765 リノ、その奇跡と引き換えに
まぶしい日差しで目が覚めて、頬を圧する固い地面を認識すると、アマンはパッと跳ね起きた。
「東京だな、また」
周囲を改めるまでもなかった。
「おはよう」
そばのベンチにシオリもいた。
何も言わずにアマンはシオリの隣に腰かけた。
そのまま黙ってふたりはじっと空を見つめていた。
昨日目覚めた時と何も変わらない。
今日も少し雲が多いが日差しはまぶしく、街行く人々も陽気に見える。
「今夜は年に一度の隅田川花火大会なんだろ」
アマンの台詞にシオリは「そうだよ」と小さく答えた。
またしばらくふたりの間を沈黙が支配した。
時だけが静かに流れていく。
そのときは刻一刻と迫ってくるのに。
「いつまで繰り返すんだ、これ」
「わからない」
アマンは二度体験しただけだが、シオリはそれ以上だ。
昨夜のことを思い返すと知らずアマンは身震いした。
「どうすれば終わるんだ、これ」
「わからない」
ふたりはそろってため息を吐いた。
「やっぱあれに勝たないとダメなのかなあ」
アマンにしては珍しく弱気な物言いだった。
好奇心が強く、楽観的で、常にポジティブが身上のアマンが、である。
「なんもできなかったな」
シオリからの返事はなかった。
シオリからすれば思った通りの結果に過ぎない。
シオリとて最初のうちは抗ってみせたにちがいないのだ。
「正直、どうやって負けたのかもよくわかんなかったよ」
「わたしもです」
どんな力が働いて敗れたのか。
難しいことはわからないが、とにかく近付くだけで存在自体が消滅する、そんな気分を味あわされた。
「今夜はどうする? また出るんだろ」
「たぶん、今までもそうだったし」
戦うにも術がない。
逃げようにも世界が崩壊するたびにここで目覚める夢のループだ。
「とにかく歩こうぜ」
じっとしてても答えは見つからない。
まずは動く以外にすべきことをアマンは知らないのだ。
アマンにとっては三日目となる東京観光だ。
相変わらず物珍しさにキョロキョロしてしまう。
この後に避けようがない大惨事が待ち構えていることは承知しているが、今この時の高揚感はまた別物なのだ。
ふたりとも、また変わらない明日が来ると知っているので、問題を考えることを一時的に放棄していた。
というよりあきらめ、あるいは明日に丸投げ、もしくは逃避。
本人たちにその気がないとしても、一時考えることを投げ出していたとて無理はあるまい。
そうして一見普通に、だが内心はトボトボとした足取りで、ふたりはいつしか下町風の路地裏に入り込んでいた。
今日は都心、ビジネス街、歓楽街、観光地を避け、住宅街をそぞろ歩いた。
自然にこの方へ流れてきたはずだが、シオリの心はざわついた。
ここは見覚えのある景色だ。
見覚えのある曲がり角、見覚えのある立て看板、見覚えのある公園に、神社、境内。
木陰を渡る風は心地よく、ふたりはそこでふと足を止めていた。
静かな時間が午後の日差しを浴びて落ち着いた気持ちにさせてくれる。
「あら?」
不意に背中側から声を掛けられた。
振り返るとそこに三十代後半と思しき女性が口元に手を添え驚いた顔をして立っていた。
「オシリ……?」
「ッ!」
シオリは息が止まるかと思った。
目の前に立つ女性にもまた見覚えがある。
面影があるのだ。
「リノ……」
シオリのつぶやきはとても小さく、女性にも、アマンにさえも届かなかった。
「あ、ごめんなさいね。高校時代の友達にあなたが似ていたので、つい……」
女性は慌てた様子で頭を下げた。
「そんなわけなかったわね。あなた、どう見ても私と同い年には見えないもの」
「あ……ええ。そうですね。……たぶん、人違いです」
シオリはそう答えてくるりと背を向けた。
「なあ、その友達とはもう会ってないのか?」
アマンが女性に尋ねると、女性は少し寂しそうな表情になった。
「ええ。もう二十年ぐらい行方不明なんです」
「ッ!」
シオリが息をのむ気配をアマンは察した。
「私ね、高校のころ交通事故で足が不自由になって、そんな私を懸命に励ましてくれたんだけど、でもその優しさに私は応えることが出来なかったの。それでいつしか疎遠になってしまって……」
「……」
「それで私、いつもこの境内でひとり、リハビリを頑張っていたの。また歩けるようになってオシリ……シオリっていうんだけどね、シオリとまた一緒に仲良くなりたいって」
風に吹かれて梢が鳴る。
「ある日ね、足が治ったの! ほら、いま私歩いてるでしょ。奇跡が起きたんだって、うれしくて、それでシオリに会いたくなって」
そこで女性の顔がまた寂しそうになる。
「でもその日以来、シオリはいなくなってしまったの。きっとこの世界から別の世界に行ってしまったんだと思う」
「どうしてそう思うんだ?」
「どうしてだろう。でもそう思うの。たぶん、私の足もきっとシオリが治してくれたんだと私は思うの」
そのとき遠くから駆けてくる小さな女の子の姿があった。
「ママ~」
「ミカ、走ったら転ぶわよ」
「あっ」
ベシッ! と女の子はものの見事に転んでしまった。
「ほらほら泣かない、泣かない」
「うん……ぐしゅ……なかない」
「いい子ね。今夜はママお仕事だけど、ばあばのおうちでいい子にしててね」
「うん……ぐしゅ」
「あ、あの!」
女の子の手を握って立ち去りかけた女性だったが、シオリがそれを呼び止めた。
「はい?」
「あ、あの……できたら……いえ、できたらじゃなくて、今夜は……」
女性はじっとシオリの事を見つめていた。
「今夜はお仕事を休んでその子と一緒にいてあげてくださいッ」
「……そうしてあげたいんだけど、パートを休むわけにもいかなくてねぇ」
「お願いしますッ」
シオリが頭まで下げるので女性は困惑してしまったようだ。
「花火大会の日ぐらい子供といてあげてもいいんじゃないかな」
アマンもそう言ったので女性もほだされたようだ。
「そうね。たまには子供優先の日があってもいいですよね」
「じゃあ……」
「シオリに似た人に言われたんですもの。きっとなにかの運命かもしれないわね。ふふ、私そういう不思議な感じとっても好きなの」
知ってる! リノはいつだって不思議なことを求めていた。
シオリは込み上げてくるものを必死にこらえた。
リノとミカの母娘が帰っていくのを見えなくなるまで見つめ続けた。
目に焼き付けたかった。
「せめて最期の瞬間を一緒にか。やっぱり今夜も世界は崩壊するんだろうな」
アマンは非情だと知りつつそう告げた。
「そうかもしれない。だってこれはもう過ぎ去った過去の出来事なんだもの」
「おい! シオリッ」
アマンが驚きの声を上げた。
境内の中で突然白く光る柱のようなものが出現したのだ。
「なんだ、これ? お前がやったのか?」
「ちがいます。でも」
既視感があった。
思い出される。
立ち上がりかけたリノの姿を見た瞬間、シオリは光に包まれて、そして……。
「アマンさん、飛び込みましょう」
「あ?」
言うやシオリは光の柱に飛び込んだ。
慌ててアマンもその後を追う。
一層強い光を発したかと思うと、光は空高く伸び上がり、そしてパッと弾けて消え去った。




