第18話 奈緒子のお節介
台風一過の青空は、網膜を刺すほどに眩しかった。
土曜日の午前中。実家の居間に差し込む強い日差しを避けるように、慎太郎は畳の上に置かれた段ボール箱を、風通しの良い部屋の隅へと移動させた。
箱の中には、古いタオルケットが幾重にも敷き詰められ、その中央で薄茶色の小さな毛玉が丸くなっている。
水曜日の夜、嵐の神社で木下篤子とともに拾った子猫だった。
翌朝、雨が上がってすぐに近所の動物病院へ連れて行った。生後3週間ほどだろうと獣医は言った。極度の栄養失調と軽い結膜炎を起こしていたが、ノミとダニの駆除を済ませ、抗生剤入りの目薬と専用の粉ミルクをもらって帰宅した。
それからの2日間、慎太郎は数時間おきにスマートフォンのアラームをセットし、不器用な手つきで小さな哺乳瓶を子猫の口に当て続けた。人肌に温めたミルクを腕の内側に垂らして温度を確かめ、排泄を促すために湿らせたティッシュで優しく下腹部を刺激する。
最初は吸う力も弱く、すぐに顔を背けていた子猫だったが、今朝になってようやく変化が現れた。小さな前足で哺乳瓶をリズミカルに押し込むようにして、自らゴクゴクと音を立てて飲むようになったのだ。
「ミィ」
箱の中の毛玉がもぞもぞと動き、目脂が取れて少しだけ開くようになった青灰色の瞳が、慎太郎を見上げた。
「……起きたか」
慎太郎が人差し指を差し出すと、子猫は短い足でよろよろと近づき、指の腹に小さな鼻を擦り付けてきた。ザラザラとした舌で舐められる感触に、慎太郎の口元が自然と緩む。
夜中の授乳で慢性的な睡眠不足のはずなのに、頭は不思議なほどクリアだった。自分が世話をしなければ、この小さな命は数時間で消えてしまう。その圧倒的な事実が、慎太郎の身体に「生きるためのリズム」を強制的に刻み込んでいた。
「慎太郎、その猫、名前はどうするんだ」
廊下を通りかかった父親が、壁に寄りかかりながら段ボール箱を覗き込んで言った。
「そういえば、まだ決めていなかったな」
慎太郎は子猫の背中を指先でそっと撫でた。薄茶色のトラ模様。特別珍しい柄でもない、ありふれた雑種だ。
「麦茶みたいな色してるから、ムギでいい」
「ずいぶんと安直だな。まあ、お前が世話するなら好きにしろ」
父親は呆れたように肩をすくめ、庭の方へ歩いていった。
「ムギ」
慎太郎が呼ぶと、子猫は「ミャッ」と短く応え、再びタオルの上で丸くなった。
昼前、縁側で子猫の目薬を差していると、ジーンズのポケットの中でスマートフォンが短く振動した。
画面を見ると、野村奈緒子からのLINEだった。以前、駅前のカフェに強制連行された時に、半ば強引に連絡先を交換させられていたのだ。
『武田さん! 今日の午後1時から、親水公園のデイキャンプ場でBBQやります! みどりちゃんも湊くんも来ますから、強制参加でお願いします! 日干しにしますよ!』
メッセージの後に、サングラスをかけて親指を立てている熊のスタンプが続いている。
相変わらずの嵐のような勢いに、慎太郎は小さく息を吐き、画面を見つめた。
ここ数日、突然実家を訪れたかつての部下や、夜の海辺に連れ出してきた留学生の残していった強烈な熱に、神経はずっとヒリヒリと逆撫でされていた。明確な答えを迫る見えない重圧が、背中に張り付いている。
だからこそ、画面に並んだ「みどりちゃんも湊くんも」という文字から目を離せなかった。何の計算もなく、ただ炭火で肉を焼いて笑うだけの空間が、今の自分にはひどく魅力的に思えた。
『わかった。行く』
短く返信を打ち込み、慎太郎は立ち上がった。
午後1時過ぎ。
川沿いに整備された親水公園のデイキャンプ場は、初夏の日差しを楽しむ家族連れや若者のグループで賑わっていた。
タープテントが張られた一角で、奈緒子がトングを片手に大声で笑っているのが見えた。今日は保育園の行事ではなく、彼女の友人たち数名が集まった私的な集まりのようだった。
「あ、武田さん! こっちこっち!」
奈緒子が大きく手を振る。ショートパンツに無地のTシャツという健康的な姿の彼女は、周囲の青葉よりも鮮やかなエネルギーを放っていた。
慎太郎がテントに近づくと、足元へ赤いプラスチックのボールが転がってきた。
「しんちゃ!」
ボールを追いかけてきた小さな影が、慎太郎の膝に勢いよくしがみついた。湊だった。
「よっと」
慎太郎はボールを拾い上げ、そのまま湊の脇に手を入れてひょいと抱き上げた。柔らかな肉の確かな重みと、汗ばんだ肌の高い体温が腕に伝わってくる。湊はキャッキャと声を立てて笑い、短い腕を慎太郎の首に回してきた。
「遅いじゃん。しんちゃん」
タープの日陰から、クーラーボックスに座ったみどりが声をかけてきた。
いつもの油まみれの作業着ではなく、白いTシャツに色落ちしたデニムのオーバーオールというラフな格好だった。赤みがかった髪は後頭部で無造作にお団子にまとめられ、うなじに細い後れ毛が落ちている。
「誘われたのが2時間前だからな。準備というものがある」
慎太郎が湊を抱えたままみどりの隣に立つと、彼女は小さく鼻で笑い、缶チューハイを一口飲んだ。
「ほら武田さん、突っ立ってないでこれ! 火起こし、男手の見せ所ですよ!」
奈緒子から容赦なく炭バサミとうちわを押し付けられ、慎太郎は早々にBBQグリルと格闘することになった。
商社時代、社内のレクリエーションで後輩たちに指示を出し、自分はビールを飲んでいるだけだった経験など、ここでは何の役にも立たない。慎太郎は文句を言いながらも、スマートフォンのブラウザで火起こしのコツを調べ、手際よく炭を組み上げて着火剤に火を落とした。
「あー!」
興味津々で近づいてくる湊を「危ないから座ってろ」と少し離れたレジャーシートに座らせ、代わりに予備のうちわを持たせる。湊は嬉しそうに、意味もなくうちわをパタパタと振り回し始めた。
みどりはクーラーボックスに座ったまま、その光景を静かに見つめていた。
煙に目を細めながら炭の配置を微調整する慎太郎の横顔。無精髭は相変わらずだが、高架下の居酒屋で初めて再会した時の、あの今にも消え入りそうな青白さはもうない。
「鳥寅」に突然現れた、あの東京の綺麗な女の張り詰めた声と、彼女が纏っていた高級な香水の匂いを、みどりは今も鮮明に覚えている。彼女の切実な涙は、慎太郎がかつて立っていた場所の異常なまでの高さと、彼が背負ってきたものの重さを雄弁に物語っていた。
けれど今、額に汗を滲ませて炭火と格闘し、湊の的外れなうちわの風に「そっちは風がいらないんだよ」と苦笑いしている彼は、ただの「近所のしんちゃん」だった。
自分と湊がいるこの他愛のない空間で、彼が無理のない自然な顔をしてくれている。その事実が、みどりの胸の奥をじんわりと温かく満たしていく。
「はい、お肉焼けましたよー! どんどん食べて!」
奈緒子の号令とともに、宴が本格的に始まった。
午後3時を回り、少しずつ日差しが和らぎ始めた頃。
子供たちが芝生広場で遊び回り、大人たちが満腹になって一息ついていると、奈緒子が突然「あっ!」と大声を上げた。
「しまった、マシュマロ買うの忘れた! BBQの最後は焼きマシュマロって法律で決まってるのに!」
奈緒子は頭を抱え、それから、クルリとみどりと慎太郎の方を向いた。
「みどりちゃん! 武田さんと一緒に、そこのバイパス沿いのスーパーまで買い出し行ってきて! 湊くんは私が見てるから!」
「は? 私? 奈緒子ちゃんが行けばいいじゃん」
「私は火の番があるから無理! はい、これ財布! 頼んだよ!」
奈緒子はみどりの手に自分の小銭入れを押し付けると、有無を言わさず二人をテントから追い出した。そのあまりにも強引で露骨な手口に、慎太郎は思わず溜息をついた。
「……行くか」
「うん。あの人、言い出したら絶対引かないし」
みどりは呆れたように肩をすくめ、二人は連れ立って公園の出口へと歩き出した。
スーパーまでは歩いて10分ほどの距離だ。
川沿いの遊歩道を並んで歩く。初夏の風が、背の高い夏草を揺らして青臭い匂いを運んできた。
「奈緒子ちゃん、相変わらず強引だよね」
「逆らうと面倒だからな。適当にマシュマロだけ買って戻ろう」
慎太郎が答えると、みどりは隣を歩きながら、ちらりと慎太郎の顔を見上げた。
「……なんか、しんちゃん」
「何だ」
「東京の女が乗り込んできた時より、いい顔してんじゃん」
みどりの直球な言葉に、慎太郎は少しだけ歩調を緩めた。
「……色々考えることがあってな」
慎太郎は前を向いたまま答えた。まだうまく言葉にできない複雑な思考の絡まりを、そのまま飲み込む。
「ふーん。まあ、しんちゃんが笑えてるなら、それでいいけどさ」
みどりは深く追及することなく、路傍の小石をスニーカーのつま先で軽く蹴り飛ばした。
「そうだ。少し、見せたいものがある」
慎太郎はジーンズのポケットからスマートフォンを取り出し、画面を数回タップして、みどりへ差し出した。
「何?」
みどりが顔を寄せてくる。彼女のシャンプーの甘い匂いが、初夏の風に混ざってふわりと香った。
画面に映っているのは、段ボール箱のタオルの上で丸くなっている、ムギの写真だった。
「マジ? めっちゃ可愛いじゃん。どうしたのこれ」
「水曜日の台風の夜に、神社で拾った。湊が喜ぶかと思ってな」
「絶対喜ぶ。あいつ、犬とか猫とかテレビで見るだけで奇声上げて喜ぶし」
みどりはスマートフォンを覗き込んだまま、目を細めて笑った。
「名前、なんていうの?」
「ムギだ」
「麦茶のムギ?」
「ああ」
「しんちゃんらしいね。センスないっていうか、そのまんま」
クスクスと笑う彼女の距離は、以前よりもほんの少しだけ近くなっていた。
スーパーに到着し、目的のマシュマロと、ついでに二人の冷たい飲み物を買って公園への帰路につく。
西に傾きかけた太陽が、二人の長い影をアスファルトの上に並べて落としていた。
「……また、湊を連れて実家の方に遊びに行ってもいい?」
不意に、みどりが前を向いたまま小さな声で尋ねた。
「ムギ、見せたいし」
言い訳のように付け足されたその言葉に、慎太郎は微かに口角を上げた。
「ああ。いつでも来い。親父も、子供の顔を見れば喜ぶだろう」
慎太郎の答えに、みどりは「そ」とだけ短く返し、冷えたペットボトルの緑茶を自分の頬に当てた。
並んで歩く二人の足音が、一定のリズムで重なる。
川面を撫でてきた初夏の夕暮れの風が、二人の間を静かに通り抜けていった。遠くから、広場で走り回る子供たちの歓声が微かに聞こえていた。




