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第四章 神の往く末

 三日後。

 神定省から届いた通達は、役所特有の、あまりにも簡潔で血の通わないものだった。


 神格鑑定局による現地調査報告、戸籍台帳及び神気鑑定報告

 それらを総合的に勘案した結果、当該神格の対処を以下と定める


 対象神格:名称不明

 危険度:乙種

 判定:邪神

 処分区分:討滅


 内閣府神定省邪神対処局により速やかに是を執行する


 墨で書かれた、たった数行の宣告。

 それが、あののどかな村の『幸福』を終わらせるための、絶対的な国家の意思だった。




 ※




 この日も空は、恐ろしいほどに晴れ渡っていた。

 雲一つない、果てを知らない青空だった。


 村の入口に停まった馬車から、黒衣に身を包んだ男たちが次々と降り立つ。

 内閣府神定省――邪神対処局。

 彼らの纏う漆黒の軍服は、千種たち神格鑑定局の文官を思わせる制服とは異なっていた。その胸元には銀ではなく、冷たい鉄色の徽章が、陽光を吸い込み鈍く光っている。

 彼らの腰には封印具と軍刀が提げられていた。神を殺すための装備だ。


 誰も笑わない。誰も雑談を交わさない。

 上層部からの命令を遂行するためだけに、彼らはこの場に集っている。何の感情も表に出すこともなく、ただ国を回す歯車の一部として、機械的に任務を遂行する。


 千種は隊列の最後尾で、彼らの物言わぬ背中を見つめていた。

 胃の奥が、鉛を詰め込まれたように重い。吐き気がする。今すぐこの場から逃げ出したかった。

 それでも、硬い制服の革靴で土を踏み、何とか前へと進んでいく。

 少し前を歩く水瀬は、何も言わなかった。ただ、その黒の外套だけが、静かに風に揺れていた。




 ※




 異変を察知した村人たちが、一人、また一人と集まり始めていた。

 社へと続く苔むした石段の前。

 畑の土で手を汚した男が、割烹着姿の女が、小さな子供が。怯えと不安の混じった顔で、黒衣の集団を見つめている。


 やがて、人波を割って村長が前へと出た。

 その顔からは、初日に見せた慇懃な笑みは完全に消え失せていた。

 表情を強張らせながら、彼は一団を睨み据える。


「……何をする気だ」


 対処局の男たちは誰も答えない。ただ一人が事務的に一歩前へ出ると、冷淡に書類を読み上げた。


「神定省の決定に基づき、当該神格を処分する。速やかに道を開けよ」


 一瞬にして、空気が凍りついた。

 村人たちの顔から、血の気が引いた。


「やめろ……!」


 誰かが悲痛な声を上げた。


「神様を連れて行かないで!」


 別の誰かが叫び、それを皮切りに、幼い子供たちが母親の裾に縋って泣き始めた。


「神様は悪くない!」

「何も悪いことなんか、しとらん!」

「あのお方は、うちの人を返してくれたんや! 助けてもろうたんや!」


 広がっていく叫び声は、怒号というよりは、剥き出しの悲鳴に近かった。

 千種は滅紫色の袖の中で、爪が皮膚に食い込むほどに拳を握り締めていた。村人たちの叫びのどれもが、千種の胸の奥に深く、抉るように突き刺さる。


 気分が悪い。胃の辺りがきりきりと痛む。

 足元が揺れ、視界がぼやける。指先が、じんと痺れた。

 いくら呼吸を繰り返しても、息苦しさは増すばかりだ。


 自分たちは、この人たちから『幸福』を奪いに来た。

 そして再び『喪失』を与えに来た。


 その事実が、千種の頭の中をぐるぐると駆け巡っていた。




 ※




 石段の先。

 小さな社は、今日も木漏れ日の中で静かに佇んでいた。

 さやさやと風が吹き、周囲に神特有の、甘やかで泥臭い、人肌に似た花の香りが漂う。


 千種の眼は、知っていた。

 あの社の中から、光の輪郭が、こちらをじっと見つめていることを。

 そこには、無作法に訪れた者たちに向けられる敵意も、怒りも感じない。

 旅から帰った子供を迎える母親のような、慈愛に満ちた眼差しが、静かに人の子らを見守っていた。


「――結界展開」


 邪神対処局の隊長が、冷酷に告げた。

 社の周囲を取り囲んで立つ男たちが、一斉に呪言の術式を展開する。

 大気がびりびりと不気味に震え、張り巡らされた網のような光の鎖が、容赦なく社を縛りつけた。


 社の中の神の姿が、震えた気がした。


「やめてください……!」


 気がつけば、そう叫んでいた。

 引き裂くような千種の声が、静寂の境内に響き渡る。

 対処局の男たちの、感情のない視線が一斉に千種へと集まる。だが、術式を展開する手は止まらない。


「違う……!こんなの、間違ってる!」


 喉が切り裂かれたように痛い。口内に、鉄錆びの味がした。それでも、声が掠れるほどに叫び続けた。


「あれは、邪神なんかじゃない……! 人を、人をこんなに愛している神が、邪神であるはずがない!!」


 涙が視界を遮る。

 千種は、傍らの水瀬を仰いだ。

 何か言ってくれ。これは間違いだと。今からでも止められるだろうと。

 そう願い、縋るような視線を向けた。


 だが、水瀬は何も言わない。

 傍らに佇んだまま、静かに神の姿を見つめていた。その漆黒の瞳の奥の感情は、やはり読めない。


「救いたいと願っていた……! ただ、それだけなのに! どうして――」


 ――どうして、殺すんですか。


 国家のシステムという巨大な壁が、眼前に迫る。

 その壁を前に立ち竦む身は、最後まで言葉を紡ぐことができなかった。


「対象確認」


 邪神対処局の隊長は、千種の声など一切耳に届いていないかのように、淡と命令を下す。

 涙を溢れさせるしかできない千種の前で、隊長の手が無慈悲に掲げられた。


「討滅準備」


 ――パキィン、と硬質な光が弾けた。


 術式の鎖に限界まで圧されていた白い神気が、その形を失い、霧散する。

 天に向かって舞い上がった白い光の粒子は、まるで春の終わりに散る、無数の小さな花弁のようだった。


 村人たちの目には、何も映らない。それゆえに、何が起こっているのかも分からない。

 ただ、とてつもなく大切な力が、今、この瞬間に失せてしまったことを、誰もが感じ取っていた。


「ああ……、神様……っ!」


 村人の傍らに在った光の輪郭が、次々に形を失っていく。

 母親が、子供が、夫が、妻が、犬が――まるで最初からそこには何もなかったかのように、崩れて融けていった。


 石段の下で、村人たちが一斉に泣き崩れる。

 一人の男が正気を失ったように石段を駆け上がろうとし、対処局の者の腕によって乱暴に組み伏せられた。

 罵声が飛び、悲鳴が響き渡る。それでも、鉄色の徽章をつけた男たちの術式は、冷酷に、淡々と出力を上げていく。


 そして。


「――執行」


 千種の焦げ茶色の虹彩は、神気を失った神の輪郭をはっきりと映していた。

 明瞭な輪郭が、少しずつ、崩れていく。融けるように、消えていく。


 神は、自らが消えかけている間際にあっても、一切の抵抗をしなかった。

 その身を縛り上げる鎖から逃れようとも、自らを滅ぼす人間を呪おうとも、憎もうともしていないように見えた。

 ただ。ただひたすら、愛おしそうに。憐れむように。慈しむように。泣き叫ぶ村人たちを、そして立ち尽くす千種を、その光の双眸で見つめ続けていた。


 ざあっと、風が吹いた。暖かく、乾いた風が吹き抜けて、木々の葉が高く空へと舞った。

 柔らかな光が、村全体を、天と地を、優しく包み込む。


 ――どうか。


 耳の奥で、確かな声が聞こえた気がした。


 ――幸福であれ。


 次の瞬間。

 眩い光は、掻き消えた。

 完全に。

 熱だけを大気に残して、何もかたちを残さずに。


 静寂。


 誰もが、何も言えなかった。


 やがて。


 村人の泣き叫ぶ声が、静寂を切り裂いた。

 その声を皮切りに、村人たちの地を這うような慟哭が響き渡った。

 ある者が、黒衣の背に向けて怒りの石を投げた。

 ある者は、涙で顔を汚しながら「人殺し」と罵声を浴びせた。

 またある者は、地面に崩れ落ち、二度と立ち上がれずにいた。


 千種は、一歩も動けなかった。

 堰を切ったように溢れ出す涙を拭うこともせず、ただその場に立ち尽くしていた。


 本当にこれが、正しい行いなのだろうか。もしかすると、取り返しのつかない過ちを犯してしまったのではないだろうか。

 村人たちの悲痛な叫び声が、鼓膜の裏で響き続けている。


 神が消えるその刹那、人に向けた美しい微笑。

 剥き出しの眼に焼き付いたそれが、硝子を焼いた傷痕のように、いつまでも離れなかった。


 千種はこの日初めて自らの『視える眼』を呪った。


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