞られた。
店内に残された慎太郎は、閉まった引き戸をじっと見つめていた。
目の前に置かれたとんこつ味噌ラーメンから立ち上る濃厚な湯気が、2人の間に残された空白を埋めるように虚しく空気を揺らしている。
慎太郎は割り箸を割ることもできず、ただ膝の上に置かれた自分の両手を見つめ続けることしかできなかった。




