第13話 瑞穂の涙
土曜日の昼下がり。築四十年の実家の古い台所には、油で黒ずんだ換気扇の低い唸り声と、鉄のフライパンの上で油が爆ぜる音だけが響いていた。
開け放たれた小窓からは、初夏の生温かい風が入り込んでくる。父親は朝から町内会の用事で出かけており、家の中には慎太郎しかいなかった。
古い木製のまな板に包丁を落とす。トントンという規則正しい音が、静かな台所に響く。白ネギを微塵切りにし、生姜とニンニクを丁寧にすりおろす。食材と向き合っている間だけは、余計なことを考えずに済んだ。
コンロの火力を最大まで上げ、慎太郎は無心で中華鍋を煽っていた。額に微かに汗が滲むが、拭うことはしない。今はただ、目の前の鍋の中で起きている化学変化だけに集中したかった。
熱した油に、豆板醤と甜麺醤を落とす。じっくりと低温で火を入れていくと、刺激的な香りが油に溶け出し、赤黒い海ができる。そこに豚挽肉を投入し、水分が飛んでカリカリになるまで炒め続ける。ここで焦らずに旨味を極限まで凝縮させることが、麻婆豆腐の土台を決める。
鶏ガラスープを注ぎ、あらかじめ塩茹でして水抜きをしておいた木綿豆腐を滑り込ませる。軽く煮立たせ、豆腐の芯まで味を含ませた後、水溶き片栗粉でとろみをつける。最後に仕上げの油を回しかけ、強火で一気に焼き付けた。
火を止め、深皿に盛り付けた後、慎太郎は木製のミルを手に取った。
ガリガリと小気味よい音を立てて、たっぷりの花椒を表面に挽きかける。鮮烈な柑橘系の香りが、咽ぶような唐辛子の熱気とともに立ち昇った。いつもより多めに、舌が痺れるほどの山椒の量。今の自分には、これくらい強い刺激が必要だった。
シンクの横には、すでに一品が完成して小鉢に盛られている。
ターサイとブロッコリーの胡麻和え、中国黒酢掛けだ。
ターサイは特有のシャキシャキとした歯ごたえを残すため、沸騰した湯で十秒だけサッと湯通しし、氷水で急冷して鮮やかな緑色を閉じ込めた。ブロッコリーは蕾にソースが絡むよう、少し硬めに茹でてある。
味の決め手はタレだ。濃厚な練り胡麻に、醤油と少量の砂糖、そして香醋と呼ばれる中国黒酢を合わせた。ツンと鼻を突く独特の酸味と、長期熟成された深いコク。それが、瑞々しい緑黄色野菜の甘みと絶妙に絡み合うよう、分量を微調整してある。
最後に、スープの用意に取り掛かる。
慎太郎は小鍋に規定量よりわずかに少なめの湯を沸かし、市販のアマノフーズのフカヒレスープのフリーズドライブロックを落とした。
シュワッと音を立ててブロックが解け、黄金色のスープが広がる。
極細の白髪ネギと、ごくわずかなすりおろし生姜を加える。生姜の香りがスープの輪郭を引き締めたところで、火を弱める。
小さなボウルに卵を一つ割り入れ、白身のコシを切るようにしっかりと溶きほぐす。箸を小鍋の縁に沿わせてスープを静かに回転させながら、溶き卵を細く、高い位置から糸のように流し入れた。
卵がスープの中でふわっと花のように開いた瞬間、火を止める。仕上げに、香り高い純正の胡麻油を数滴。
コンロ周りを布巾で拭き上げ、すべてを食卓に並べ終えたその時だった。
玄関のインターホンが、ジリリと無機質な音を立てた。
近所の人間かと思いながら引き戸を開けると、そこに立っていたのは、小ぶりのハンドバッグを両手で握りしめた瑞穂だった。
「……お昼、まだですよね」
完璧に直されたメイク。シワ一つないブラウス。だが、昨夜の「鳥寅」で見せたあの冷ややかな余裕は消え去り、その大きな瞳には微かな緊張と焦燥の色が浮かんでいた。靴箱の横に立つ彼女の足元には、この古い日本家屋にはひどく不釣り合いな、華奢なヒールパンプスが並べられている。
慎太郎は短く息を吐き、引き戸を大きく開けて彼女を招き入れた。
居間のちゃぶ台に向かい合って座る。瑞穂は、目の前に並べられた中華料理の数々に目を丸くした。
「これ……武田さんが、作ったんですか?」
「ああ。少し作りすぎた。口に合うかはわからないが、食べていけ」
慎太郎が奥の食器棚から箸と小皿を取り出して差し出すと、瑞穂は「いただきます」と小さな声で言い、まずフカヒレスープに口をつけた。
一口飲んだ瞬間、彼女の動きがピタリと止まる。
「……美味しい。これ、本当にお店で出せる味ですよ。生姜と、胡麻油の香りが……卵もすごくふわふわで」
「ベースはアマノフーズのフリーズドライだ。少し手間を足しただけだ」
慎太郎が淡々と答えると、瑞穂は驚いたようにスープの器を見つめ、それから麻婆豆腐に箸を伸ばした。
花椒の強烈な痺れと、奥深い甜麺醤のコク。ターサイとブロッコリーの胡麻和えの、計算し尽くされた食感と黒酢の酸味。
瑞穂は黙々と箸を動かした。
花椒の刺激に小さく息を吐きながら、豆腐を崩さないようにすくい、口に運ぶ。その所作は洗練されていたが、箸を進めるペースは普段の彼女からは想像できないほど早かった。白いブラウスの胸元が、浅い呼吸に合わせて上下している。
丁寧に下ごしらえされた食材。緻密に計算された調味料の配合。ただの家庭料理の枠に収まらないそれらの皿は、目の前に座る男の変わらない本質を無言で物語っていた。
休職し、実家の台所に立っていても、彼の芯は折れていない。与えられた環境の中で最適解を導き出すその手腕は、何一つ損なわれていない。
瑞穂は最後の一口を飲み込み、そっと箸を置いた。だからこそ、彼女は諦めきれなかった。
食事が終わり、慎太郎が急須で淹れた温かい烏龍茶を二つの湯呑みに注いだ。
少し渋みのある香りが、麻婆豆腐の強い後味をすっきりと洗い流してくれる。開け放たれた窓から、遠くを走る車の走行音が微かに聞こえてきた。
湯呑みの表面を指先でなぞりながら、瑞穂が静かに口を開いた。
「……昨夜は、申し訳ありませんでした」
声は低く、ひどく真剣だった。
「感情的になって、武田さんのプライベートな時間に土足で踏み込んで。……あんな油まみれのお店で、知らない女性と一緒にいる武田さんを見たら、どうしても納得がいかなくて」
「謝る必要はない。俺が勝手に通っているだけだ」
慎太郎は烏龍茶を一口飲み、静かに答えた。
瑞穂は湯呑みから手を離し、自分の膝の上で両手を固く握りしめた。
「どうしてですか」
絞り出すような声だった。
「武田さんは、あんな埃っぽい場所で満足するような人じゃありません。先ほどのお料理だってそうです。武田さんの能力は、妥協を許さない姿勢は、何一つ失われていないじゃないですか」
瑞穂の大きな瞳が、射抜くように慎太郎を見据える。その奥には、昨日の敵意とは違う、もっと切実で純粋な願いが燃えていた。
「シンガポールの案件、武田さんが抜けてから本当にガタガタなんです。誰も武田さんの代わりなんてできない。役員も、クライアントも、みんな武田さんの帰りを待っています。私も……待っています」
瑞穂は身を乗り出し、ちゃぶ台越しに慎太郎へと顔を近づけた。微かに震える彼女の吐息が伝わってくるほどの距離だった。
「あんな……あんな、地元の名もない女の子が、武田さんに何をしてくれるんですか? 私は、武田さんの仕事の凄さも、背負ってきた責任の重さも、全部知っています。私が全力でサポートしますから。だから、一緒に東京に帰ってください」
洗練された香水の香りが、烏龍茶の湯気と混ざり合う。
ちゃぶ台に身を乗り出した瑞穂の大きな瞳は、すがるように慎太郎を見つめていた。白く滑らかな指先が、膝の上で白く鬱血するほど強く握りしめられている。
彼女の切実な願いは、痛いほど理解できた。
だが、慎太郎の脳裏に浮かんだのは、六本木のオフィスの夜景ではなかった。
高架下の赤提灯。電車が通過する轟音と、紫煙が立ち込める薄暗い空間。そこで無言で自分のグラスにビールを注いでくれた、みどりの油汚れの染み付いた指先だった。
同情も哀れみも持たない、ただのフラットな眼差し。それがどれほど今の自分にとって救いとなっているか、瑞穂に説明しても理解されないだろう。
「……瑞穂」
慎太郎は湯呑みを置き、瑞穂の切実な視線を真っ向から受け止めた。
「お前が見ているのは、有能だった過去の俺だ」
「そんなことありません! 私は今の武田さんだって……」
「俺は、今の俺がどういう状態か、痛いほどわかっている。パソコンの画面を見るだけで動悸がする。誰かの期待に応えようとすると、喉の奥が塞がって息ができなくなる。……東京に戻れば、俺はまた必ず壊れる」
慎太郎の声は平坦で、だからこそ決定的な拒絶を含んでいた。
「お前は、俺に元の場所に戻れと言う。だが……俺はもう、誰かの期待に応え続ける息苦しさに耐えられない」
瑞穂の息を呑む音が聞こえた。
「彼女は、俺に何も求めなかった。無様な逃亡を、ただの事実としてそのまま置いておいてくれた。……俺はあそこで腐っているんじゃない。息をさせてもらっているんだ」
瑞穂の肩が、ビクッと大きく跳ねた。
彼女の顔から、計算された大人の余裕も、強気なキャリアウーマンの仮面も、すべてが剥がれ落ちた。
「……なんで」
震える唇から、掠れた声が漏れる。
「なんで、私じゃ駄目なんですか……っ」
瑞穂の大きな瞳から、ぽろりと大粒の涙がこぼれ落ちた。
それは一筋の線となって彼女の白い頬を伝い、ちゃぶ台の上に小さな染みを作った。
完璧なメイクが涙で滲むのも構わず、彼女は両手で顔を覆い、しゃくり上げるように泣き始めた。
肩を震わせ、声を押し殺して泣く姿は、東京のオフィスで見せていた隙のないキャリアウーマンのそれとはまるで別人のようだった。欲しいものを何でも手に入れてきた彼女が、どうしても手が届かないものに直面した時の、子供のように無防備で純粋な悲しみだった。
古時計の秒針の音と、瑞穂の静かなすすり泣きだけが、初夏の居間に響いている。
慎太郎はかけるべき慰めの言葉を持たず、ただ自分の手元にある、冷めかけた烏龍茶の水面をじっと見つめ続けることしかできなかった。




