【第2話】遺体は語る。ネクロマンサーの力
騎士団本部の地下にある遺体安置所へ向かう石階段は、一段下りるごとに空気が鋭く冷え込んでいくのがわかった。
真冬のこの時期、凍った地表の下にあるこの地下空間の寒さは容赦なく生者の体温を奪いにくる。
吐く息はまたたく間に真っ白に凍りつき、衣服の隙間からしんしんと冷気が肌にしみる。
「くぅ、さすがに冬場はきついな…。いくら遺体の保存のためとはいえ、冷やしすぎだろう」
先導するアンダーソン団長が、コート代わりのマントにくるまりながら重々しくつぶやいた。
普段は現場で鳴らす屈強な肉体を持つ彼でさえ、この地下の冷気に耐えようと、貧乏ゆすりのように揺れ続けている。
「そうですね、冬のこの時期は少し寒いですよね。でも大げさすぎません?あ、それなら後でみんなで温かいものを食べにいきましょうよ。僕、ビーフシチューが食べたいなぁー。ねぇ、ヒューゴ先生」
アンダーソンの背後について歩く助手が、能天気な声で言った。
私は歩みを止めずに、冷たい吐息とともに深くため息をついた。
「お前は少しは緊張感というものを持て。これから対面するのは、凄惨な事件で命を奪われた犠牲者だぞ。そういうのを世間では不謹慎、あるいは鈍感と言うんだ。どんな状況でも神経を研ぎ澄ませておくんだ」
「わかってますよ、ヒューゴ先生。僕だって故人への哀悼の意はきちんと持ってます。でも、お化けも死体も怖がらないのが僕の数少ない長所じゃないですかー」
凄惨な事件の遺体と対面するというのに、相変わらずマイペースなやつだ。
だが、この血と死臭が漂う異常な空間においてさえ、一切物怖じしない性格はネクロマンサーの助手としてはひどく重宝しているのも事実だった。
重厚な鉄の扉を押し開けると、冷たい石造りの部屋の中央に、二つの金属製の台座が並べられていた。
それぞれの上に、白い布が被せられた何かが横たわっている。
一つはひどく小さく、もう一つは人間の形を保っていた。
「お待ちしておりました、アンダーソン団長。それから、はじめまして、ヒューゴさん」
部屋の奥から、静かな声が響いた。
銀髪のミディアムヘアに眼鏡をかけた、街医者で検死官のヴィンセント先生だ。
「ご苦労かけます、ヴィンセント先生。それから、ご遺族の方は?」
アンダーソン団長が尋ねると、ヴィンセント先生は眼鏡のブリッジを中指で押し上げながら、穏やかながらも痛ましそうな表情で頷いた。
「ええ、すでに外の控室でお待ちです。心の準備はできているとおっしゃっていました。いつでもお呼びください」
団長が重々しく頷き、扉のそばに控えていた部下の騎士に合図を送った。
間もなくして、中年の夫婦が震える足取りで安置所へと入ってきた。
二日前に公園のベンチで発見された、二人目の犠牲者の両親だった。
母親はすでに顔面を蒼白にし、父親に支えられなければ立っているのもやっとという様子だった。
我が子の身に起きた悲劇を受け入れられない遺族の生々しい絶望が、部屋の温度をさらに下げたかのように錯覚させる。
「どうぞ、こちらへ。お辛いでしょうが、どうか確認をお願いします」
ヴィンセント先生が静かに、そしてひどく優しく労わるような声をかけながら、二つ目の金属台へと夫婦を導いた。
彼は一礼すると、遺体の顔を覆っていた白い布をゆっくりとめくった。
現れたのは、栗色の髪をした二十代前半の女性の顔だった。
公園で発見された時に施されていたという、あの異常な死化粧はヴィンセント先生の手によってすでに綺麗に拭い去られている。
だが、血の気を失い、青白くなったその顔は、ただ眠っているだけには到底見えないほど美しかった。
「あ……ああ……!嘘でしょう、そんな……!」
顔を見た瞬間、母親は喉の奥から絞り出すような悲痛な叫び声を上げ、その場に泣き崩れた。
「娘で……娘で間違いありません……!どうして、この子がこんな目に遭わなければならなかったのですか……っ!」
父親もまた言葉を失い、崩れ落ちそうな妻の身体を必死に支えながら、ハンカチで顔を覆って声を殺してむせび泣いている。
冷たい安置所に、遺族の悲しみの声だけが木霊していた。
私は少し離れた壁際から、その様子を静かに見つめていた。
私の隣に立つ助手は、遺族の痛ましい姿を前にしても特に表情を曇らせることもなく、ただ淡々とその光景を眺めていた。
「娘さん、生前はきっと素敵な人だったんでしょうね。ドレスがよく似合っています」
助手がぼそりと場違いな感想を漏らしたので、私は無言で頭を軽く小突いた。
「痛っ」
「しばらく黙っていろ……」
アンダーソン団長が悲嘆に暮れる遺族にいくつか労いの言葉をかけ、騎士に命じて二人を部屋の外へと退出させた。
重い扉が閉まり、再び安置所に冷ややかな静寂が戻る。
「お辛い仕事ですね…アンダーソン団長、ヒューゴさん」
遺体に再び白い布をかけながら、ヴィンセント先生が口を開いた。
眼鏡の奥の瞳には、医者としての純粋な哀れみと、検視官としての人の死に対する冷静な感情が浮かんでいた。
「遺族の悲しみを受け止め、犯人を追うのは騎士団の仕事です。そして私の仕事は死者の声を聞き、その無念を晴らすことです」
私はそう答えながら、黒の革手袋に包まれた右手を軽く握り込んだ。
「さて、ヒューゴ殿。身元の確認は取れた。早速、頼めますか?」
アンダーソン団長が腕を組みながら私を見た。
「ええ、始めましょう…」
私はまず一つ目の遺体、路地裏で頭部だけが発見された女性の台へと歩み寄った。
「私の力は万能ではありません。この魔法の行使には、遺体の状態や鮮度が大きく影響します。人間は死ぬと古い記憶が、脳から抜け落ちていきます。つまりネクロマンシー(死霊術)は、遺体が死ぬ直前の最も強い記憶を呼び起こすものです」
私はヴィンセント先生とアンダーソン団長に向けて、作業の準備をしながら短く説明した。
「人々は誰でも魔力を持っていますが、死者を完全に生き返らせるような奇跡の魔法はこの世界には存在しません。私が扱うのは、死者を死体のままで一時的に動かすだけの術です。死んで間もない場合は、まるで生きているかのように操作することも可能です。蘇った者は自分が死んでいることすらわからず、記憶もひどく曖昧になります。しかし、殺害されてから時間が経ちすぎていると、肉体に残る記憶の残滓そのものが霧散してしまい、いくら魔力を注ぎ込んでも声を聞くことは叶いません。ですが、やれるだけのことはやってみましょう」
私は白布をめくり、黒の革手袋をはめた右手を、遺体の額のあたりへと静かにかざした。
目を閉じ、自身の体内から魔力を練り上げる。
全身の血流が熱を帯びる感覚とともに、右手の指先から淡い紫色の魔力の光が漏れ出した。
冷え切った遺体の頭部へと、私の魔力がゆっくりと流れ込んでいく。
「……時間だ」
私は、冥府の扉を叩くように静かな声をかけた。
しかし、頭部だけの遺体はピクリとも動かなかった。
注ぎ込んだ魔力が手応えなく空回りし、ただの光となって空気中に霧散していくのが感覚として伝わってくる。
「だめですね。彼女が殺害されてから、時間が経ちすぎているようです。肉体の細胞が完全に沈黙し、魂の道標となる記憶の糸が完全に切れてしまっている。これではもう、彼女を呼び起こすことはできません」
「そうか……やはり、最初の手がかりは完全に閉ざされたか」
アンダーソン団長が苦虫を噛み潰したような顔で、悔しげに拳を握りしめた。
私は一つ目の金属台から離れ、すぐ隣にある二つ目の台へと向き直った。
こちらが二日前に公園で発見されたばかりの、二人目の犠牲者だ。
人形のように整った顔立ちと、冷気によって陶器のように滑らかになった肌は、いまだにどこか造形物のような不気味さを漂わせている。
アンダーソン団長が、手帳とペンを取り出しながら歩み寄ってきた。
「発見されて間もないし、この季節なので腐敗もありません。まだ記憶は残っているはずかと」
「ええ。これなら、何らかの証言を引き出せる可能性は高いでしょう」
私はそう答えながら、再び右手を上げ、遺体の冷たい額へとそっとかざした。
先ほどとは違い、確かな手応えがあった。
私の指先から注ぎ込まれる魔力が、虚無に消えることなく、遺体の奥底に眠る何かに絡みつく感覚だ。
静寂に包まれた安置所の中で、冷却装置の駆動音だけが微かに響く。
魔力の波長を調整し、死者の薄れゆく意識の残滓へとアクセスを試みる。
それは深く暗い水底から、切れかかった細い糸を慎重にたぐり寄せるような、ひどく繊細な作業だった。
「……時間だ」
私が静かにそう告げた瞬間だった。
陶器のように固まっていた犠牲者の顔に、微かな変化が訪れた。
血の気のない唇がわずかに震え、閉ざされていたまぶたの奥で眼球が微かに動く気配がある。
「おお……」
背後でヴィンセント先生が感嘆の声を漏らした。
彼は眼鏡の奥の瞳を少しだけ見開き、医者としての知的好奇心に駆られたように身を乗り出して遺体を観察している。
アンダーソン団長も息を呑み、ペンを構えたまま硬直していた。
「聞こえますか…」
私は魔力の供給を維持したまま、死者へ向けて努めて優しい声で問いかけた。
蘇った遺体は自分の死を理解していない。
「ここは病院です。あなたは公園のベンチで気を失っていたところを保護されました。最後に見たもの、あるいは強く記憶に残っているものはありませんか?」
死者の声をうまく引き出すためには、ロールプレイ的なアプローチが最適だ。
遺体の唇がわずかに開き、そこから空気が漏れるような音がした。
やがて、声帯を無理やり震わせたような、少し掠れた声が安置所に響き渡る。
「……思い出せるのは……」
遺体はまるで生き返ったかのように、言葉を紡ぎ始めた。
「……パスタを、食べたこと……。それと……雨が……降っていたこと……」
「パスタと、雨……」
アンダーソン団長が手帳に素早くその言葉を書き留めた。
「なるほど、雨の日にどこかの飲食店で食事をしていたということか。これは大きな手がかりになるぞ!」
団長が興奮気味に呟く横で、助手が呑気な声を上げた。
「パスタかぁ、いいですね。トマトソースかな、それともクリーム系かな。なんだかお腹が空いてきちゃいましたよ」
(こいつは本当に、状況というものを考えないな…)
私は助手の頭を小突きたい衝動を抑え、遺体へと視線を戻した。
証言は得られたが、もう少し具体的な状況を探りたい。
彼女がどこで食事をし、どのような経緯で殺害されたのか。
現場の状況や犯人の特徴など、肉体に残された痕跡から読み取れる情報もあるはずだ。
私はさらなる情報を引き出すため、遺体に対して直接的な命令を下すことにした。
「立ち上がることはできますか?」
私がそう命じたのは、複数の理由からだ。
遺体を立ち上がらせて身体を動かしてみることで、目視だけではわからない関節の異常や、隠された外傷、あるいは動作から記憶が蘇る可能性を期待しての命令だ。
新鮮な遺体であれば、ネクロマンシーの力で生前と同じように歩行させることすら難しくはない。
しかし、異常はすぐに現れた。
「……体が……」
遺体の口から、戸惑うような声が漏れた。
頭部だけがわずかに左右に揺れ、唇は動いているにもかかわらず、首から下の肉体がまったく反応を示さないのだ。
腕を持ち上げようとする気配も、身をよじるような動作も一切ない。
「どうしました?うまく動けませんか?」
私は魔力の出力を少し上げ、再度命令を下す。
しかし結果は同じだった。
「……体が…まったく…うごかない……」
虚ろな声がそう呟いたのを最後に、遺体のまぶたの奥の動きがピタリと止まった。
パツン、と目に見えない糸が切れたような感覚が私の右手に伝わり、魔力の接続が完全に途切れる。
遺体は再び、ただの物言わぬ冷たい肉塊へと戻ってしまった。
「どういうことだ、ヒューゴ殿。なぜ途中で術が解けた?」
アンダーソン団長が不思議そうに尋ねてきた。
「術が解けたのではありません。彼女自身の肉体が、私の命令を拒絶した……いや、物理的に命令を受信できなかったような状態です」
私は動かなくなった遺体をじっと見下ろした。
「ヒューゴ先生、もしかして魔力不足ですか?やっぱり朝ごはんはコーヒーだけじゃだめですよー」
助手がまたも的外れなことを言いながら、遺体の顔を覗き込む。
私はヴィンセント先生の方を振り返った。
「ヴィンセント先生、すぐに詳しい検死をお願いします。外傷は見当たりませんが、身体がまったく動かなかった理由が知りたい。この遺体には、見た目ではわからない致命的なダメージが隠されているはずです」
「……承知いたしました。すぐに準備に取り掛かりましょう」
ヴィンセント先生は静かに頷き、眼鏡の奥で一瞬だけ鋭い光を放ったような気がしたが、その表情はすぐに元の穏やかな医者のものへと戻っていた。
「助手、我々は検死の邪魔にならない場所へ下がるぞ」
「ええー、僕は間近で見たいんですけど?」
私はこれ以上無駄口を叩かせないよう、助手の襟首を掴んで少し離れた壁際へと引っ張っていった。




