第15話 真夜中のダンス
「今夜、あなたが本当は何をしたいか、私に教えて」
ざざあ、と波が砂を削り取って暗闇の奥へと引いていく音に混じって、カルメンの囁きが耳に届く。
両手で頬を包み込まれ、逃げ場のない至近距離で琥珀色の瞳に見つめられていた。街灯の光も届かない夜の海辺で、彼女の瞳だけが不思議な熱を持って潤んでいる。彼女の細い指先から直接伝わってくる生命力の熱と、南欧の強い太陽を思わせるような独特の甘い匂いに、慎太郎の思考は完全に停止していた。
何をしたいか。
そんな根源的な欲求を問われたのは、いつ以来だろうか。いや、そもそも自分の人生において、純粋に「これがしたい」と願ったことなどあっただろうか。常に「何をすべきか」「どうすれば正解か」ばかりを自分に問い続け、他人の期待に応えることだけを至上命題として生きてきた。自分の純粋な欲求など、とっくの昔にすり潰して消滅したと思っていた。答えを探そうと、機能不全を起こしている脳を必死に回そうとした。
その時だった。
きゅう、と。
波の砕ける音に負けないくらい間の抜けた音が、慎太郎の腹の底から鳴った。
カルメンの目がわずかに見開かれ、頬を包んでいた手がピタリと止まる。
数秒の沈黙の後、彼女は堪えきれないように吹き出し、両手で腹を抱えて笑い始めた。
「あははっ! ちょっとタケダ、嘘でしょ。こんなロマンチックな場面で」
「……俺のせいじゃない。生理現象だ」
慎太郎は顔に熱が集まるのを感じながら、不貞腐れたように顔を背けた。極度の緊張とプレッシャーに晒され続け、空腹を感じるセンサーすら麻痺していたのだろう。昨日、実家の台所で手作りの麻婆豆腐を振る舞って以来、自分自身はほとんど何も口にしていなかったことに、ようやく気がついた。胃液が空っぽの胃壁をひっかくような、鈍い痛みが遅れてやってくる。
「最高ね。やっぱりあなた、すごく面白いわ」
カルメンは涙目になりながら笑いを収めると、慎太郎の腕を引いた。
「行きましょう。頭を使う前に、まずはその素直な胃袋を満たしてあげないとね」
すっかり日が落ちた海沿いの道を15分ほど歩き、2人が入ったのは、国道沿いにポツンと建つ古びた町中華だった。
色褪せた赤い暖簾をくぐると、長年の油で黒ずんだ床が靴の裏にねっとりと吸い付く。壁には手書きの黄色い短冊メニューがずらりと並び、カウンターの隅に置かれた小さなテレビからは、プロ野球の中継が低い音量で流れていた。実況アナウンサーのくぐもった声が、換気扇の低い唸り音に混ざる。
入り口近くのパイプ椅子に腰を下ろす。カルメンの情熱的な赤いワンピースは、この煤けた空間にはあまりにも不釣り合いで、厨房の奥で鉄鍋を振るっていた初老の店主が一瞬だけ手を止め、目を丸くしたのがわかった。
「広東麺を2つ。それと、焼き餃子を1枚」
慎太郎が注文すると、カルメンは「カントンメン?」と不思議そうに首を傾げた。
「野菜や肉を炒めて、とろみのあるスープで閉じた麺だ。火傷するから気をつけて食え」
10分後、湯気を濛々と上げるどんぶりがカウンター越しに運ばれてきた。
濃い醤油ベースのスープの表面を、とろみのついた熱々の餡が覆っている。白菜、豚肉、キクラゲ、ニンジン、そしてうずらの卵。慎太郎は割り箸を割り、餡の下から中太のちぢれ麺を引きずり出した。
ズルッ、と啜る。
熱い。そして、強烈に味が濃い。化学調味料のパンチが効いた、労働者のための容赦のない塩気と旨味だ。緻密な計算などされていない、本能に直接訴えかけてくるような雑で暴力的な味。だが、今の空っぽの胃袋には、この圧倒的なまでのカロリーがたまらなく美味く感じられた。
「ふーっ、ふーっ……あっつい!」
向かいの席で、カルメンが不器用な箸使いで麺と格闘していた。ズルズルと音を立てて啜る文化がないためか、小皿に取り分けて一生懸命に口へ運んでいる。その唇はスープの熱でさらに赤く腫れ、額にはうっすらと汗が滲んでいた。
「でも、すごく美味しい! このドロドロしたスープ、味が深いわ」
「餡掛け、だ。無理して急いで食うな」
慎太郎が餃子の皿をカルメンの方へ押しやると、彼女は箸で餃子を1つ掴み、ラー油の浮いた酢醤油にたっぷりと浸してかじりついた。ジュワッと溢れた熱い肉汁に目を細め、幸せそうに頬を緩める。
彼女の食べ方には、一切の気取ったところがない。ただ「美味しいものを食べる喜び」に全身を委ねている。その無防備な姿を見ているだけで、慎太郎の胸の奥で固く結ばれていた結び目が、少しずつ解れていくような気がした。
無心でどんぶりを空にし、冷えた烏龍茶の入った分厚いガラスコップに手を伸ばす。
氷がカランと鳴った。
冷たい烏龍茶を喉に流し込むと、口の中に残っていた強烈な油と熱が、スッキリと洗い流されていく。大きく息を吐き出し、パイプ椅子の背もたれに深く体重を預けた。
「……食ったな」
「ええ。完璧なディナーだったわ」
カルメンも烏龍茶を飲み干し、満足そうに微笑んだ。
ふと、彼女はテーブルに両肘をつき、両手で顔を支えながら慎太郎をじっと見つめた。
「でもタケダ。あなた、食べている間もずっと眉間にシワが寄っていたわよ」
「……そういう顔の作りなんだ」
「嘘ね。常に次のことを考えてる顔。どうやって麺を啜るか、いつ餃子を食べるか、次は何を話すか。……ねえ、そんなに頭の中を忙しくしてて、疲れないの?」
慎太郎はコップの表面についた水滴を指でなぞりながら、視線を伏せた。
昨日、瑞穂がぶつけてきた言葉が脳裏をよぎる。あの切実で重たい願い。
「疲れるさ」
慎太郎は短く答えた。
「だが、そうやって生きてきた。先を読んで、リスクを計算して、最適解を出す。そうしないと、立っていられなかったからだ」
「退屈ね」
カルメンはあっさりと切り捨てた。
「そんな計算ずくの人生の、どこに情熱があるの? 今、目の前にある熱いスープをただ『美味しい』って感じる。それだけでいいじゃない」
彼女はパイプ椅子から立ち上がり、伝票をひったくった。
「ごちそうさま。外に出るわよ」
店を出ると、完全に夜の闇が周囲を包み込んでいた。
街灯の少ない国道沿いは暗く、時折通り過ぎるトラックのヘッドライトだけが2人の姿を強烈に照らし出しては、再び闇の中へ置き去りにしていく。海の方から吹き付ける夜風は、昼間の熱を孕んで生温かく、潮の匂いが一段と強くなっていた。
「帰るぞ。もう遅い」
慎太郎が実家の方角へ歩き出そうとすると、カルメンがその腕を強く引いた。
「駄目。今夜は何をしたいか、まだ聞いてないわ」
「……さっき、飯を食っただろう」
「あれはあなたの胃袋の欲求よ。私が知りたいのは、あなたの魂の欲求」
カルメンは有無を言わさず、再び慎太郎を海の方へと引っ張っていった。
数分歩き、防波堤を越えて砂浜に降りる。月明かりだけが頼りの暗闇の中、波の砕ける白い泡だけが規則正しく光っていた。
カルメンは履いていたサンダルを無造作に放り投げ、裸足になって砂の上を歩き出した。
「タケダも靴を脱いで」
「嫌だ。砂が入る」
「いいから」
渋る慎太郎を無視して、彼女は慎太郎のスニーカーの踵を踏みつけ、強引に脱がせた。靴下も脱がされ、むき出しになった足の裏が、まだ微かに熱を持っている夜の砂に触れる。ざらりとした感触が、足の裏から直接脳に伝わってきた。
カルメンはスマートフォンを取り出し、画面をタップした。
静かな夜の海辺に、突然、アコースティックギターの激しく情熱的なストロークが響き渡った。哀愁を帯びたスペインのメロディ。スピーカーから割れ気味に流れるその音は、波の音と奇妙に混ざり合っていた。
「……何をしてるんだ」
「踊るのよ」
カルメンは両手を上げ、手首を滑らかに回しながらステップを踏み始めた。真っ赤なワンピースの裾が、夜風と彼女の動きに合わせて生き物のように翻る。
「馬鹿なことを言うな。俺はダンスなんて……」
「柄じゃないって言うんでしょ。知ってるわ」
カルメンは踊りながら慎太郎に近づき、彼の手を取った。
「でも、柄って何? 常識って何? 誰が決めたの?」
「俺は、そういうふうにできてないんだ。離してくれ」
慎太郎が腕を引こうとしたが、カルメンの力は驚くほど強かった。彼女は慎太郎の右手を取り、自分の腰に当てさせた。そして、自分の左手を慎太郎の肩に乗せる。
「頭を使わないで。計算しないで。ただ、音と私だけを感じて」
琥珀色の瞳が、月明かりの下で射抜くように慎太郎を捉える。
「間違えてもいい。不様でもいい。ただ動くのよ」
ギターのテンポが速くなる。
カルメンがステップを踏み、慎太郎を強引にリードする。バランスを崩しそうになりながら、慎太郎は無我夢中で足を踏み出した。
砂に足を取られ、ステップはめちゃくちゃだった。社交ダンスのような優雅さは微塵もない。ただ、音楽に合わせて体を揺らし、引きずり回されているだけだ。
だが、カルメンは楽しそうに笑い声を上げ、さらに激しく慎太郎を振り回した。
「もっと! もっとよ、タケダ!」
息が上がる。心臓が激しく拍動し、血液が全身を駆け巡る。
それは、東京のオフィスで感じていた、息の詰まるような動悸とは全く違うものだった。筋肉が躍動し、酸素を求めて肺が大きく膨らむ。生きている、という圧倒的な実感。
誰も彼を評価しない。誰も彼に正解を求めない。
あるのは、足の裏に感じる砂の感触と、波の音、そして腕の中にいるカルメンの圧倒的な熱量だけだ。
「……っ」
慎太郎の口から、無意識のうちに乾いた笑い声が漏れた。
自分がひどく滑稽で、無様で、どうしようもない人間に思えた。そして、それがたまらなく愉快だった。
「そう! いい顔になってきたわよ!」
カルメンが慎太郎の手を強く握り、ターンを決める。赤いドレスが夜空に大きな弧を描いた。
慎太郎は、もはや抵抗するのをやめた。
理性を手放し、彼女の情熱の嵐に身を委ねた。足がもつれて砂浜に倒れ込みそうになっても、カルメンが力強く引き上げてくれる。
ギターの曲がクライマックスを迎え、ジャーンという激しいストロークとともに終わった。
2人は息を切らしながら、波打ち際で立ち止まった。
静寂が戻る。荒い呼吸の音と、波の音だけが聞こえる。
カルメンは慎太郎の肩に手を置いたまま、熱を帯びた瞳で彼を見上げていた。
「……どう? 少しは、殻が割れた?」
慎太郎は肩で息をしながら、夜空を見上げた。
肺いっぱいに潮風を吸い込む。冷たい空気が、火照った体を内側から冷ましていく。
不思議なほど、心が軽かった。何も持っていない、空っぽの自分。それが、今の自分なのだと、素直に感じることができた。
「ああ」
慎太郎はゆっくりと視線を下げ、カルメンの顔を見た。
「めちゃくちゃだ。あんたは」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
カルメンは満足そうに笑い、波打ち際から1歩退いた。
月明かりの下、彼女の赤いワンピースが夜風に静かに揺れている。
2人はそのまま、しばらくの間、寄せては返す波の音だけを聞いていた。




