第17話 篤子のオアシス
まぶたを閉じると、波の砕ける音とオフィスの低い空調音が混ざり合ったような、奇妙な耳鳴りがした。
数日が経っても、慎太郎の身体の芯には微かな熱と、それに反比例するような鉛のような疲労感が居座っていた。
月曜日に実家を訪れた瑞穂とカルメンが残していったものは、明確な言葉というよりは、彼女たち自身が発する切実な熱量そのものだった。どちらの熱も、今の慎太郎が真っ向から受け止めるにはあまりにも強烈すぎた。
休職してから少しずつ静まりつつあった神経が、再びヒリヒリと逆撫でされている。明確な答えを出さなければならないという見えない重圧が、四六時中、背中に張り付いているようだった。
水曜日の夜。
天気予報が告げていた通り、季節外れの大型台風がこの地方都市に接近していた。
実家の居間は、重く淀んだ空気に支配されている。父親は夕食を終えると「夜半には荒れるぞ」と短く言い、家中の雨戸をガタガタと音を立てて閉め切り、早々に自室へ引き上げてしまった。
雨戸の向こう側から、時折、ゴオオオという地鳴りのような風の音が響いてくる。密閉された古い日本家屋の中は、逃げ場のない湿気が充満し、畳の匂いさえも埃っぽく感じられた。急激な気圧の低下のせいか、こめかみの奥で鈍い痛みが一定のリズムで拍動している。
閉め切られた空間にいると、壁が少しずつ迫ってきて息の仕方を忘れそうになる。慎太郎はたまらず立ち上がり、クローゼットから薄手のウインドブレーカーを引っ張り出した。
玄関でスニーカーを履き、重い引き戸を開けて外に出る。
生温かい強風が、無精髭の伸びた頬を容赦なく叩きつけた。まだ雨は降っていないが、上空には墨汁を流したような重たい雲が猛烈なスピードで流れている。街路樹が大きくしなり、葉が千切れんばかりに擦れ合う音が波のように寄せては返していく。
大きく息を吸い込むと、土とアスファルトの匂いが鼻腔を突いた。家の中の澱んだ空気よりは、荒れ狂う風の中の方がいくらか呼吸がしやすかった。
あてもなく歩き出す。
すれ違う車も人もいない。時折、どこかの家の庭先でトタン板のようなものが風に煽られてガコン、と鈍い音を立てるだけだ。
無意識のうちに足を向けていたのは、町外れにある小高い丘の麓の神社だった。かつて、夕暮れの狛犬をファインダー越しに見つめる木下篤子と出会った場所。
苔むした石段の前に立つ。両脇に鬱蒼と茂る巨木が風に煽られ、身をよじるように不気味な音を立てている。
境内に着くと、そこは街灯の光も届かない完全な暗闇だった。雲に隠れて月の光もなく、自分の足元すらおぼろげにしか見えない。
風の音が一段と強くなり、本殿の古い木組みがミシリと鳴った、その時だった。
ミィ、ミィ。
木々のざわめきと風の轟音に紛れて、ひどく細く、頼りない音が耳に届いた。
最初は風が隙間を抜ける音かと思った。だが、風が少しだけ凪いだ数秒間に、再びその音は聞こえた。
慎太郎は立ち止まり、暗闇の中で息を殺して耳を澄ませた。音の出処は、手水舎の奥、鬱蒼と茂ったツツジの植え込みの辺りだ。
ジーンズのポケットからスマートフォンを取り出し、ライトを点灯させる。青白い光の円を植え込みの根元に向けると、強風に煽られて転がっていく落ち葉の中で、小さな何かがもぞもぞと動いていた。
子猫だった。
大人の手のひらにすっぽりと収まってしまうほどの、小さな塊。
母猫とはぐれたのか、それとも捨てられたのか。体毛は泥にまみれて本来の色がわからず、細い四肢をバタバタと動かしながら、かすれた声で鳴き続けている。目はまだ開いていないのか、それとも目脂で塞がっているのか、固く閉じられたままだった。
生温かいとはいえ、強風が吹きつけるたびに、その小さな体はブルブルと激しく痙攣するように震えている。
慎太郎はライトを向けたまま、立ち尽くした。
放置すれば、この小さな命は台風の夜を越えられないだろう。
だが、保護したとして、その後どうする。親父のいる実家で飼えるのか。病院に連れて行く費用は。もし自分が東京に戻ることになったら、あるいはこのまま社会復帰できなかったら、誰がこの命の面倒を見るのか。
いくつもの現実的な問題が、瞬時に脳内を駆け巡る。手を伸ばしかけた慎太郎の指先は、空中で硬直したまま動かなくなった。
泥だらけの小さな体は、鳴く力を失い始めているのか、次第にその声は弱々しくなっていた。
「……武田さん?」
不意に、背後から声がした。
肩を震わせて振り返ると、そこにはグレーのパーカーのフードを深く被った篤子が立っていた。首から提げたカメラを、風から守るようにウインドブレーカーの懐に抱え込んでいる。
「木下さん……こんな夜に」
「風が強くなる前に、雲の動きを……」
篤子はそう答えかけて、慎太郎が照らしているライトの先に視線を止めた。
小さく息を呑む音が聞こえた。
「猫……」
慎太郎が言い訳のような事情を口にするより早く、篤子は動いた。
彼女は一切の躊躇なくツツジの植え込みに手を伸ばし、泥だらけの小さな体を両手でそっと掬い上げた。
「待て、木下さん。そんなに弱っているなら、素人が迂闊に触らない方が……」
慎太郎が制止しようとしたが、篤子は子猫を胸元に抱き寄せ、パーカーのフードを少しだけ下げて風から守るように覆い被さった。
「すごく、冷たいです」
ポツリ、と。
ついに大粒の雨が降り始めた。それは瞬く間にアスファルトを叩きつける激しい土砂降りへと変わった。
「走るぞ。社務所の軒下へ」
慎太郎はウインドブレーカーを脱ぎ、篤子と彼女が抱える子猫の頭からバサリと被せた。自分はTシャツ一枚になったが、気にする余裕はなかった。
二人で土砂降りの雨の中を走り、本殿の横にある古い社務所の深い軒下に転がり込む。
屋根の下に入り、慎太郎は荒い息を吐いた。ほんの数十メートルの移動だったが、横殴りの雨でTシャツはすでに肌に張り付いている。
篤子も息を切らしながら、被せられた慎太郎のウインドブレーカーをそっと外した。
彼女の両手の中には、小さな子猫が丸まっている。
「タオル、持ってるか」
慎太郎の問いに、篤子は無言で頷き、ズボンのポケットからハンドタオルを取り出した。
慎太郎はそれを受け取り、子猫の体を包み込むようにして、そっと泥と水分を拭い取っていく。
驚くほど軽かった。骨と皮だけの、本当に頼りない体。だが、タオル越しに伝わってくるその小さな心臓の鼓動は、慎太郎の指先にトクトクと、信じられないほど速く、力強く伝わってきた。
水分を拭き取ると、泥で黒ずんでいた毛並みが、薄い茶色のトラ模様であることがわかった。
子猫は慎太郎の指先から伝わる体温に反応したのか、小さな前足を必死に伸ばし、指の腹にギュッとすがりついてきた。
チクリとした小さな爪の感触。
そして、懸命に乳を探すように、小さなピンク色の鼻をスンスンと鳴らしながら、指先に顔を擦り付けてくる。
「ミィ、ミィ」
かすれた鳴き声と、手のひらから伝わってくる脈打ち。
先ほどまで頭の中で計算していた「責任」や「現実的な問題」といった理屈が、急速に色褪せていくのを感じた。
ただ、目の前で小さな塊が呼吸をし、温もりを求めて必死に動いている。その純粋な事実だけが、今の慎太郎の手のひらの中にあった。
「……武田さんが、見つけてくれてよかったです」
横から覗き込んでいた篤子が、ふわりと顔を綻ばせた。
彼女の濡れた前髪から滴が落ち、頬を伝っている。その大きな瞳は、ただ目の前にある命が動いていることへの安堵だけで満たされていた。
彼女の言葉には、何の裏も計算もない。
「……見つけたのは俺だが、助けたのは木下さんだ。俺は、迷っていた」
慎太郎が短くこぼすと、篤子は不思議そうに首を傾げた。
「迷うのは、ちゃんとこの子の命の重さをわかっているからです。私は、何も考えずに触っちゃっただけですから」
篤子はそう言って、子猫の小さな頭を人差し指でそっと撫でた。
子猫は安心したのか、鳴くのをやめ、慎太郎の手のひらの上で丸くなり、微かな寝息を立て始めた。
ゴロゴロ、という喉を鳴らす音が、微かに指先に伝わってくる。
「どうするんですか、この子」
雨脚が強まり、目の前の視界が白く霞む中、篤子が尋ねた。
「……連れて帰る。こんな夜に、置いていくわけにはいかない」
「よかった」
篤子は心底ホッとしたように息を吐いた。
「落ち着いたら、写真、撮らせてください。きっと、すごく綺麗な猫になりますよ」
「ああ。約束する」
慎太郎が頷くと、篤子は「はい」と短く答え、雨の向こうの暗闇を見つめた。
嵐はまだ去っていない。風は木々を揺らし、雨は容赦なく降り続いている。
だが、家を出た時に感じていた息苦しさは、いつの間にか消えていた。
「雨が少し弱まったら、走るぞ。木下さんの家はどっちだ」
「駅の向こう側です。……武田さんは?」
「俺の実家もそっちの方角だ。送っていく」
「いいです、そんな。武田さん、濡れちゃってますし」
「こんな夜に、一人で帰せるか。俺の自己満足に付き合ってくれ」
慎太郎が言うと、篤子は恥ずかしそうにうつむき、「……ありがとうございます」と小さな声で答えた。
数十分後、雨脚がわずかに弱まった隙を突き、二人は神社の石段を駆け下りた。
慎太郎のウインドブレーカーの懐の中で、子猫は一度も鳴くことなく、安心しきったように丸くなっている。
遠くで、雷が低く唸った。
慎太郎は懐の温もりを左手で庇いながら、水たまりを避けるようにして、篤子と並んで暗いアスファルトの道を歩き出した。




