760 異世界
かすかに甘い香りが立ち込める暗い部屋に、重厚な造りの棺がひとつ安置されていた。
部屋には明確な灯りなどなく、片隅に置かれた香炉と、わずかに光を発すいくつかの魔道具によるか細い明りに頼る以外、あとは目を凝らすしかなかった。
しかし冥界の青い果実ブルーカーバンクルを食したことで、不死人ラー・シャイとなったアマンの金色に光る眼にはそれだけで十分に視えるのだ。
アマンにとって、もはや闇は黒でも陰でもない。
より親しみすら感じるモノだった。
闇は人に恐怖を感じさせる。
しかし闇に寄り添うことを覚えたアマンには、もう怖いものなど無きに等しい。
そのアマンの目からしてもその棺は黒かった。
闇よりも深く、この世で最も黒い棺。
これほどに深い黒をアマンは他に知らない。
しかし当然、恐怖を覚えたりはしなかった。
「なあ、起きてるか?」
棺に手を置き、そっと尋ねる。
どこからも返事はない。
そうなんだろう、と思いながら、アマンは重い棺のフタを動かそうとした。
ズズズ、と少しずつ引きずりながらフタをずらしていく。
棺に対して斜めにずらしたフタとの合間から、中で眠る少女の顔が見えた。
シオリだ。
この街に着いて十日ほど経つが、その間シオリはずっとこの棺の中で眠ったままだった。
オーヤによるものだ。
コランダムの街に着き、オーヤが定めた隠れ家に潜むと、早速にこの棺が用意された。
というよりこの棺が置かれていたこの場所をオーヤは目指してきたようだった。
ジャックは棺を見るなり吸血鬼が眠っているのではと警戒したが、というのも吸血鬼は昼日中は腐った土を敷き詰めた棺にこもり、暗い地下で眠る習性があるためなのだが、そのとき中は何もない空っぽだった。
「私のベッドよ」
オーヤは世界のいたる所にこのような隠れ家を持ち、大抵はそこに同じ黒い棺が安置されているらしい。
そう説明しながらオーヤは部屋で今も甘い香りを漂わす香を焚き、おもむろにシオリの額に手(羽根)を添えると呪文を唱えた。
〈眠り〉の呪文だったらしく、シオリは抵抗する間もなく眠ってしまい、そしてこの棺の中に寝かされたのだった。
「あれ? 白姫はバッドステータスを無効化するんじゃなかったか?」
シオリを棺に寝かせるのを手伝わされながらアマンがそう疑問を口にした。
「バッドじゃないもの」
戦闘中に眠らされればそれは不利な状態だろうが、疲労の溜まった身体には眠りはむしろ良好な状態だと納得させられた。
しかしアマンは気付いていた。
シオリが寝かされた黒い棺、これはアマンがレイと共に一年近くのあいだ閉じ込められていたあの棺と同様のモノだということを。
「ここには敵も多いから。この娘を狙う奴は大勢いる。こうやって眠っていた方が安全なのよ」
ずらしたフタから覗き見るシオリの寝顔を見つめながら、アマンは行動を起こそうか迷っていた。
「だからって、封印みたいにすることはないだろうよ」
そっとシオリの頬に手を触れる。
温かい。
かすかに息もしている。
寝顔はとても穏やかだ。
この部屋は心地いい。
香によるものだと思われる。
気を抜くとアマンまで一緒に眠りに落ちてしまいそうだった。
「いけねえ! もう少しで試合の時間だ。とっととシオリを起こしてやろう」
オーヤとジャックに了解を得たわけではない。
そんなことはどうだっていい。
そもそもシオリだって大闘技会を見物したいはずだ。
アマンの価値観に照らせばそうでないわけがない。
「ほら、起きろよ、シオリ」
パシ、パシッとシオリの頬を軽く叩いたときだった。
突然アマンは首がガクッと垂れて前のめりに、シオリの胸の上に倒れこんだ。
なにがあったのかはわからない。
気を失う感覚はあった。
暗闇でも見通せる金色の眼が閉じ、一瞬全てがブラックアウトした。
プァァッン! というけたたましい響きと人々の雑踏、頬をなぶる少しすえた匂いのする風を感じ、アマンは静かに目を開けた。
どれぐらい気を失っていたのか。
身体に異常はなさそうだった。
気分も取り立てて悪くない。
ただ固く、やけに熱い地面に我慢ならなくなって、意識が鮮明になると同時に跳ね起きた。
すぐさま周囲を見渡し警戒する。
「なんだ、ここ?」
面食らった。
そこには河があった。
道路もあり、木もあった。
建物も、ヒトも、言葉もあった。
だが、どれも見たことがないものばかりだった。
河は巨大な石の堤防で固められ、道路も固く滑らかだった。
路面にはよくわからない模様がいたる所に描かれ、なにかの魔法陣かと錯覚する。
建物も見たことのないデザインだが、それよりなによりデカイ。
天を衝かんとするほどに高く、またそのような建物が数えきれないほろ林立している。
多いなんてものじゃない。
見渡す限りに広がっているのだ。
その建物の間を縫うように何本もの道路が天上を走っている。
空中庭園さながらに遠い頭上からも多くの音が聞こえていた。
「うおっと!」
突然アマンのすぐ横を猛烈な速度で鉄の戦車が駆け抜けていった。
戦車だと思う。
中にヒトがいて操縦していたように見えた。
そうヒトだ。
数えきれないほどのニンゲンがここにはいて、アマンのわからない言葉を使い、すれ違っていく。
これほどの数のニンゲンをアマンは見たことがない。
「なんだ、ここ?」
アマンの知るモノは何ひとつ見当たらなかった。
水も木もあったが、在りようは全く違った。
ひどく人工的に見えた。
水は濁っていたし、木は庭園調に整えられてばかりだ。
ただひとつ、アマンの知っているモノと似ているのは空、それと雲だけのように思えた。
ここはなにか、空気が違う。
「異世界……もしや魔界か?」
「東京だよ」
知った声だ。
それに知っている言葉。
でも知らない地名だ。
ベンチにシオリが座っていた。




