【第8話】四人目の犠牲者と顔のない娘
季節は冬の終わりを告げ、王都にもようやく春の足音が聞こえ始めていた。
灰色の雲は少しずつ晴れ間を見せ、石畳の通りを吹き抜けていた凍てつくような木枯らしも、その鋭さをすっかり和らげている。
大通りの花壇には色鮮やかなつぼみが顔を出し、道行く人々の足取りもどこか軽やかに見えた。
だが、そんな穏やかな季節の移ろいなど、狂気に憑りつかれた連続殺人鬼にとってはまったく関係のないことだった。
アンダーソン団長から、四人目の犠牲者となるドール遺体が発見されたという、重苦しい凶報がもたらされたのは、そんな春めいた日の午前だった。
私たちはすぐさま、騎士団本部の地下遺体安置所へと足を運んだ。
重厚な鉄の扉を押し開けた瞬間、私と助手の顔に、これまでとは全く異なる異様な空気が吹きつけてきた。
「うわっ……!な、なんですかこれ。ものすごく臭いです……!生ゴミを何日も炎天下に放置したみたいな……」
私の背後で助手がひどく顔をしかめ、両手で鼻を覆いながら声を上げた。
「我慢しろ、これは人間の腐敗臭だ」
私はマントの襟を正し、静かに前を見据えた。
「腐敗臭……って、今までの遺体はこんな匂いしませんでしたよね?」
「季節が変わったからだ。これまでの犠牲者は厳しい冬の寒さによって腐敗が進まず、綺麗な状態を保っていた。だが、春になり気温が上がり始めたことで、今回の遺体は腐敗の進行が早いようだ。まるで美しさを保つ魔法が解けたようにな」
部屋の中央、金属台の上に横たわる遺体は、凄惨なあり様だった。
顔も体も変色し、かなり腐敗が進行している。
皮膚はどす黒く変色して崩れかけ、ところどころから体液が滲み出していた。
ドールメーカーが施したであろう豪奢なゴシック調のドレスや、不自然なほど鮮やかな死化粧も、その腐りゆく肉体を隠しきることはできていない。
美しい人形に仕立て上げようとする犯人の歪んだ執念と、自然の摂理である腐敗が混ざり合い、見るも無惨な光景を生み出していた。
「ヒューゴ殿、よく来てくれた。見ての通り、今回は状態がひどい」
安置所の奥から歩み寄ってきたアンダーソン団長が、ハンカチで口元を押さえながら苦渋の表情を浮かべた。
その横には、すでに革の防水エプロンを身に着けたヴィンセント先生が立っていた。
彼もまた、いつもの穏やかな表情を潜め、険しい目つきで遺体を見つめている。
「ヒューゴさん、ご遺体の状態が非常に悪いです。脳の組織も腐敗が進んでおり、いつまで記憶が保たれるかわかりません。急ぎましょう」
ヴィンセント先生の言葉に、私は無言で頷き、遺体のそばへと歩み寄った。
むせ返るような腐敗臭が鼻を突くが、犠牲者のことを思えば些細なことだ。
私は表情を変えずに目を閉じた。
黒の革手袋をはめた右手を、崩れかけた遺体の額へと静かにかざす。
自身の体内から魔力を練り上げ、紫色の魔力を指先に集め放出する。
だが、魔力を注ぎ込んだ瞬間、ひどい抵抗感があった。
まるで底なしの泥沼に手をつっこんでいるかのような感覚だ。
細胞が死滅し腐敗が進んでいるため、魂の道標となる記憶の糸がすでに切れかかっているのだ。
私は慎重に、細い糸を千切らないように手繰り寄せるイメージで魔力の波長を調整し、薄れゆく記憶の淵へとアクセスを試みる。
「……時間だ」
私の声に呼応するように、遺体の干からびた唇がわずかに震えた。
しかし、まぶたは腫れ上がって開くことはなく、声帯も腐敗の影響を受けているのか、空気が漏れるような異音しか発しない。
「聞こえますか?あなたが最後に見たもの、覚えていることを教えてください」
今回はロールプレイで多くの情報を引き出している余裕が無い。
一時でも早く、一単語でも手がかりを掴まなければならない。
やがて、喉の奥から無理やり絞り出したような、ひどく掠れた声が安置所に響き渡った。
「……まっくら……じめんが…ゆれてる……」
「真っ暗で、地面が揺れている?…その時あなたはどこにいましたか?誰かと一緒でしたか?」
私がさらに問いかけようと魔力を強めたその瞬間「パツンッ」という感覚が右手に走った。
限界を迎えた肉体が私の魔力を完全に拒絶し、接続が無残に断ち切られてしまったのだ。
紫色の光が霧散し、遺体は再び物言わぬ腐肉の塊へと戻った。
「…くそっ…ここまでか…」
私は小さく息を吐き、金属台から一歩下がった。
「真っ暗で地面が揺れてる、ですか……」
助手が鼻をつまんだまま、首を傾げる。
「地震かな?でも最近、王都で地震なんてありませんでしたよね」
「ああ地震ではないだろう。おそらく、馬車や汽車の中など、光の届かない移動する空間に閉じ込められていた可能性が高い。遠方から連れてこられた可能性も出てきたな」
私は助手の推理を訂正しつつ、得られたわずかな情報と今までの手がかりを頭の中で反芻した。
「ヒューゴさん、お疲れ様でした。ここからは私の仕事ですね」
ヴィンセント先生が鋭いメスを手に、金属台の前に立った。
彼は腐敗の進んだ遺体を前にしても一切の手元を狂わせることなく、胸から腹部にかけて手際よく切開していく。
内臓もまた腐敗により形を崩しかけていたが、ヴィンセント先生は慎重に胃袋を特定し、その中身を小さな金属製の皿に取り出した。
「胃の内容物を見てみましょう……」
ヴィンセント先生はピンセットで内容物を探りながら、静かに報告した。
「パンと、細かく刻まれた牛肉、それにいくらかの野菜類ですね。消化の具合から見て、殺害される数時間前に食べたものと思われます。ごく一般的な、朝食か昼食といったところでしょう」
「イカスミのリゾットのような、出どころが特定できそうな特徴的なものではない、ということか」
アンダーソン団長が手帳を片手に顔をしかめる。
「ええ。残念ながら、食事の内容から犯人につながりそうな有力な手がかりは見当たりません」
いつもならここで食べ物の話題に食いつく助手も、さすがに目の前の凄惨な光景と強烈な匂いの前では食欲が湧かないのか、大人しく黙り込んでいる。
行き詰まりを感じさせる空気が漂う中、アンダーソン団長が手帳のページをめくり、鋭い視線を私に向けた。
「ですが、食事からは何も出なかったが、身元の特定については大きな進展がありましたぞ、ヒューゴ殿」
「進展、ですか?」
「うむ。今回は腐敗がひどく、顔での判別が難しかったため、まず指紋を採取し照合を行った。その結果……なんと、騎士団の指紋記録簿のものと完全に一致したのだ」
「騎士団の記録簿と……?」
私が眉をひそめると、横から助手がポンと手を叩いた。
「あ、それってつまり、この犠牲者は過去に犯罪を犯して捕まったことがあるってことですか?」
「その通りだ助手君。この女性は過去に軽犯罪を犯し、我々騎士団に逮捕された記録が残っていたのだ。まぁ、万引きですがな。記録簿は重罪人や常習犯を中心に保管されておりますが、軽犯罪者も十年間は保管されております」
アンダーソン団長は私の目を見て軽く頷いた。
「身元が判明したのは大きな前進ですね。で、その人物は?」
「すでに身元は割れ、遺族に連絡を取っています。まもなく、身元確認のために母親がこちらへ到着するはずです」
犯罪歴のある女性。
そして猟奇的な連続殺人鬼ドールメーカーの四人目の標的。
点と点がどう繋がるのかはまだ見えないが、遺族の話を聞けば、彼女の空白の時間が少しは埋まるかもしれない。
私たちは腐敗臭の充満する冷たい安置所で、遺族の到着を静かに待つことにした。
ーー
しばらくして、重厚な鉄の扉がゆっくりと開き、一人の騎士に案内されて中年の女性が安置所へと入ってきた。
シンプルで清潔感のある衣服を身にまとった彼女は、四人目の犠牲者の母親だという。
安置所に充満する強烈な腐敗臭に一瞬顔をしかめたが、それ以上に我が子の身に起きたかもしれない悲劇に対する恐怖で、その顔面は蒼白だった。
震える足取りで金属台へと近づく彼女に対し、ヴィンセント先生がひどく優しく、労わるような声をかけた。
「お辛いでしょうが、ご確認をお願いいたします。ただ……春になり気温が上がったことで、今回はご遺体の腐敗がひどく進んでおります。どうか気を確かに持ってください」
ヴィンセント先生が一礼し、遺体の顔を覆っていた白い布をゆっくりとめくった。
現れたのは、腐敗してどす黒く変色し、崩れかけた無残な顔だ。
母親は息を呑み、両手で口元を強く覆った。
悲痛な泣き声が響き渡るかと思われたが、母親は震える目で金属台の上の遺体をじっと見つめたまま、やがて困惑したように小さく首を傾げた。
しばらくの沈黙の後、母親はかすれるような声で口を開いた。
「……たしかに、雰囲気は似ている気がしますが……この子は、私の娘じゃないです」
その言葉に、アンダーソン団長が戸惑ったように一歩前に出た。
「しかしお母様、指紋は間違いなく騎士団に保管されている娘さんのものと一致しています。……最後にお会いしたのはいつですか?」
「…一年くらい前です……」
母親の弱々しい答えに、アンダーソン団長は少し言いにくそうに、それでも治安を預かる責任者として丁寧な口調で言葉を告げた。
「こんなことをご遺族に申し上げるのは心が痛みますが、娘さんは過去に犯罪歴がありますね?この1年で、何かの理由で顔を変えていたのではないですか?それに、腐敗もひどい状態です。生前の印象と違ってみえるのも無理はないと思うのですが」
過去に罪を犯した者が、追っ手や過去のしがらみから逃れるために容姿を変えることは珍しくない。
ましてや遺体は激しく腐敗しており、元の顔立ちを正確に保っているとは言い難い。
アンダーソン団長の推論は、状況を考えれば極めて理にかなっていた。
しかし、母親は頑なに首を横に振った。
「確かに娘は若い頃は悪い友達と付き合い、魔が差して盗みで捕まったことがあります。でも、今は反省して仕事も頑張っていると、最近も手紙が来ていたんです。……私は母親です。たとえ雰囲気が変わっていたとしても、この子は絶対に娘じゃないです」
我が子ではないと断言する母親の強い意志に、冷え切った安置所は重苦しい静寂に包まれた。
その時しばらく考え込んでいたヒューゴの、紫色の瞳が微かに光った。
身元確認を終え、どこか安堵したような、しかし別の不安を抱えたような足取りで母親が安置所を立ち去っていく。
私はすぐさまアンダーソン団長とヴィンセント先生に向き直った。
「少し調べたいことができました。私はこれで」
私は黒のマントを翻し、足早にその場をあとにした。
「あ、待ってください!ヒューゴ先生、どこいくんですか?」
助手が慌てた様子で、ドタバタと私の背中を追いかけてくる。
私は安置所の重厚な扉を抜け、地上へと続く石階段を足早に駆け上がった。
騎士団本部の外に出ると、春めいた陽光が目に刺さる。
私は通りを歩き出していた先ほどの母親の背中を見つけ、急いで追いつき、静かに声をかけた。
「すみません、先ほど立ち会わせていただいていた探偵です。少しだけお話を伺ってもよろしいですか。娘さんのお名前をお聞きしたいのと、職場はわかるでしょうか?」
母親は少し驚いたような顔をしたが、私の真剣な眼差しを見ると、少しだけ安堵したように答えてくれた。
「娘はジェシカと言います。三番街の『ロブ・クロージング』という仕立て屋で、お針子をしているはずです」
「感謝します」
私は手帳にその情報を書き留め、すぐさま助手と共にロブ・クロージングへと向かった。
ロブ・クロージングは、王都の三番街、通称職人街の一角にあるこぢんまりとした仕立て屋だった。
扉を開けると、真新しい布地の匂いと、糸くずが舞うような独特の空気が漂っていた。
店内では数台のミシンが規則正しい音を立てており、奥のカウンターでは店主らしき中年の男が、広げた布地にチャコペンで印をつけているところだった。
「いらっしゃい……おや、見ない顔だね。何かお探しで?」
私が黒ずくめの姿で店に入ってきたためか、店主は少し警戒したように手を止めた。
「探偵のヒューゴだ。少しお聞きしたいのだが、ジェシカさんはおられるだろうか?」
私の問いを聞いた途端、店主は少し目を輝かせた。
「ヒューゴ…?ああ、アンタがあの名探偵かい!…えーっとジェシカだったね、いや、ずっと無断欠勤していて、連絡もつかないんだ」
「それはいつからですか?」
「先月の第四週の木曜日だね。急に来なくなったから、こっちも仕事の段取りが狂って大変なんだ。いい娘だと思ってたんだが、最近の若い者は無責任で困るよ」
店主の愚痴を耳にした瞬間、私の思考を覆っていた深い霧が晴れ、一つの不気味な真実の輪郭が浮かび上がった。
「行くぞ、助手」
私はそれ以上の言葉を発することなく、店を飛び出した。
「ええっ、もう終わりですか?せっかく洋品店に来たんだから、もう少し見ましょうよー。ほら僕、前から新しいキャスケットがほしいって言ってた…ちょっと、待ってくださいよ、ヒューゴ先生ー!」
背後で助手が呑気な不満を漏らしているが、構っている暇はない。
指紋はジェシカだが、顔はジェシカではない。
そしてジェシカ本人は、無断欠勤を続けている。
私は手帳をコートの内ポケットにしまい込むと、春の陽光が差す王都の石畳へと足を踏み出した。




