第14話 情熱のジョーカー
瑞穂が涙をこぼした小さなちゃぶ台の上の染みは、布巾で何度拭き取っても、慎太郎の目に焼き付いて消えなかった。
日曜日の午後。実家の居間は、風が通らず、重く淀んだ空気に満ちていた。
昨日、彼女が置いていったあのひび割れたような声が、鼓膜の奥にこびりついて離れない。
自分は彼女の純粋で痛切な期待に応えることができない。東京のオフィスに戻り、かつてのように何十億という金を動かす戦線に立つ気力など、今の自分にはどこを探しても残っていない。だが、彼女のその手を振り払う行為は、これまで彼女が自分に寄せてくれた時間と信頼を、無残に切り捨てるのと同じだった。
選ばなければならない。しかし、どちらを選んでも誰かを、そして自分自身を確実に傷つける。
答えのない迷路の壁がじわじわと迫り、胸の奥から空気を搾り取っていくようだった。かつてのように、あるいは一人の男として、自分はどう「正解」を出せばいいのか。
息が詰まる。
古い柱時計の秒針が時を刻む音が、やけに大きく耳に響いた。
慎太郎はたまらず立ち上がり、財布だけをジーンズのポケットに突っ込んで家を出た。
初夏の強い日差しが、アスファルトを容赦なく照らし付けている。
首筋にじわりと汗が滲むのを感じながら、慎太郎はあてもなく足を動かした。すれ違う近所の住人と顔を合わせたくなくて、無意識に足を向けていたのは、駅や市街地とは逆方向の、古くからある商店街の外れだった。
シャッターが下りたままの店が続く中、一軒だけ、引き戸が開け放たれ、ガラスの風鈴が涼しげな音を響かせている場所があった。
古い蔵を改装した、地元の小さなギャラリー兼工房だった。
普段なら素通りするような場所だが、今の慎太郎には、とにかく他人の視線や言葉のない、静かでひんやりとした空間が必要だった。
薄暗い店内に入ると、土間のような空間に、地元の土を使った素朴な陶器や、色鮮やかな染物が無造作に配置されていた。計算された配置というよりは、作り手が赴くままにそこに置いたような、自由な空気が漂っている。古い柱の匂いと、微かに漂う染料の酸っぱい匂いが混ざり合っていた。
奥の作業場から、布が擦れる音と、微かに鼻歌が聞こえてきた。
日本の曲ではない。アップテンポで、哀愁と情熱が入り混じったような異国のメロディだった。
作業場の敷居を跨ぐと、そこで大きな布を広げている人影があった。
ハッとするほど、鮮烈な色彩だった。
彼女が身に纏っているのは、燃えるような真紅と深い青が複雑に混じり合った、裾の長いドレスのようなワンピース。そして、その服に負けないほど強烈な存在感を放つ、エキゾチックな顔立ち。
黒に近いダークブラウンの豊かな髪を無造作に束ね、意思の強そうな濃い眉の下には、深く、情熱的な瞳が輝いている。日本人ではない。しかし、欧米特有の冷たさはなく、南欧の太陽を思わせるような熱気が全身から立ち上っていた。
彼女は両手を大きく広げ、藍色に染め上げられた長い布の端をピンと張って、天窓から差し込む光の透け具合を確認していた。そのしなやかな身のこなしは、まるでフラメンコダンサーがステップを踏む前の一瞬の静寂のようだった。
布から視線を外した彼女の瞳が、入り口に立つ慎太郎を捉えた。
「オラ」
彼女は布をふわりと作業台に置き、悪びれる様子もなく真っ直ぐに慎太郎を見た。
「いらっしゃい。日本の藍染めは、本当に魔法みたいね。何度やっても、空気に触れた瞬間のあの青色には驚かされるわ」
流暢な、しかし少しだけ独特の抑揚がある日本語だった。
「……綺麗な色だ」
慎太郎が短く答えると、彼女は腕を組み、ゆっくりと慎太郎に近づいてきた。
長身の慎太郎と比べても、それほど背が低いわけではない。彼女の視線は、慎太郎の服や靴ではなく、ただ真っ直ぐにその両目を見据えていた。
値踏みするような視線ではない。彼女の瞳は、まるでレンズのフィルターを外したカメラのように、慎太郎の内側の奥深くを直接覗き込んでいるようだった。
数秒の沈黙の後、彼女は微かに眉をひそめた。
「あなた」
凛とした声が、静かな工房に響く。
「すごく息苦しそうね。自分を小さな箱に閉じ込めてるみたい」
慎太郎は、微かに息を呑んだ。
初対面の女性から突然投げかけられた言葉。あまりに唐突で、無遠慮な指摘だった。だが、彼女の瞳には微塵のからかいもなく、ただ目の前にある事実をそのまま口にしただけの純粋さがあった。
「……何の話だ。俺はただ、散歩の途中に寄っただけだ」
慎太郎は反射的に視線を逸らし、平静を装って答えた。
だが、彼女は引き下がらなかった。一歩踏み出し、慎太郎の目の前まで距離を詰める。微かに、オリーブオイルと柑橘系の香りがした。
「嘘ね。あなたの体はここにいるけど、心はずっと過去の失敗か、誰かの期待に縛り付けられてる。だから酸素が足りてないのよ」
彼女は長い指を伸ばし、慎太郎の胸のあたりを空中で軽く指差した。
「そんな重たい荷物、なんでわざわざ自分で背負い込んでるの?」
「……初対面のあんたに、そんなことを言われる筋合いはない」
慎太郎の声は、自分でも驚くほど硬く、拒絶に満ちていた。かき乱された心を、これ以上誰かに暴かれたくなかった。踵を返し、工房を出ようとする。
だが、彼女は素早く手を伸ばし、慎太郎の右腕を力強く掴んだ。
「私はカルメン。カルメン・ガルシア」
振り返った慎太郎に、彼女は太陽のように情熱的な笑みを向けた。
「あなたの名前は?」
「……武田、だ」
「タケダ。いい名前ね」
カルメンは慎太郎の腕を掴んだまま、もう片方の手で自分の真っ赤なワンピースの裾を軽く翻した。
「タケダ。あなた、頭で考えすぎよ。どっちが正解か、どうすれば誰も文句を言わないか。そんなの、世界で一番つまらないわ」
彼女の言葉は、慎太郎の脳髄に直接響くような鋭さを持っていた。
「大事なのは、あなたが今、何を感じて、何を求めているかよ。それだけ。……ねえ、ここから出ましょう」
「は?」
「この町、静かで美しいけど、今のあなたには少し風が必要みたい」
カルメンは有無を言わさず、慎太郎の手を引いて工房の入り口へと歩き出した。その力は驚くほど強く、そして何より、彼女の纏う圧倒的なエネルギーに気圧され、慎太郎は抵抗するタイミングを完全に失っていた。
「待て、俺は」
「シッ」
カルメンは振り返り、人差し指を唇に当てた。
「今日は頭を使うの、禁止。直感だけで動くのよ」
外に出ると、午後の日差しは少しだけ傾き始めていた。
カルメンは慎太郎の手を握ったまま、迷うことなく歩き出した。彼女の歩幅は大きく、リズムがある。時折、すれ違う町の人が、彼女の鮮やかな赤い服と、無精髭の男という奇妙な組み合わせを振り返って見ていくが、カルメンは他人の視線など全く気にする様子がない。
「どこへ行くつもりだ」
「風が吹くところ」
カルメンは振り返らずに答え、短い鼻歌を歌い始めた。工房で聴いたのと同じ、情熱的なメロディだ。
彼女に手を引かれて歩きながら、慎太郎は自分の内側で凝り固まっていた何かが、少しずつ揺さぶられていくのを感じていた。
昨日まで、いや、ほんの数十分前まで、自分は重圧に押し潰されそうになっていた。どうすれば正解なのか、どうすれば誰も傷つけずに済むのかと、出口のない思考を繰り返していた。
だが、目の前を歩くこのスペイン人の留学生の足取りには、そんな複雑な回路の欠片もなかった。
「ああ、綺麗な花!」
カルメンが突然立ち止まり、民家の生垣に咲いていた名も知らない赤い花に顔を近づけた。彼女は大きく息を吸い込み、うっとりと目を閉じる。
「タケダ、見て。この赤、私の服と同じくらい情熱的ね」
「……他人の家の花だぞ」
「だから? 誰のものかなんて関係ないわ。美しいものは、ただそこにあるだけで完璧なの。所有しようとか、意味を持たせようとするから、人は苦しくなるのよ」
カルメンはそう言って、再び慎太郎の手を引いて歩き出した。
彼女の足取りには、論理的な裏付けも、社会的な常識も存在しない。だが、その圧倒的な肯定感と自由さは、慎太郎の凝り固まった思考の枠組みを、いとも簡単に飛び越えていく。常に「正解」を求められ、期待に応えることを至上命題としてきた慎太郎の目には、彼女の存在自体が鮮烈なバグのように映った。
やがて、町並みが途切れ、潮の匂いが風に混じり始めた。
この町から数キロ離れた場所にある、小さな漁港と砂浜だ。夕暮れ時が近づき、空はオレンジ色と深い紫色のグラデーションに染まり始めている。波の音が、規則正しく耳に届いた。海鳥の鳴き声が、遠くでかすかに響く。
カルメンは砂浜に足を踏み入れると、履いていたサンダルを無造作に脱ぎ捨て、裸足になった。
「タケダも、靴を脱いで」
「いや、俺は」
「頭を使うのは禁止って言ったでしょ」
カルメンは強引に慎太郎のスニーカーの紐を解きにかかった。仕方なく、慎太郎は自らスニーカーと靴下を脱ぎ、砂の上に立った。
まだ熱を持った砂の感触が、足の裏から直接伝わってくる。
カルメンは波打ち際まで駆けていき、打ち寄せる白い波に足を入れた。赤いワンピースの裾が濡れるのも構わず、彼女は両手を広げて海風を全身で受け止める。
「最高! 生きてるって感じがするわ!」
彼女は振り返り、波打ち際に立つ慎太郎に向かって満面の笑みを向けた。
「タケダ、海はいいわよ。すべてのルールを洗い流してくれる。過去も、責任も、地位も、ここでは何の意味も持たない」
カルメンはゆっくりと歩み寄り、慎太郎の目の前で立ち止まった。
夕日を背にした彼女の顔は影になり、その深く情熱的な瞳だけが、琥珀色に光っていた。
「あなたは、真面目すぎるのよ。誰かの期待に応えるために、自分の心を殺して、正しい箱の中に収まろうとしてる。でも、そんなのちっとも美しくないわ」
カルメンは両手で慎太郎の頬を包み込んだ。
少し冷たい、だが確かな熱を持った手のひら。
「タケダ。あなたの瞳の奥には、まだ火が残ってる。私がそれを見つけてあげる」
彼女の顔が近づく。
香水の匂いではない、彼女自身の生命力の匂い。直感のままに生きる人間の、純粋で暴力的なほどの美しさが、すぐ目の前にあった。
「正解探しなんて、もうやめて」
カルメンの唇が、慎太郎の耳元で囁いた。
「今夜、あなたが本当は何をしたいか、私に教えて」
ざざあ、と波が砂を洗う音が大きく響いた。
足元から引いていく波の冷たさと、頬に触れるカルメンの手の熱。それだけが、今の慎太郎の世界のすべてだった。




