【第7話】甘い匂いと、言葉なき帰宅
身元不明の三人目の遺体からネクロマンシーで引き出した証言は、私たちに新たな謎を突きつけることとなった。
『会社の帰り道』
『暗い道で女性に声をかけられた』
『甘い匂い』
騎士団本部の地下にある冷たい遺体安置所を後にした私たちは、鉛色の雲から降り注ぐ冷たい雨の中、傘を差しながら王都の街を歩いていた。
長く厳しかった冬がようやく終わりを告げようとしているとはいえ、雨に濡れた石畳から立ち上る冷気は容赦なく足先を冷やす。
私は黒の革手袋をはめた右手でマントの襟を合わせ、隣を歩く助手に声をかけた。
「犠牲者の最期の記憶に残っていた『甘い匂い』。これが犯人に繋がる新たなる手がかりだ」
「甘い匂いなら、香水、お菓子とかですかね?」
助手はいつものように呑気なトーンで答えた。
「そうだな。だがやはり、対象が広すぎる。大人の首の骨をへし折るほどの肉体強化魔法の使い手でありながら、甘い匂いを漂わせている人物。あまりにも不釣り合いだ。とりあえず遺体が発見された東区の周辺から、化粧品店や菓子店などを徹底的に洗おう」
私たちは、三人目の遺体が遺棄されていた東区の路地裏を中心にして、該当しそうな店舗を片っ端から当たることにした。
東区は高いレンガ造りの建物が密集している商業地区のため、日差しが遮られがちで、雨の日は余計に薄暗く感じられた。
一軒目に入ったのは、古くからある小さな菓子店だった。
扉を開けると、焼き上がったばかりのクッキーと、砂糖を煮詰めたような甘い香りが店内に充満していた。
「うわぁ、すごくいい匂い。ヒューゴ先生、調査中に小腹がすくかもしれませんから少し買っていきませんか?」
「手がかりが掴めるまではお預けだ」
私はショーケースにへばりつこうとする助手の襟首を掴んで引き戻し、店主に声をかけた。
犠牲者の顔写真を見せながら、「この女性を見かけなかったか?」「不審な人物に心当たりはないか?」などを確認した。
しかし、店主は首を横に振るばかりだった。
「お菓子の香りは焼き立ての時がピークなんだ。できたてを買って、持ち歩いていれば多少は匂いがつくかもしれないけど、最後の焼き上がり時間は15時だ。夜までの時間がたてば、さすがに漂うほどの香りはしないね」
その後も私たちは、石畳の通りを歩き回り、化粧品店や雑貨屋、生花店などを何軒も回った。
白粉の匂い、石鹸の匂い、花の匂い。
あらゆる匂いを嗅ぎ、聞き込みを続けたが、結果は芳しくなかった。
王都には物を売る店があまりにも多すぎる。
対象が広く、思うように調査は進まなかった。
「先生、手当たり次第に探すのはやっぱり骨が折れますね。僕、甘い匂いを嗅ぎすぎてもう鼻がバカになりそうです」
「同感だ、だが文句を言うな。いついかなる時も、犠牲者たちの無念を思い返すんだ。さあ、次に行くぞ」
私たちは東区の入り組んだ路地を抜け、王都で最も賑やかな大通りへと出た。
雨にもかかわらず、そこには馬車が行き交い、多くの人々が歩幅を早めて通り過ぎていく。
私たちは大通りに面した、ガラス張りの豪奢な外観を持つ有名香水店へと足を踏み入れた。
店内は、先ほどの菓子店とは全く違う、洗練された複数の香料が複雑に絡み合った香りに満ちていた。
身なりの良い女性店員が静かな足取りで近づいてきたため、私は探偵であることを名乗り単刀直入に尋ねた。
「事件の調査で伺いたい。この店ですれ違っただけで記憶に残るような、強烈な甘い匂いのする香水は扱っていないだろうか」
私の問いに対し、店員は上品な笑みを浮かべて首を横に振った。
「甘い匂いですか?いえ、最近はウッディーな香りがトレンドでして、当店では強い甘い香りの香水は今は扱っておりません。王都の皆様はリラックス効果のある、樹木のような落ち着いた香りを近年好まれる傾向にありますので」
「そうか。貴重な時間を割いていただき、ありがとう」
私は手帳をコートのポケットにしまい、短く礼を言って店を出た。
やはり、香水と一口に言っても流行り廃りがあり、これといった有力な情報は得られない。
気がつけば雨はほとんど止み、傘を必要としないほどの霧雨となっていた。
隣を歩く助手が、またしても呑気な声を上げる。
「香水じゃないなら、やっぱりお菓子ですかねー。さっきの焼き立てクッキー、買っておけば匂いの比較ができたかもしれないのに」
「お前はただクッキーが食べたかっただけだろう」
私は少し呆れながら歩き出そうとした。
その時だった。
「あら、この間の」
香水店の店先から数歩離れたところで、不意に声をかけられた。
声のした方へ視線を向けると、そこには見覚えのある姿があった。
ヴィンセント先生の治療院で働く有能な看護師、リリーだった。
彼女は雨を避けるためのフード付きの防水ケープを羽織っていた。
しかし、私の目を引いたのは彼女自身の姿よりも、彼女の背後にあったものだ。
リリーは、小柄な彼女の身体には少し大きい、木製の荷車を両手で引いていたのだ。
「大きな荷物ですね、看護師さん」
助手が私よりも先に話しかけ、興味深そうに荷車をのぞき込んだ。
「リリーでいいですよ」
リリーは親しみやすい笑みを浮かべると、荷車に被せられていた厚手の布を少しだけめくって見せた。
荷台の中には、木箱に詰められた大量のガラス瓶や、薬草の束などがぎっしりと積み込まれていた。
「薬の仕入れです。ヴィンセント先生の治療院は毎日たくさんの患者さんがいらっしゃるので、消費する薬の量も多くて。これだけ結構な量があると、荷車でないと運ぶのが難しいんですよね」
「うわあ、重そうですね。僕なら絶対に配送にしちゃいますよ」
助手が大げさに身震いして見せる。
確かに、木箱がいくつも積まれた荷車は、成人男性でも一人で引くにはそこそこの重労働のはずだ。
「配送にしているものもありますが、日常的に使うものは遅延した時に大変なので。それに毎日引いてるので、もう慣れちゃいました。コツさえ掴めば、そこまで重く感じないんですよ」
リリーは涼しい顔で笑ってみせた。
息を切らしている様子もなく、雨に濡れた石畳の上を平然と引いてきたようだ。
「へえー、すごいですね。そんなの毎日引いてたら、ムキムキになりそうですね」
私は無言でその頭を小突いた。
「痛っ」
「……失礼した。引き留めてしまって申し訳ない。滑らないように気をつけて帰ってくれ」
私が軽く頭を下げると、リリーは気にした風もなく微笑んだ。
「いえ、お気になさらず。それじゃあ、また」
リリーは再び荷車の持ち手を握り、雨の止んだ大通りを治療院の方向へと歩き出した。
車輪が石畳を転がる低い音が、雑踏にまぎれ遠ざかっていく。
その時だった。
風がふっと吹き抜けた瞬間、私の鼻腔をかすかな香りがくすぐった。
それは、砂糖を煮詰めたような、あるいは熟れすぎた果実のような、甘い匂いだった。
私はハッとして足を止め、遠ざかるリリーの背中を振り返った。
彼女から香ったのか、それともすれ違った香水店の客の匂いの残り香だろうか。
私は確証の持てない直感に首をひねり、雨上がりの大通りに歩みを進めた。
ーー
大通りを抜け、私たちはそのまま王都騎士団の本部へと向かった。
調査を並行して進めている騎士団と情報交換を行うためだ。
王都の治安維持を担う騎士団本部の庁舎は、重厚な石造りの威容を誇っていた。
中へ入ると、いつも以上に慌ただしい空気が張り詰めているのが肌で感じられた。
三人目の犠牲者が出たことで、王都全体の警戒態勢が引き上げられているのだろう。
私たちは面会を済ませ、アンダーソン団長の執務室へと通された。
重い木製の扉を開けると、壁には王都の巨大な地図が貼られ、事件の発生現場を示す赤いピンがいくつか突き刺さっていた。
アンダーソン団長は、大量の書類が積まれた大きなデスクの奥に座り、眉間を揉みほぐしているところだった。
「おお、ヒューゴ殿。それに助手君も。よく来てくれた」
アンダーソン団長は顔を上げ、地声の大きな彼にしては少し小さな声で私たちを迎え入れた。
「お疲れのようですね、アンダーソン団長」
私が声をかけると、彼は低い唸り声を上げながら椅子に深く腰掛け直した。
「三人目の猟奇的な犠牲者が出たことで、王都の住民たちの不安も頂点に達しつつあります。上層部からの突き上げも厳しくなる一方で、騎士団は総出で捜査に当たっていますよ。ヒューゴ殿のほうは、何か進展はありましたか?」
団長の期待がこもった問いに、私は首を横に振るしかなかった。
「いえ、残念ながら。三人目の遺体から聞き出した『甘い匂い』を手がかりに、遺体が発見された東区周辺の菓子店や化粧品店、さらには大通りの香水店などをしらみつぶしに洗ってきました」
「ふむ。それで?」
「有力な情報は得られませんでした。甘い匂いという言葉だけでは抽象的で、あまりにも対象が広すぎます。店を回って確認できるような単純なものではないようです」
私が手帳を開きながら簡潔に報告すると、アンダーソン団長は苦虫を噛み潰したような顔になった。
「そうですか……。やはり、匂いという曖昧な記憶だけで王都中を探るのは無謀か」
団長は太い指でデスクをコツコツと叩きながら、忌々しげに息を吐いた。
「そちらはいかがですか?騎士団の調査に何か進展は」
私の問いに対し、団長はデスクの上にあった報告書の束を手にとり、力なくそれを置いた。
「実を言うと、我々騎士団の方も完全に調査に行き詰まっている状態ですよ」
「行き詰まっている、ですか」
「ええ。三人目の犠牲者の身元調査ですが、現場となった東区を中心に聞き込みを行っているものの、未だに該当はなし。彼女がどこの誰なのかすらわからないまま、時間だけが過ぎている状況です」
騎士団の足を使った人海戦術をもってしても、新たな手がかりは掴めていないようだ。
「現場周辺の聞き込みも続けているが、最近の雨と雪のせいで痕跡も綺麗に洗い流されてしまってな。目撃情報も皆無だ。『ドールメーカー』の足取りは完全に途絶えていると言っていい」
アンダーソン団長の言葉には、治安を守る責任者としての強い無念と苛立ちがこもっていた。
執務室が重苦しい沈黙に包まれる。
やがて、アンダーソン団長が少しだけ言い淀むようにして、再び口を開いた。
「それから……ヒューゴ殿に報告しておくべきことがもう一つある」
「なんでしょうか」
団長は私と助手の顔を交互に見つめ、静かに告げた。
「最初の路地裏で発見された頭部だけの遺体と、二人目の公園で発見された遺体についてだ。これ以上の検死や現場捜査を行っても、もはや犯人に繋がる新たな手がかりは出てこないだろうと、ヴィンセント先生が結論づけられた」
「手がかりが出ない、ということは……」
「ああ。本日をもって、二人の遺体はそれぞれのご遺族の元へ返還されたよ」
アンダーソン団長はそう言うと、申し訳なさそうに視線を落とした。
本来であれば、犯人を捕らえ、事件の全容を解明し、無念を晴らしてから家族の元へ返すのが筋だ。
しかし、騎士団の安置所のスペースにも限りがある。
これ以上新たな情報が出ない遺体を、いつまでも冷たい安置所に留めておくわけにもいかないという判断も理解はできた。
「最初の犠牲者のご遺族も、さぞお辛いでしょうね。頭部だけになって帰ってくるなんて」
助手がぽつりと呟いた。
普段は空気が読めない発言ばかりする助手だが、その言葉はその場にいた全員が同意せざるを得なかった。
「ああ。だが、冷たく暗い安置所でいつまでも横たわっているよりは、温かい家族の元で弔われるほうが、彼女たちの魂も少しは安らぐだろう……私はそう信じたい」
アンダーソン団長は目を閉じ、静かに哀悼の意を示した。
私も深く頷いた。
二つの遺体は家族の元へ帰った。
だが、『ドールメーカー』の凶行が終わったわけではない。
犯人は未だに王都のどこかで息を潜め、次の標的を美しく飾り立てる機会を虎視眈々と狙っているはずだ。
「ヒューゴ殿。このままでは、また必ず犠牲者が出る。なんとしても我々の手で奴を捕らえなければならない」
アンダーソン団長が目を開き、強い光を宿した瞳で私を見た。
「ええ、もちろんです。犠牲者たちの言葉から、必ず犯人を引きずり出してみせます」
パスタと雨とイカスミのリゾット、そして甘い匂い。
私は黒の革手袋に包まれた右手を強く握り込み、薄暗い執務室の窓から鉛色の空を静かに見上げた。




