【第3話】イカスミとドレスの謎
私はヴィンセント先生の検死の邪魔にならないよう、助手と共に壁際まで下がった。
アンダーソン団長も手帳を片手に、少し離れた位置で険しい表情を浮かべて立っている。
「それでは、始めましょう」
ヴィンセント先生は普段の穏やかな街医者の顔から、冷徹な検死官の顔へと切り替わっていた。
彼は白衣の上から革製の防水エプロンを身に着け、手には鋭く光る銀色のメスを握っている。
彼の隣には、検死の記録をつけるための若い助手が立ち、メモボードとペンを構えていた。
金属製の台座に横たわるのは、先ほどまで遺族が泣きすがっていた、二人目の女性の遺体だ。
ヴィンセント先生の手によって、彼女に着せられていた豪奢なゴシック調のドレスが手際よくハサミで切り裂かれ、次々と脱がされていく。
黒いベルベットや繊細なレースを助手が取り除いていくと、そこには血の気を失った青白い肌だけが残された。
まるで美しい人形が、ただの冷たい肉の塊へと変えられていくようだ。
「まずは開腹し、内臓の状態と胃の内容物を確認します」
ヴィンセント先生が淡々と告げると静寂に包まれた安置所に、メスが肉を裂く鈍い音が響き、鉄錆のような匂いが微かに漂い始める。
彼は慣れた手つきで胸から腹にかけて大きく開腹し、内臓の様子を丁寧に観察していく。
次にヴィンセント先生は胃袋を丸ごと取り出し、金属製のトレイの上でメスを走らせた。
「胃の中身を見てみましょう」
そして眼鏡のブリッジを手首で押し上げ、その内容物に顔を近づけた。
「……ふむ」
「どうしました?先生」
アンダーソン団長が手帳を持ったまま身を乗り出す。
「胃の中に、未消化の食べ物が残っています。しかし、これは……真っ黒だな。イカスミ…だろうか?」
ヴィンセント先生はピンセットで黒い泥のようなものを探りながら呟いた。
「この真っ黒な液体の中にある、小さな丸い粒は……おそらく麦っぽいな」
その言葉を聞いた途端、私の隣でしばらく黙って見学していた助手が、不意に能天気な声を上げた。
「あ、それ『イカスミと麦のリゾット』じゃないですか?」
響き渡る場違いな声に、ヴィンセント先生もアンダーソン団長も怪訝な顔でこちらを振り返った。
「リゾット、だと?」
団長が眉をひそめる。
「ええ、ビストロ・コーラルの名物料理ですよ。イカスミの濃厚なコクとチーズ、麦のプチプチとした食感がたまらないんですよね。ヒューゴ先生、僕なんだか食べたくなってきちゃいました。この後、聞き込みを兼ねて食べにいきましょうよ」
遺体の胃袋から取り出された真っ黒な内容物を見ながら、食欲を刺激される人間などこの世にこいつくらいだろう。
「お前はいつも本当に……」
私は呆れ果てて言葉を失いそうになったが、助手からの情報は捜査において非常に重要な意味を持っていた。
ビストロ・コーラルという店に行けば、彼女の生前の足取りが掴めるかもしれない。
しかし、ここで私の中に一つの疑問が生じる。
「ヴィンセント先生。胃の中に、パスタはありますか?」
私は検死台の方へ向かって問いかけた。
先ほど私がネクロマンシーで呼び起こした彼女の記憶は、『パスタを食べたことと、雨が降っていたこと』だったはずだ。
もしパスタを食べてすぐ殺害されたのなら、胃の中にはイカスミのリゾットではなくパスタが残っているのが自然だ。
ヴィンセント先生は再びピンセットで金属トレイの中を探り、静かに首を横に振った。
「いえ、無いですね。胃の中にあるのは、イカスミと麦のリゾットらしきものだけです」
「パスタの痕跡がまったくないということですか?」
「ええ。ただ、小腸の方へ内容物が進んでいる形跡はありますね」
ヴィンセント先生はピンセットを置き、少し残念そうにため息をついた。
「パスタはすでにそちらへ押し流されてしまったのでしょう。腸の消化液は強力ですから、ここまでドロドロになってしまうと、さすがの私でも何を食べたか正確に判断するのは難しいのです」
ヴィンセント先生は医学的な見地から丁寧に解説してくれた。
「つまり、彼女は雨の日にどこかでパスタを食べ、その後さらにビストロ・コーラルへ行き、イカスミと麦のリゾットを食べたという可能性もあるのか……」
アンダーソン団長が眉間にシワを寄せながらメモをとる。
「なるほど…。つまりこの女性は、……めっちゃ大食いということがわかりましたね!」
助手が、これぞ名推理と言わんばかりの的外れな感想を漏らした。
「…助手君、少し黙っていてもらえるだろうか…」
団長がチクリと釘を刺すが、助手はまったく気にする素振りも見せない。
大食いかどうかはともかく、食事の順番と消化の状態は死亡推定時刻を割り出すための重要なパズルだ。
「先生、内容物の消化具合から、死亡推定時刻は絞り込めませんか?」
私が尋ねると、ヴィンセント先生は困ったように眉尻を下げた。
「通常であれば、食後何時間で死亡したかはある程度推測できます。しかし……問題はこの時期の寒さです。遺体は屋外の公園で発見され、すでに芯まで凍った状態でした」
ヴィンセント先生は遺体の青白い肌を指差した。
「遺体が完全に冷え切って凍結すると、胃酸の働きや細胞の腐敗、つまり体内時計そのものが完全にストップしてしまいます。彼女が食事をしてからどのくらい経ってから殺されたのか、そして殺されてから何日間あの公園に放置されていたのか、この凍結した状態では正確な時間を特定するのは極めて困難と言わざるを得ません」
王都の厳しい冬の寒さが、結果的に犯人の痕跡を隠す天然の隠蔽工作となってしまったのだ。
パスタと、イカスミのリゾット。
そして凍りついた時間。
手持ちのピースは増えたが、それらがどう繋がるのかはまだ見えてこない。
「検死を続けましょう」
ヴィンセント先生はそう言うと、視線を胃からさらに上、遺体の首元へと移していった。
次に彼は胃袋から視線を外し、遺体の首元へと意識を集中させた。
青白い首に巻きついたままの、幅広の黒いベルベットのチョーカー。
ゴシック調のドレスを脱がされた今、不自然に首にだけ残されたその装飾品は、冷たい安置所の中で異様なまでの存在感を放っていた。
「チョーカーを外してくれ」
ヴィンセント先生の指示を受け、検死の記録を取っていた彼の助手が慎重に遺体の首へと手を伸ばす。
背面の留め具がカチリと外され、ゆっくりと黒い布が剥がされると、そこに隠されていた凄惨な痕跡が白日の下に晒された。
「ヴィンセント先生、これを見てください。首にロープで絞められたような痕がありますね」
彼の助手が指差した先には、遺体の細い首をぐるりと一周するような、どす黒い紫色の鬱血痕がくっきりと刻み込まれていた。
皮膚の表面は強く擦れて赤剥けになっており、犯人が細い紐状のものを使い、強い力で締め上げたことを物語っている。
その生々しい傷跡を見下ろしながら、私の隣に立つ助手が平然とした声で口を開いた。
「首の絞殺痕を隠すために、わざわざこんなチョーカーを着けたんですかね?死体を美しく飾ることにずいぶん執着しているみたいですね、この犯人は」
「だろうな。ただ単に殺すだけではなく、自分の手で理想の姿に作り上げ、それを誇示したいという歪んだ欲求が透けて見える。こういう犯人は自分の犯罪が大きく取り上げられることに歓喜する。報道の仕方も考える必要があるかもしれんな」
私は珍しく助手の言葉に同意しつつ、ヴィンセント先生の次の動きを注視した。
彼は銀色のメスを金属のトレイに置き、両手で遺体の頭部を包み込むようにして、首の角度や骨の感触を直接確かめ始めた。
何度か頭部を軽く動かした後、彼はふうと小さく息を吐き、眼鏡の奥から私の方へ視線を向けた。
「ヒューゴさん。先ほど、ご遺体が立ち上がれなかった理由がわかりました」
「絞殺されたことが原因ですか?」
「ええ。単なる絞殺ではありません。舌骨が砕けているだけでなく、頸椎……つまり首の骨が完全に折れ、その中を通る脊髄神経が物理的に断裂しています」
ヴィンセント先生は遺体の首元をそっと撫でながら、静かな声で解説を続ける。
「人間の首の骨は、そう簡単に折れるものではありません。おそらく犯人は、単にロープで首を絞めただけでなく、そのまま力任せに首の骨をへし折ったのでしょう。尋常ではない腕力です」
「…肉体強化魔法、というわけですか……」
アンダーソン団長が、険しい顔で腕を組んだ。
肉体強化魔法。
それは、自身の体内の魔力を筋肉や骨格に作用させ、一時的に元々の筋力の1.5倍から3倍程度まで身体能力を向上させる基礎的な魔法だ。
王都の治安を守る騎士団の人間や、重い資材を運ぶ建築現場の肉体労働者などが日常的に使用している。
使い手によって強化の幅は異なるが、大人の首の骨をへし折るほどの力を生み出すことは十分に可能だろう。
「その可能性が高いですね。これだけ完全に神経が断裂してしまっていれば、脳からの命令が身体の各部位に伝わることはありません。ヒューゴさんがいくらネクロマンシーで脳に直接命令を与えても、物理的な回路が切断されていては、立ち上がることは不可能です」
ヴィンセント先生の論理的な医学的側面からの説明に、私は深く納得した。
ネクロマンシーは奇跡ではない。
魂と遺体を細い魔力で再リンクさせ、あくまで肉体に残された機能を利用して死者を一時的に動かすだけの術だ。
物質的な損傷という現実の壁を越えて、神経の繋がっていない遺体を動かすことはできないのだ。
「なるほど、たしかに…」
私が一人で合点していると、再び横から能天気な声が飛んできた。
「肉体強化魔法を使って首をへし折ったってことは、犯人は騎士団とか、肉体労働者ですかね。あ、そういえばヒューゴ先生も少しは使えますよね。これはあやしいなー」
「…黙ってろと言ったしばらくは、まだ続いているぞ……」
私は呆れた顔で、軽口を叩く助手を軽く睨んだ。
アンダーソン団長も、騎士団を疑われたことで面白くないのか、大きなため息をついている。
だが、推理の方向性としては間違っていない。
犯人である『ドールメーカー』は、大人の女性を軽々と絞め殺し、首の骨をへし折るほどの魔法の使い手の可能性もあるということだ。
そして、殺害後にはわざわざ死化粧を施し、絞殺痕を隠すためにチョーカーを着け、美しいドレスを着せて公園に遺棄するような異常な癖を持っている。
「パスタ、雨、イカスミのリゾット、そして肉体強化魔法を使える異常者……」
私は得られた情報を頭の中で整理しながら、薄暗い地下の安置所で深く思考を巡らせた。




