第12話 嫉妬の火花
日曜日の朝。
薄く開けた窓の隙間から、湿気を帯びた生温かい風が台所へ入り込んでくる。遠くで鳴り始めた蝉の声が、今日も容赦なく気温が上がることを予感させていた。
慎太郎は冷蔵庫の扉を開け、冷気の奥から黒いラベルの瓶を取り出した。
もろみしぼり酢。帰郷してから父親が「体にいいから飲め」と買ってきたものだ。
グラスの底に大さじ一杯ほどの赤茶色い液体を注ぎ、ミネラルウォーターで割る。グラスの表面にうっすらと結露が浮かぶのを指先で感じながら、氷を一つだけ落とし、マドラーで静かにかき混ぜた。カラン、と涼しげな音が古い台所に響く。
それから、小さなガラスの鉢にプレーンヨーグルトを移し、木製のスプーンで蜂蜜をたっぷりと垂らす。黄金色の粘り気のある液体が、真っ白なヨーグルトの上に幾何学的な模様を描いて落ち、ゆっくりと沈み込んでいった。
テーブルにつき、まずはグラスに口をつける。
ツンとした強い酸味が舌を刺し、その後に熟成されたもろみの独特のコクが喉の奥へと滑り落ちていく。鼻腔に抜ける強烈な香りが、昨日から頭の芯にこびりついていたハイブランドの香水の匂いを、わずかに上書きしてくれたような気がした。
ヨーグルトをスプーンですくう。蜂蜜の濃厚な甘さと、ヨーグルトの乳酸の酸味。はっきりと輪郭を持った「味」が、空っぽだった胃袋に落ちて熱に変わる。
美味い、と感じた。生きている内臓が、栄養を吸収して動こうとしているのがわかる。
テーブルの端に裏返して置いてあったスマートフォンが、ブブッ、と短く振動した。
手を止め、画面を表に返す。ロック画面には『岩崎瑞穂』からのメッセージ通知が表示されていた。
『おはようございます。今日の午後、少しだけお時間いただけませんか』
慎太郎はスプーンを置き、画面を見つめた。
昨日、駅前の喫茶店で彼女が向けた、一切の妥協を許さない真っ直ぐな瞳が脳裏をよぎる。有能で、完璧で、自分を元の戦場へ引き戻そうとする強烈な引力。
慎太郎は画面をタップし、短い返信を打ち込んだ。
『会うつもりはない。明日は気をつけて帰れ』
送信ボタンを押し、再びスマートフォンを裏返す。すぐに短い振動があったが、今度は画面を見なかった。
残りのヨーグルトを口に運び、静かに咀嚼する。壁掛け時計の秒針の音だけが、実家の台所に規則正しく響いていた。
それから、数日が過ぎた。
金曜日の午後8時。慎太郎はいつものように、高架下の暗がりに立っていた。
頭上を重い金属音を響かせて数両編成のローカル線が通り過ぎていく。コンクリートの柱を伝って足元から這い上がってくるような地響きが遠ざかるのを待ち、『鳥寅』の油じみた引き戸に手をかけた。
ガラガラと軋む音とともに、換気扇から溢れ出た白い煙と、焦げた醤油の匂いが視界を覆う。
「いらっしゃい」
女将の短い声に軽く会釈をし、店内を見渡す。
入り口から一番近いカウンターの隅。定位置に、くすんだ紺色の作業着の背中があった。
みどりだった。
彼女は右手でウーロン茶のグラスを持ち、左手でスマートフォンの画面をスクロールしている。慎太郎が隣のパイプ椅子を引き寄せて座ると、彼女は画面から視線を外し、ちらりとこちらを見た。
「よ」
「遅いじゃん。もう8時15分だよ」
「少し、歩くペースが遅かったらしい」
慎太郎は女将に瓶ビールと串を数本頼み、自分のグラスにビールを注いだ。
二人の間に特別な会話はない。テレビから流れるバラエティ番組の笑い声と、焼き台から上がる煙の音だけが間を埋めている。無理に言葉を探す必要もなく、沈黙が気まずいわけでもない。ただ隣に座って、それぞれのペースでグラスを傾ける。肩に力が入らない、ただそこにあるだけの時間だった。
慎太郎がビールを一口飲んだ時、みどりが不意に鼻をすんすんと鳴らし、少し顔を近づけてきた。
「……なんか、しんちゃん」
「なんだ」
「先週から思ってたんだけど、なんか匂い変わった? 前はもっと、無臭っていうか、消毒液みたいな匂いだったのに」
「消毒液ってなんだ。……親父に勧められて、朝にもろみ酢を飲んでる。それかもしれないな」
「ふーん。健康志向じゃん。おっさんくさ」
みどりが口角を上げて笑い、ウーロン茶のグラスを傾けた時だった。
ガラガラッ、と、普段の常連客が来る時よりも少し勢いよく引き戸が開いた。
初夏の生温かい夜風とともに、この煙たい空間にはおよそ似つかわしくない、キャスターがコンクリートを擦る音が店内に響いた。
慎太郎は振り返り、そして全身の筋肉を硬直させた。
入り口に立っていたのは、小ぶりのキャリーケースを手にした瑞穂だった。
月曜日の朝に帰ったはずの彼女が、なぜここにいるのか。
完璧にセットされた髪、体のラインを美しく見せるノースリーブのブラウスと、細身のパンツスタイル。足元は華奢なヒール。首元で光る一粒ダイヤのネックレスが、店の裸電球の光を弾いている。
「……瑞穂」
慎太郎が低く呻くように名前を呼ぶと、瑞穂は慎太郎の姿を認め、その赤い唇を少しだけ綻ばせた。
「やっぱり、ここにいらっしゃったんですね」
ヒールを鳴らし、瑞穂が慎太郎の横へと歩み寄ってくる。彼女が動くたびに、洗練されたフローラル系の香水が、店内の焦げた醤油と豚の脂の匂いを鋭く切り裂いた。
「なぜ、お前が」
「どうしても諦めきれなくて。今日の午後、半休を取って新幹線に乗りました。ご実家に伺ったら、お父様が『金曜の夜はいつも高架下の焼き鳥屋にいる』と教えてくださって」
悪びれる様子もなく、瑞穂は微笑んだ。その瞳の奥には、欲しいものは絶対に逃さないという強烈な意志が燃えている。
「武田さん、こんな埃っぽくて煙たいお店に、毎週通っていらっしゃるんですか? スーツに匂いが……あ、今はスーツ、着ていらっしゃらないんでしたね」
瑞穂は軽く店内を見渡し、少しだけ眉をひそめた。その指先が、無意識にブラウスの襟元を正す。
その時、瑞穂の視線が、慎太郎の隣に座っているみどりでピタリと止まった。
みどりはスマートフォンをカウンターに伏せ、無表情のまま瑞穂を見上げていた。
サイズの合わない、油汚れが染み付いた作業着。無造作にクリップで留められた赤毛。化粧っ気のない顔と、細かい生傷が絶えない指先。
瑞穂の目が、瞬時にみどりを上から下へと値踏みするように動いたのがわかった。そして、瑞穂の口元に、どこか見下すような、冷ややかな余裕を持った笑みが浮かんだ。
「……武田さん。こちら、地元のお知り合いですか?」
瑞穂の言葉には、明確な線引きがあった。自分たちのいる世界と、目の前の油まみれの少女がいる世界は違う、という線引きだ。
「昔からの、近所の知り合いだ。みどり、こちらは……東京の、元の職場の部下だ。岩崎という」
慎太郎が紹介すると、瑞穂は完璧な営業スマイルを顔に貼り付け、みどりに向かって軽く会釈をした。
「岩崎です。武田さんがいつもお世話になっているみたいで」
その「お世話になっている」という言葉の裏には、「私が迎えに来るまでの間だけ」という含意が透けて見えた。
みどりは会釈を返すこともなく、頬杖をついたまま瑞穂の顔をじっと見つめた。
数秒の沈黙。換気扇の低い唸り声と、焼き台から爆ぜる炭の音だけが響く。
やがて、みどりは短く息を吐き、口を開いた。
「……あんたさ」
ハスキーで、一切の愛想がない声。
「香水、キツいんだけど。焼き鳥の匂いわかんなくなる」
瑞穂の完璧な笑顔が、ピシッと音を立てて凍りついた。
少し目を丸くした後、瑞穂の瞳に明確な敵意の火花が散る。だが、彼女はすぐに余裕を取り戻したように口角を上げた。
「……ごめんなさいね。オフィスから直行してきたもので。あなたのように、ずっと地元で作業着を着ていらっしゃる方には、あまり馴染みのない匂いかもしれませんね」
丁寧な言葉遣いの中に隠された、鋭い刃。
だが、みどりはその刃を全く意に介さなかった。鼻で小さく笑い、自分のウーロン茶のグラスを手で弄ぶ。
「馴染みがないっていうか、単純に臭いって言ってんの。ここ、メシ食うところだから」
瑞穂の白い頬が、微かに引き攣った。
「武田さん」
瑞穂はみどりから視線を外し、慎太郎に向き直った。その声には、苛立ちと焦りが混じっていた。
「こんなところで時間を潰すのは、もうやめにしませんか。場所を変えて、少し話を」
「断る」
慎太郎は間髪入れずに返した。自分のグラスに残っていたビールを煽り、瑞穂を冷たい目で見据える。
「ここは俺のプライベートな時間だ。お前に踏み込まれる筋合いはない。帰れ」
「プライベートって……ただこんなところで、油にまみれて飲んでいるだけじゃないですか! 武田さんの居場所は、ここじゃありません!」
瑞穂の声が、店内に鋭く響いた。女将が焼き台の手を止め、ちらりとこちらを見る。
その時、みどりが無言のまま、慎太郎の前に置かれていたビールの空瓶を手に取った。
そのまま、慎太郎のグラスに、トクトクと残りのビールを注ぎ足す。
「しんちゃん、ビール空いてるよ」
みどりの声は、驚くほど平坦で、自然だった。張り詰めた空気を完全に無視した、日常の延長にある動作。
慎太郎はみどりの手からグラスを受け取り、「ああ、悪い」と短く答えた。
瑞穂は、息を呑んだ。
二人の間に流れる、言葉のいらない静かなやり取り。そこには、瑞穂がどれほど手を伸ばしても決して触れることのできない、絶対的な距離感と拒絶があった。
瑞穂の視線が、慎太郎の少し緩んだ横顔と、みどりの無関心な横顔を行き来する。
ギリッ、と小さな音がした。
瑞穂の両手が、キャリーケースの持ち手を白くなるほど強く握りしめている。その華奢な肩が微かに震え、大きな瞳が、激しい感情の揺れで濡れていた。完璧に計算された彼女の余裕が、音を立てて崩れ落ちていくのがわかった。
「……失礼しました。また、改めます」
瑞穂は震える声でそれだけを絞り出し、踵を返した。
ガラガラと引き戸が開けられ、ヒールの音とキャスターの音が、暗い夜道へと遠ざかっていく。
引き戸が完全に閉まり、店内には再びテレビの音声と、肉の焼けるチリチリという音だけが残された。
みどりはウーロン茶のグラスを持ち上げ、氷をカラカラと鳴らした。
「……すごい執念だね、東京の女」
「……」
慎太郎はグラスの冷たい表面を指でなぞりながら、深く息を吐き出した。
「ああ。厄介なことになった」
店先の赤提灯が、初夏の夜風に吹かれてギシギシと揺れる。
遠くで国道を走る大型トラックの低い排気音が響く中、微かに残っていたフローラルな香水の匂いは、焦げた醤油の煙とともに換気扇へと吸い込まれ、あっけなく消えていった。




