【第10話】親は我が子を見間違えない
私の探偵事務所の重厚なオーク材のデスクには、紙とインクの匂いが混ざり合った特有の空気が漂っていた。
テーブルの上には、各所から取り寄せた書類の山がうず高く積まれている。
私は革手袋をはめた手で、それらの資料を一枚一枚めくり、ヴィンセントの過去を洗い始めていた。
彼がどこで生まれ、どのような学生時代を送り、どうやって王都で名医と呼ばれるまでになったのか。
その軌跡を一つ一つ追っていく。
資料によれば、彼は地方の貧しい村の出身で、類まれな治癒魔法の才能を見出されて王都の医学校へ奨学生として進学したという。
そこで寝る間も惜しんで努力を重ね、若くして治療院を開業し、今の名声を手に入れた。
しかし、その輝かしい経歴の裏には、ある一つの悲しい出来事が隠されていることも私は見逃さなかった。
若くして病気で亡くなったという、彼の元恋人の存在だ。
書類に挟まれていた古い写真には、栗色のボブヘアがよく似合う、儚げで美しい女性が写っていた。
名前はアイリス。
その髪型と髪の色は、『ドールメーカー』の犠牲者たちと酷似していた。
冷酷な事実の羅列が、私の頭の中で「忌まわしい一つの動機」へと色付いていくのを感じていた。
ガチャリと分厚い扉が開き、助手が息を切らして帰ってきた。
「ヒューゴ先生、ビンゴでしたよ!」
普段は食べ物のことばかり考えている能天気なやつだが、足を使った情報収集能力に関しては王都でも右に出る者はいない。
「そうか、これで二人が繋がったな!」
私は深く頷き、積まれた書類の一番上にアイリスの写真を置き、デスクの端の受話器を取った。
「あ、ヒューゴ先生、どこにかけるんですか?お腹空いたから出前の注文ですか?僕、今日はカツサンドがいいな」
「お前は冷蔵庫の中のものを適当に食べてろ」
私は助手の言葉を冷たくあしらい、ダイヤルを回して王都騎士団の交換手へと繋いだ。
「ああ、ヒューゴです。騎士団長に繋いでいただけますか」
少しの保留音の後、受話器の向こうから団長の大きくて野太い声が響いてきた。
「おお、ヒューゴ殿。どうしましたかな」
「ああ、団長、ついに犯人の目処がつきましたよ。全ての謎が解けました」
私が静かに告げると、電話越しでもわかるほどアンダーソン団長が息を呑む気配がした。
「な、なんと!それは本当ですか!」
私は少し受話器を耳から離した。
「ええ。そこで頼みがあるのですが、四人目の犠牲者のご遺族をもう一度呼んでもらえませんか?」
「四人目のご遺族をですか?母親は激しく腐敗した遺体を見て、自分の娘ではないと否定して帰られたはずですが……」
「詳細な説明は明日、全てお話しします。準備を整えておいてください」
「……わかりました。ヒューゴ殿がそこまで言うのなら、なんとか説得してみましょう。では明日に」
団長との会話のあと、私はもう一箇所に急ぎ電話をかけた。
「…ああ、ヒューゴです、急にすみませんヴィンセント先生。実は明日もう一度、遺体について確認したいことがあるのですが。ええ、急なお願いで申し訳ありません。……はい、それでは明日よろしくお願いいたします」
電話を切ると、私は椅子の背もたれに深く体重を預けた。
「先生、いよいよですね!僕、美味しいもの食べて明日に備えておきます!」
「お前は本当に……まあいい、明日は忙しくなる。カツサンドの出前をとれ」
小躍りしながら電話をかける助手を眺めながら、私は未だ掴みきれないその動機について考えていた。
ーー
翌日。
気持ちのよい春風が吹き抜ける王都の街を抜け、私たちは再び騎士団本部の地下遺体安置所へと足を運んでいた。
重厚な鉄の扉を押し開けると、地上の暖かな春風とは違い、冷却装置によって極限まで冷やされた安置所の空気が肌を刺す。
部屋の中央には金属製の台が並び、そこには激しく腐敗してどす黒く変色した四人目の遺体が静かに横たわっていた。
春めいた気候の影響で、キンキンに冷やされた室内であってもむせ返るような腐敗臭が立ち込めている。
そして部屋の奥にはすでに、白衣姿のヴィンセントが待っていた。
ヴィンセントは眼鏡の位置を中指で直しつつ、いつもの穏やかな表情で私に問いかけてきた。
「ヒューゴさん、今日は急にどうしたのですか?」
だが、その声の底には微かな緊張と警戒が混じっているのを、私は聞き逃さなかった。
私はマントを翻しながらゆっくりと近づき、ヴィンセントの真正面に立った。
「ヴィンセント先生、お忙しいところ申し訳ありません。本日もう一度あなたに確認をしてほしいことがあると、お呼びたてしたのは他でもありません」
「ええ、昨日おっしゃってましたね。そのためこうして準備をしてお待ちしていました。まさかまだ私を疑っているのですか?すでにアリバイは立証されていますよね?」
「ええ。はい、確かにアリバイは立証されています。あの夜、あなたが治療院にいたことは疑いようのない事実でしょう」
私は彼の言葉を真っ向から肯定した。
「しかし私のあなたに対する疑いが晴れたわけではありません。とりあえず今日は私の推理を聞いていただきたいのです。この凄惨な連続殺人事件に隠された、『ドールメーカー』の真の手口を」
私の言葉に、ヴィンセントは小さくため息をついた。
「はぁ、わかりました。それでヒューゴさんが納得するならいいでしょう。私としても、一刻も早く犯人が捕まってほしいと願っているのは同じですからね」
「ありがとうございます。ですがその前に、あるゲストに来ていただきたいと思います。入ってください」
私が安置所の入り口の扉に向かって声をかけると、重い鉄の扉がゆっくりと開いた。
中に入ってきたのは、赤毛の短髪に巨体を持つアンダーソン騎士団長と、その護衛として付き従う三人の屈強な騎士たちだった。
そして彼らの後ろから、ひどく緊張した面持ちで中年の女性が姿を現した。
四人目の犠牲者の身元確認に訪れ、遺体を「自分の娘、ジェシカではない」と断言した母親だ。
彼女の姿を見た瞬間、ヴィンセントの顔に微かな動揺が走った。
「あなたは…確か……」
ヴィンセントが呟く。
「そう、今そこに横たわっている四人目の犠牲者のご遺族です」
私が静かにそう告げると、ヴィンセントは訝しげに眉をひそめた。
「しかし、あなたは先日、ご遺体は娘さんじゃないと仰っていましたよね」
ヴィンセントは中指で眼鏡のブリッジを押し上げながら、母親に向けて静かに問いかけた。
その口調はあくまでも理性的で、思いやりのある医師のものを保っている。
「なぜまたここに?まさか、あれから考え直して、このひどく腐敗した四人目の遺体が、ご自身の娘さんだと認めたということですか?」
母親は彼の言葉に怯えたように肩を震わせ、隣に立つアンダーソン団長の顔を不安そうに見上げた。
私が彼女の代わりに口を開く。
「ええ、この方の娘さんは確かにこの安置所におられます」
「ん?ヒューゴさん、言っている意味がわかりません。彼女はご自身で否定されたのですよ。この遺体は娘さんではないと」
「確かにそうですね。…ヴィンセント先生、本日伺ったのはそちらのご遺体の確認ではありません。先生……三人目の犠牲者のご遺体をみせてもらえますか?」
私のその言葉が安置所に響いた瞬間だった。
ヴィンセントの顔から、常にはりついていた温和な笑みが完全に抜け落ちた。
眼鏡の奥の瞳がわずかに見開かれ、白衣の袖口から覗く指先が微かに震えるのを私は見逃さなかった。
彼は明らかに動揺している。
「…な…なぜですか?この方は、四人目のご遺体のご家族ですよね?三人目の身元不明の遺体とは何の関係もないはずです」
ヴィンセントの声は平坦を装っていたが、その底には隠しきれない焦りが滲んでいた。
「そうとも言えるし、…そうとも言えません」
私はあえて核心を突かず、謎めいた言い回しで彼を揺さぶる。
私の言葉に、腕を組んで聞いていたアンダーソン団長が怪訝そうに首をかしげた。
「どういうことだ、ヒューゴ殿。三人目と四人目が関係しているとでも言うのですか?」
団長の大きな太い声が安置所に反響する。
ヴィンセントは無言のまま、冷や汗をにじませて立ち尽くしている。
その場から一歩も動こうとしない彼に対し、アンダーソン団長が一歩前に出た。
「ヴィンセント先生、見せられないのですか?」
団長の言葉は問いかけであったが、明らかに「見せろ」という命令の意図を含んだ声色であった。
付き従う三人の騎士たちも、無言でヴィンセントに鋭い視線を向けている。
この状況で拒絶することは、自らの不審を決定づける行為に他ならない。
ヴィンセントはゆっくりと、壁に並んで埋め込まれている遺体保管用の引き出しへと向かった。
ガアァァァァ……ガシャンッ!
重い金属がこすれる音とともに、巨大なトレイが手前に引き出される。
そこには先日発見され、身元不明のままとなっている三人目の遺体が、黒い袋に包まれていた。
私は母親へと向き直り、静かに促した。
「お母様。お辛いでしょうが、どうか前へ。そして、お顔を……」
母親は震える足取りで、金属の引き出しへと近づいていく。
アンダーソン団長も、助手も、そしてヴィンセントも、安置所にいる全員がその場に縫い付けられたように彼女の動きを注視していた。
母親が遺体のそばに立つと、私は黒い遺体袋のジッパーをゆっくりと下げた。
彼女の指先が震え、ひどく躊躇っている様子が伝わってくる。
しかし彼女は意を決したように、ゆっくりと袋を左右に開いた。
現れたのは、血の気を失い蝋細工のように青白くなった、美しい女性の顔だった。
その顔を見た瞬間、母親の目から大粒の涙が溢れ出した。
「ああ…あぁぁぁぁぁ…!」
彼女は両手で顔を覆い、喉の奥から絞り出すような悲痛な叫び声を上げた。
「娘です!間違いありません!ジェシカです……どうして、どうしてこんな姿に……っ!」
母親は泣き崩れ、金属の引き出しにすがりついて号泣し始めた。
冷たい安置所に、我が子を失った母親の悲しみの声が木霊する。
その言葉を聞いた瞬間、アンダーソン団長は目を見開き、愕然とした表情で私とヴィンセントを交互に見た。
「これはいったい、どういうことだ?!」
団長の低い怒声が、遺体安置所の空気をびりびりと震わせた。
娘の亡骸にすがりつく母親の泣き声だけが、冷え切った安置所に虚しく木霊していた。
私は無言のまま、金属台の上に横たわる二つの遺体を静かに見下ろした。




