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第三章 葛藤と衝突

 翌朝。

 村の者にとってはいつもと変わらぬであろう、のどかな朝が訪れていた。


 くわを担いで畑へ向かう者がいる。

 冷たい小川で身を屈め、鼻歌混じりに洗濯をする者もいた。

 子供たちが無邪気な笑い声を響かせ、畦道を駆け回っている。


 空は、どこまでも青かった。

 昨夜の曇天が嘘だったかのように、一片の雲すら見当たらない。

 春の日差しは柔らかく、山々を覆う若葉は眩しいほどの緑を湛えていた。


 風が吹く。

 木々の梢がさやさやと揺れ、その音は耳に心地良いはずだった。

 けれど千種は、胸の奥に拭い難い違和感を覚えていた。


 あまりにも穏やかだった。

 空も。風も。陽光も。

 まるで何事も起こらないとでもいうように、世界は静かだった。


 見上げた空は高い。

 どこまでも澄み渡り、果てなど存在しないかのようだった。

 その青さが、どうしようもなく不気味だった。


 旅籠の二階、手摺てすりの剥げた窓際からその光景を眺めながら、千種は昨夜の祠を思い出していた。

 甘やかな香り。神の慈愛。黒革手袋の、冷たい質感。

 狂おしいほど愛おしく抱きしめられた幼子の身体から、蛍のように舞い、吸い込まれていった淡い命の光。

 その事実の記憶だけが、目の前の晴天から酷く浮いていた。


「寝不足か」


 背後から、低い声がした。

 振り返らなくとも、誰だかわかる。


「……少し、頭が痛くて」

「神気に当てられたか。お前は、見え過ぎるようだな」


 拍動に合わせた頭痛が、ひどく鬱陶しかった。

 偏頭痛にも似たそれは、視えることへの弊害だった。


「眼を開けば良いというものでもない。まぁ、視方など、そのうち嫌でも解るようになる。こればっかりは、慣れるしかない」


 衣擦れの音をさせて歩み寄ってきた水瀬は、千種の隣に並び立つと、懐から取り出した煙草に火をつけた。甘苦い葉の香りが、鼻腔を掠める。

 紫煙がゆっくりと、朝日の差し込む天井へ向かって輪を描きながら昇っていく。


「水瀬さん」


 千種は、視線を外の情景へと向けたまま口を開いた。


「昨夜の神は……本当に、滅さなければならない邪神なんでしょうか」


 部屋に、沈黙が落ちた。

 水瀬の指に挟まれた煙草の先が、微かに赤く灯る。


「俺は、そう判断した」

「ですが」


 思わず声が強くなる。千種は水瀬との距離を一歩詰めて、その顔を仰ぎ見た。

 水瀬は、なおも前を見ている。


「悪意なんて、どこにもありませんでした」

「そうだな」

「人を害そうとも、呪おうともしていなかった」

「そうだな」

「なら――」

「だから何だ」


 千種の言葉は、途中で遮られた。

 水瀬はその視線を一向に千種へと向けず、ただ眼前に広がる幸福そうな村の営みを、じっと見つめていた。


「お前は、その眼で何を見た」

「神の慈愛です」


 即答した。焦茶色の瞳に、迷いはない。


「あれは確かに、人を愛していました。あの幼子を、村人たちを、心から救いたいと願っていました」

「そうだろうな」


 肯定の言葉とは裏腹に、水瀬の声音はどこまでも平坦だった。

 水瀬の顔が、ようやく千種へと向いた。

 その双眸に捉えられた千種もまた、ひどく冷めた虹彩を、真っ直ぐに見つめ返す。

 その眼差しは、ただ冷たいだけではないように思われた。ずっと奥に、言い知れぬ傷を抱えているようにも見えるのだ。


「鏡守」


 名を呼ぶ声は、宥めるでも諫めるでもなく、常と同じ感情の籠らぬそれだった。


「お前は、あの神が何をしていたと思う。失ったものを返していたとでも言うつもりか」

「そうです。少なくとも彼らは、それで救われている」

「紛い物の光では、人は救えない」

「救えます。現に彼らの心は穏やかだ。それは、あの神が喪失を忘れさせてくれたからでしょう」

「違う。あれは、人が喪失を受け入れる機会を奪っているだけだ」


 千種は、言葉に詰まった。

 彼らは、幸福なのだ。

 大切なものを失い、掛け替えのないものを失くし、悲観と絶望の中で生きていくよりは、よほど。

 例え紛い物だと解っていたとしても、それに縋って生きていくことの何が悪い。

 誰しもが喪失を受け入れられるほど、人は強くない。


「死者は死者だ。どれほど優しく包もうと、生者の血を吸う言い訳にはならない。人は別れを受け入れて、痛みを抱えて生きるものだ」

「それは貴方が強いからではありませんか。誰もが皆、貴方みたいに強いわけではないんです!」


 気付けば、千種は上官に対して声を荒げていた。


「それで救われる人も居るでしょう! 痛みに耐えかねて、死んでしまうくらいなら……あのままでも、笑っていられるなら……!」

「居るだろうな。だから厄介なんだ」


 吐き捨てるようなその一言に、千種は今度こそ言葉を失った。


 水瀬は外套のポケットから、銀色の懐中時計を取り出した。

 朝の陽光が、風化しかけた銀の彫刻に反射して痛いほどに煌めく。


「悪意を持つ神なら簡単だ。対処のしようもある。人を殺し、人を呪い、人を喰らう。それならただの『害獣』として駆除すればいい」


 カチリ、と硬い音を立てて時計の蓋が開く。規則正しく時を刻む音が、妙に大きく聞こえた。


「だが、善意で人を壊すものは、判断を狂わせる」


 再び前を向いた水瀬の横顔は、相変わらず石碑のように無表情だった。

 けれど、千種の澄んだ眼は捉えていた。ほんの僅かに、その漆黒の瞳が揺らいだことを。


「俺は、何度も見てきた。人を愛した神も、人を救った神も……人のために、狂っていった神も」


 窓の外では、村人たちが今日も今日とて笑っている。

 その肉体が少しずつ神に食い潰されていることに、彼らは気づいているのだろうか。


「だから俺たちは、情ではなく事実で見極める。――そのための、鑑定士だ」


 カチリ、と懐中時計が閉じられた。秒針の音が、遠くなる。


 千種は制服の袖の中で、きつく拳を握り締めていた。

 納得できなかった。どうしても、受け入れたくはなかった。

 昨夜、この眼で視たあの神の感情は、決して偽物などではなかった。

 あれは確かに人を愛していた。誰よりも。何よりも。痛いほどに、純粋に。


 だからこそ。


 千種は、己の眼を覆ったその掌の主――水瀬陣という男の冷徹さに、初めて、激しい反発を覚えていた。


「……認められません。絶対に」


 どこまでも深く、尊く、美しいあの慈愛の情を持つ者を葬るなど。

 そんなおぞましい生き物に、成り下がりたくはない。


 煌めく瞳は、社の方角を見据えていた。

 遠く光の輪郭が、静かに微笑みかけているようだった。


 何処からともなく、微かに甘い、土のような香りがした。


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