第11話 東京からの刺客
網戸越しに聞こえる蝉の声が、昨日よりも少しだけ大きく感じられた。
土曜日の昼下がり。慎太郎は実家の縁側に腰を下ろし、冷えた麦茶の入ったグラスを片手に、庭の隅で伸び放題になっている雑草をぼんやりと眺めていた。
じっとりとした湿気を帯びた風が、庭の青葉を揺らして吹き抜けていく。
昨夜、高架下の赤提灯でみどりに告げた言葉が、まだ胸の奥に確かな感触として残っている。
逃げ出した自分を、彼女はただの事実として受け入れ、肯定してくれた。「逃げて正解だったんじゃないの」という、そのあまりにも軽い、だが強靭な芯を持った言葉は、慎太郎の肩にのしかかっていた見えない重圧を確かに削ぎ落としていた。
もちろん、適応障害の症状が完全に消え去ったわけではない。未来への焦燥感も、社会から切り離されているという不安も、依然として腹の底でくすぶっている。それでも、数週間前のように、呼吸の仕方を忘れて布団の中でうずくまるような底なしの暗闇からは、抜け出せている気がした。
縁側の板張りに置かれたスマートフォンが、不意に短く振動した。
ブブッ、という無機質な音が、静かな日本家屋にやけに大きく響く。
画面が明るくなり、着信を知らせる表示が出る。ここ数ヶ月、父親以外からの着信はすべて通知を切るか、無視してきた。会社関係の人間からの連絡など、今の慎太郎にとっては劇薬でしかないからだ。
だが、画面に表示された名前に、慎太郎は無意識に息を止めた。
『岩崎瑞穂』
直属の部下だった女だ。
画面が明滅を続ける。普段ならそのまま放っておくところだが、なぜか嫌な予感がした。彼女は、無視されたからといって素直に引き下がるような性格ではない。欲しいものは自分から掴みにいく、目的のためなら手段を選ばない計算高さと行動力を持っている。
コールが切れる寸前、慎太郎は通話ボタンをスワイプして耳に当てた。
「……はい」
「武田さん」
スピーカー越しに聞こえてきたのは、微かに周囲の雑踏の音を拾った、凛とした声だった。
「岩崎です。今、駅前のロータリーにいます。南口の、時計台の下です」
慎太郎はグラスを持ったまま、完全に動きを止めた。水滴が指を伝って縁側の板張りに落ちる。
「……今、なんと?」
「ですから、駅前にいます。少し迷ったんですけど、新幹線から在来線への乗り継ぎ、けっこう不便ですねここ」
平然とした声の裏で、バスのブレーキ音が鳴るのが聞こえた。幻聴ではない。彼女は本当に、東京から数百キロ離れたこの地方都市に立っているのだ。
「なぜ、お前がここにいる」
「連絡が取れないからです。心配するに決まってるじゃないですか。……迎えに来ていただけますよね? 私、この町のこと全くわからないんで」
有無を言わさぬ口調でそう言い切ると、瑞穂は一方的に通話を切った。
ツーツーという電子音が響くスマートフォンを見つめ、慎太郎は深く、重い溜息をついた。
十五分後。慎太郎は実家の古い軽自動車を運転し、駅前のロータリーに滑り込んだ。
週末とはいえ、シャッターの閉まった店が多い駅前は閑散としている。日差しを遮るもののないアスファルトの上で、時計台の下に立つ彼女の姿は、ひどく浮き上がって見えた。
遠目からでもわかる、完璧に計算されたメイク。身体のラインを美しく見せる、シワ一つない上質なシルクのブラウスと、タイトなネイビースカート。手にはブランドの革のハンドバッグが握られ、足元は華奢なヒールパンプスだった。
彼女の周囲だけ、空間が切り取られて六本木のオフィス街に繋がっているかのような、強烈な違和感があった。すれ違う数少ない地元の人間たちが、皆一様に彼女を振り返っている。
慎太郎が車の窓を開けると、瑞穂が気づいて小走りに近づいてきた。
「武田さん」
瑞穂は助手席のドアを開け、車内に滑り込んだ。
ドアが閉まった瞬間、密閉された空間に彼女の纏うハイブランドの香水の匂いが充満した。洗練された、甘く鋭いフローラル系の香り。
その匂いを吸い込んだ瞬間、慎太郎の脳裏に暴力的なフラッシュバックが襲いかかった。
冷え切った空調の唸り声。デュアルディスプレイの青白い光。滝のように流れるエクセルの数字の羅列。
『武田さん、そのシミュレーション、私が引き取りますよ』
あの夜、限界を迎えた自分に声をかけてきた瑞穂の姿が、鮮明に蘇る。急激に視界の端が暗く狭まり、心臓の鼓動が耳の奥でドクン、ドクンと嫌な音を立て始めた。
息が浅くなる。指先が微かに冷たくなり、ハンドルのレザーを握る手にじわりと嫌な汗が滲んだ。
「……武田さん?」
瑞穂の不審そうな声に、慎太郎はハッとして我に返った。深く息を吸い込み、どうにか鼓動を落ち着かせる。
「……悪い。少し、驚いただけで」
「驚くのは私の方ですよ」
瑞穂は、助手席から慎太郎の顔をじっと見つめた。その大きな瞳が、少しだけ見開かれている。彼女の視線が、無造作に伸びた慎太郎の無精髭と、よれたシャツの襟元、そして疲労の色が抜けない目元を上から下へと行き来した。言葉を探すように、彼女の少し赤い唇が微かに開いては閉じる。
「休職中だからな。誰に見せる顔でもない」
慎太郎は前を向いたまま答え、ギアをドライブに入れて車を発進させた。
ロータリーを出て、見慣れた県道へと車を走らせる。バックミラー越しに、瑞穂の足元に置かれた小ぶりのキャリーケースが目に入った。日帰りの荷物ではない。
「……お前、有休か」
「はい。金曜の午後から休ませてもらって、昨日の夜にはこっちに着いていました。どうしても、直接お顔を見て話がしたかったんです」
「わざわざこんな田舎まで来る必要はなかった。俺は、ただ休んでいるだけだ」
「その『ただ休んでいる』状態がいつまで続くのか、誰にもわからないから来たんです」
瑞穂の声には、微かな苛立ちが混じっていた。
「どこか、落ち着いて話せる場所はありますか? お茶でもしながら」
慎太郎は無言のままウインカーを出し、駅前から少し離れた場所にある、昔ながらの静かな喫茶店へと車を向けた。
ステンドグラスのランプが薄暗い店内を照らす、古びた純喫茶。ベルベット張りのボックス席に座り、コーヒーを注文すると、瑞穂はすぐにバッグから見慣れた薄型のタブレットを取り出した。
「武田さんがいなくなってから、部内は本当に大変なんですよ」
瑞穂はタブレットの画面をスクロールさせながら、淀みなく話し始めた。画面には、色分けされたスケジュールと、細かな数字の羅列が表示されている。
「あのシンガポールのインフラ案件、後任の佐々木さんじゃ全然回せてなくて。先方の担当者も、武田さんじゃないと話が進まないって渋り始めてるんです。役員会議でも、武田さんの復帰時期について何度も議題に上がってます。皆、武田さんを待ってるんです」
瑞穂はタブレットの画面を指先で弾きながら、部内の状況を早口でまくしたてた。その口調には、かつて慎太郎と共に最前線で戦っていた時の熱が帯びている。
カチャリ、と瑞穂がコーヒーカップをソーサーに置く音がした。
その洗練された所作すら、今の慎太郎にはオフィスのノイズに聞こえる。彼女の言葉は、一つ残らず重い呪いとなって、慎太郎の胃の底に沈んでいった。
「……俺は、もう関係ない」
慎太郎は、自分の前にある手付かずのアイスコーヒーを見つめたまま、絞り出すように言った。グラスの表面についた水滴が、コースターに向かってゆっくりと垂れ落ちていく。
「あの案件は佐々木に引き継いだ。会社がどう回ろうと、今の俺には知ったことじゃない」
瑞穂の手がピタリと止まった。
「関係ないって……武田さんが立ち上げたプロジェクトじゃないですか。あんなに寝る間も惜しんで、完璧に作り上げてきたのに。それを他人に取られて、悔しくないんですか?」
「悔しいとか、そういう次元の話じゃない」
慎太郎は顔を上げ、瑞穂の真っ直ぐな瞳を正面から見据えた。
「俺は、心が折れたんだ。画面の数字を見るだけで吐き気がする。お前が今出しているそのタブレットを見るだけで、動悸がする。……俺は、お前が思っているような有能な人間じゃない。ただプレッシャーに潰されて、逃げ出しただけの男だ」
昨日、みどりに対しては自然に言えた言葉だった。だが、瑞穂に対して口にすると、まるで自分の内臓を無理やり吐き出しているような痛みが伴った。
瑞穂は目を丸くし、数秒間言葉を失っていた。彼女の知る「武田慎太郎」の口から、そんな弱音が出るなど想像もしていなかったのだろう。
だが、すぐに彼女は唇を強く引き結び、勝ち気な光を瞳に宿した。
「……そんなの、武田さんらしくないです」
「らしくない、か」
「はい。武田さんは、どんな理不尽な状況でも必ず結果を出してきた人です。ただ少し、疲れが溜まっていただけですよ。しっかり休んで、また戻ってくればいいんです。私が全力でサポートしますから」
瑞穂は身を乗り出し、テーブルの上で慎太郎の手に自分の手を重ねようとした。
白く、手入れの行き届いた滑らかな指先。
だが慎太郎は、反射的にビクッと身体を強張らせ、その手が触れる前に自分の手をテーブルの下へと引いてしまった。
空を切った瑞穂の手が、不自然に空中で止まる。
「……武田、さん?」
瑞穂の声が微かに震えていた。傷ついたような、信じられないような目で慎太郎を見ている。
「……悪い。だが、俺に期待するな」
慎太郎は低い声で告げた。
「俺は、お前が待っているような場所には、もう戻れないかもしれない」
みどりの油まみれの作業着と、鉄の粉が染み付いた指先が脳裏をよぎる。「逃げて正解だった」と笑ってくれた彼女の乾いた声と、目の前にいる瑞穂の「逃げないで」という切実な願い。
全く相反する二つのベクトルが、慎太郎の頭の中で軋み、火花を散らしている。
瑞穂は空中に残された自分の手をゆっくりと引き戻し、膝の上で固く握りしめた。彼女の目は少し潤んでいたが、それでも決して視線を逸らそうとはしなかった。
「……期待じゃないです。事実を言っているだけです」
瑞穂は震える声を必死に抑え込み、毅然とした態度を崩さなかった。
「武田さんは、こんな何もない町で、ただ日陰に隠れて腐っていくような人じゃありません。絶対に、元の場所に戻るべき人です」
瑞穂の大きな瞳が、射抜くように慎太郎を見据えていた。一切の妥協を許さない、真っ直ぐで強烈な光。その純粋すぎる重圧が、今の慎太郎にはひどく息苦しかった。
壁掛けの古時計が、重々しい音を立てて時を刻む。
「……今日はもう、休め。ホテルは取ってあるのか」
これ以上彼女と向かい合っていると、本当に呼吸ができなくなりそうだった。慎太郎が話を切り上げようとすると、瑞穂は小さく頷いた。
「駅前のビジネスホテルを取ってあります」
「送る。会計は俺がするから、車に乗ってろ」
慎太郎が伝票を手に取って立ち上がると、瑞穂も無言で席を立った。
ホテルまでの短い道のり、車内には重い沈黙が流れていた。
時折すれ違う対向車のロードノイズだけが、二人の間を通り抜けていく。
駅前のホテルのエントランスに車を停める。瑞穂が助手席のドアを開け、外に出た。
「……送っていただいて、ありがとうございます」
「ああ。気を付けて帰れよ」
慎太郎がそのまま別れを告げようとした時、瑞穂が車の窓枠に両手をつき、開いた窓越しに慎太郎の顔を覗き込んできた。
「帰りませんよ」
彼女は、小悪魔的な、だが決して引かない強さを持った笑みを浮かべていた。
「月曜の朝まではここにいます。明日も、また連絡しますから。……私、武田さんが元に戻るまで、絶対に諦めませんからね」
瑞穂はそれだけ言うと、一歩身を引き、ヒールを鳴らしてエントランスの自動ドアの中へと消えていった。
慎太郎はハンドルに額を押し当て、深く、長い息を吐き出した。
助手席の窓を閉めても、車内に残った甘い香水の匂いが、いつまでも粘りつくように鼻腔に居座っていた。東京という過去の亡霊が、明確な実体を持ってこの町に現れたのだ。
ようやく静かになりかけていた水面が、再び激しく波立ち始めているのを感じながら、慎太郎はゆっくりと車を発進させた。




