第16話 価値観の衝突
まぶたの裏に、夜風に翻る真っ赤なワンピースの残像が焼き付いていた。
ざざあ、という波の砕ける音が、耳の奥で微かにリフレインしている。
月曜日の朝。布団の上でゆっくりと身をよじった慎太郎は、思わず短く息を漏らした。ふくらはぎと腰の裏側あたりに、じんわりとした熱を帯びた筋肉痛が走っている。
砂浜に足を取られながら、無茶苦茶なステップを踏まされた代償だ。だが、その痛みは決して不快なものではなかった。ここ数ヶ月、朝の目覚めと共に襲ってきていた鉛のような倦怠感や、神経が擦り減るようなヒリヒリとした重みとは全く違う。筋肉が「動いた」という事実を真っ当に主張する、極めて物理的で健康的な疲労だった。
仰向けのまま、自分の手のひらを見つめる。
昨日、海辺でカルメンの手を握った感触。そして何より、腹の底から声を上げて笑った自分の間抜けな声が、不思議なほど鮮明に記憶に残っている。
身体を起こし、開け放たれた窓辺に立つ。網戸越しに吹き込んでくる風には、青臭い夏の匂いが混じっていた。遠くの木立から、気の早い蝉の鳴き声が聞こえる。
台所へ向かい、冷蔵庫を開ける。冷気の奥に鎮座している黒いラベルの瓶――実家に帰ってきた直後、父親が「内臓が疲れてるならこれでも飲め」と買って寄こしたもろみしぼり酢だ。これまで手をつける気にもならなかったが、今の自分には強い刺激が必要な気がした。
グラスに少量注ぎ、よく冷えたミネラルウォーターで一気に割る。マドラーでかき混ぜる前から、ツンとした独特の酸っぱい匂いが鼻腔を刺激した。
一口飲む。
強烈な酸味が舌の両脇を容赦なく突き刺し、思わず片目をつむる。だが、その刺激の奥に、熟成されたもろみ特有の深いコクがあった。食道を通り抜ける強烈な香りが、寝ぼけていた胃の腑を無理やり叩き起こすように落ちていく。
腹が減っている。
そう自覚したのは、いつ以来だろうか。ただ生命を維持するために、砂を噛むように無味乾燥なものを胃に放り込む作業ではなく、身体が自発的に「何かを入れたい」と要求している。
慎太郎は冷蔵庫からプレーンヨーグルトのパックを取り出し、ガラスの小鉢にたっぷりと移した。そこに、戸棚の奥にあった蜂蜜のボトルを傾ける。とろりとした黄金色の液体が、真っ白なヨーグルトの山に絡みつくように落ちていき、艶やかな水たまりを作った。
スプーンですくって口に運ぶ。
もろみ酢の酸味で敏感になっていた舌に、蜂蜜の濃厚で暴力的なまでの甘さが一気に広がった。その後から、ヨーグルトのまろやかな乳酸の酸味が追いかけてきて、口の中で完璧に調和する。
無心でスプーンを動かした。胃袋に食べ物が収まり、それが熱に変わって血肉に巡っていく感覚。生きている、という極めて動物的な実感が、曖昧になっていた慎太郎の輪郭を少しずつ明瞭に縁取っていくようだった。
午前10時。
初夏の強い日差しがアスファルトを白く飛ばす駅前のロータリーで、慎太郎はスマートフォンの画面に表示されたメッセージの指定通り、時計台の下へと足を向けた。
そこに、小ぶりのキャリーケースを手にした瑞穂が立っていた。
土曜日の昼、実家のちゃぶ台で涙を流し、すがるように声を震わせていた姿はない。涼しげなライトグレーのサマースーツに身を包み、背筋をピンと伸ばして立っている。髪は一糸乱れずまとめられ、メイクにも一切の崩れがない。ヒールのつま先の向きまで計算されたような、隙のない立ち姿だった。
慎太郎の姿を認めると、彼女は小さく一歩を踏み出し、深く、正確な角度で一礼した。
「武田さん。お呼び立てして申し訳ありません。新幹線の時間まで、少しだけお時間をいただけますか」
声のトーンは一定で、淀みがない。感情の波を完全に凪の状態へとコントロールしているのがわかった。慎太郎が短く頷くと、彼女は真っ直ぐに慎太郎の目を見た。
「土曜日は……お見苦しいところをお見せしました。感情的になるのは、私の悪い癖です。ですが、昨日一日、ホテルで状況を整理しました。やはり、私の結論は変わりません」
瑞穂はバッグから薄いクリアファイルを取り出し、両手で抱えるように持った。
「武田さんが今、重圧から離れて休まなければならない状態であることは理解しました。ですが、だからといって、この町に留まり続けることが最適解だとはどうしても思えません。環境を変える必要があるなら、復帰後に別の部署への異動願いを出すことも可能です。人事部への根回しも、私が動きます。あなたのキャリアシートに、これ以上の空白を作るべきではありません」
情に訴えかける言葉は一切なかった。ただ事実と論理を積み上げ、ビジネスパーソンとしての最適解を提示してくる。
「瑞穂。お前が俺のために動いてくれているのはわかる。だが、俺はまだ」
「論理的に考えてください、武田さん」
瑞穂は一歩距離を詰め、慎太郎の言葉を遮った。その大きな瞳の奥に、抑えきれない切実な光が揺れる。
「ここで立ち止まれば、あなたは過去の人になります。私たちが動かしてきた何十億というプロジェクトの重み、社会に与える影響。武田さんは、それを誰よりも理解しているはずです。あなたは、こんな何もない場所で、ただ息を潜めて生きていくべき人じゃありません」
かつて、自分が自分自身に言い聞かせていた言葉の数々。それに縛られ、潰れたはずなのに、瑞穂の言葉は不思議なほどの説得力を持って慎太郎の胸を突いた。今の生活は確かに穏やかだが、自分が本来いた戦線から逃亡しているという事実は変わらないのだ。
「あーあ、朝から小難しい顔しちゃって」
不意に、横から澄んだ声が響いた。
慎太郎と瑞穂が同時に声のした方へ振り向く。
そこには、目の覚めるようなターコイズブルーのサマードレスを着たカルメンが立っていた。日傘も差さず、肌を焼くような日差しを全身で受け止めながら、軽やかな足取りで近づいてくる。
「オラ、タケダ。昨夜のステップ、最高にキュートだったわよ。砂浜で少し筋肉痛になってない?」
カルメンは悪びれる様子もなく慎太郎の腕に軽く触れ、太陽のような笑みを向けた。
瑞穂の視線が、カルメンの鮮やかなドレスと、彫りの深い顔立ちを素早く捉えた。瑞穂の細い眉が微かに寄り、抱えていたファイルを握る指先にキュッと力がこもる。
「……武田さん。こちらの方は?」
「カルメンだ。……たまたま、知り合った」
慎太郎が短く答えると、瑞穂はカルメンに向き直り、ビジネスライクな笑みを浮かべた。
「岩崎と申します。武田さんの元の職場の部下です。今は今後のキャリアに関わる重要な話をしていましたので、少しお席を外していただけますか」
丁寧な言葉尻とは裏腹に、明確な拒絶の意志を含んだ声。だが、カルメンはその冷たい壁を全く意に介さず、琥珀色の瞳で瑞穂をじっと見つめ返した。
「重要な話? キャリアとか、最適解とかってやつのこと?」
カルメンは首を傾げた。
「あなた、彼のことちっとも見てないのね。そんな息の詰まるスーツを着せて、窮屈な箱に閉じ込めることが重要だっていうわけ?」
「……失礼ですね。私ほど、武田さんの能力と背負うべき責任を理解している人間はいません」
瑞穂の声が一段低くなった。
「彼が東京でどれほどの成果を出し、どれだけ多くの期待を背負っているか。その日暮らしの感情だけで生きているようなあなたに、理解できるとは思えません」
カルメンは呆れたように肩をすくめ、小さく息を吐いた。
「責任とか期待とか、本当に退屈。そんなの、彼を縛り付けるためのただの鎖じゃない。昨日、海で無茶苦茶なステップ踏んで笑ってたタケダの方が、ずっといい顔してたわ。あなたがやってるのは、せっかく息継ぎできた彼を、もう一度海の底に沈めようとしてるだけよ」
「海の底に沈める……? 私たちは大人です。好き嫌いだけで生きていけるほど、社会は甘くありません。責任を果たし、結果を出す。武田さんは、それを誰よりも分かっている有能な方です」
瑞穂の言葉は鋭く、一切の妥協がなかった。彼女は本気でそれが慎太郎の幸福に繋がると信じている。
カルメンはそれ以上瑞穂に言葉を返すのをやめ、慎太郎に向き直った。その琥珀色の瞳が、真っ直ぐに慎太郎を射抜く。
「タケダ。他人の顔色ばかり窺って、つまらない正解を探すのはもうやめなさい」
カルメンは慎太郎の胸のあたりを、指先で軽くトン、と叩いた。
「自分の心の声くらい、自分で聞きなさいよ」
昨夜の波の音と、足の裏の砂の感触が蘇る。空っぽになった自分が、ただ笑っていた記憶。
瑞穂が腕時計に視線を落とし、小さく息を吐いた。
「……新幹線の時間です」
瑞穂は再び慎太郎に向き直り、深く一礼した。その横顔は、どんな嵐にも屈しないという強靭な意志で真っ直ぐに伸びていた。
「武田さん。私は諦めません。あなたが本来いるべき場所に気づくまで、何度でもお迎えに上がります。それでは、失礼いたします」
瑞穂はカルメンには一瞥もくれず、キャリーケースの音を響かせて駅の改札へと歩き出した。
改札の奥へ消えていく瑞穂の背中を見送り、カルメンがふうと息を吐いた。
「頑固なお嬢さんね。でも、あの子の言う通りにしてたら、あなたはまた壊れちゃうわ」
慎太郎は何も答えず、ただ初夏の日差しが照りつけるアスファルトを見つめていた。
蝉の声が、朝よりもさらに一段と大きくなっている。
吹き抜ける生温かい風の中で、慎太郎は自分の胸の奥で、まだ輪郭を持たない何かが微かに脈打っているのを感じていた。




