第二章 慈しみの檻
「我が村の神様は、悪さなどなさらん。どうか、お引き取りを」
村長の言動は慇懃ではあったが、その双眸が冷え切っていることに、千種は気がついていた。しかしそれ以上何を言えるわけでもなく、踵を返した水瀬の背に続いた。
追い出されるようにして庵を出た二人の頭上を、芽吹きの季節特有の生暖かい風が吹き抜けていく。妙に身に纏わりつくようで、千種はインバネスコートの裾を軽く払った。
「僕たち、歓迎はされていないようですね。良い神様と定められれば、村の発展にも繋がるのに。別に、頭ごなしに害を成すと決めつけて調査に来たわけでは……」
「鏡守」
千種の言葉を、低い声が遮った。
水瀬は立ち止まり、懐から取り出した煙草にマッチで火をつけた。紫煙がゆらりと湿った空気に溶けていく。水瀬の冷たい視線は、遠く山の方に向けられていた。
「想定内だ。最初からまともに話す気などない」
「え……?」
さっさと歩き出した水瀬の背を、慌てて追いかける。
村の集落に差し掛かったとき、千種の足元を白い影が横切った。――犬だった。
「こら、駄目よ。お散歩はまた今度」
追いかけてきた娘がしゃがむと、犬はその腕に飛び込んでいく。娘はそれを大事そうに抱えると、徐に立ち上がった。
「すみません。うちの犬が」
「いえ。――それは、犬ですか?」
「……?それ以外、何に見えます?」
不思議そうに小首を傾ぐ娘の前で、水瀬は人当たりの良い笑顔を浮かべた。
娘は会釈して、立ち去っていく。千種はその背を、茫然と見遣っていた。
「……水瀬さん。あれは……」
――犬ではなかった。
少なくとも千種の眼には、犬のカタチを模った『光』に見えた。
その光を大切そうに抱く女性の背には、陽炎のように揺れる影が、蔦のように絡みついている。
千種は辺りを見回し、そして息を呑んだ。
目に留まる村人の傍らには決まって光が佇み、そして彼らは皆、背に影を負っていた。村人たちは皆、正体の解らぬそれに向かって、それは幸せそうに笑っている。
千種の見開かれた瞳が、硝子玉のように煌めいた。その光を捉えようと、焦茶の虹彩が揺れる。ひとつ、またひとつと光を順に追っていく。
その横顔を一瞥した水瀬が、千種の視線を遮るように前へと躍り出た。
「――宿へ行くぞ」
水瀬はそれだけ言うと、漆黒の外套を翻して歩き出した。
千種はその場に佇んだまま、ぎゅっとコートの胸元を握った。コートの下で、心臓だけが落ち着きを失っていた。
※
古びた旅籠の一室で、水瀬は一枚の書類を千種の前に放り出した。
「神定省が事前にまとめた、この土地の戸籍と死亡率の記録だ」
「これは……」
手渡された紙面を見て、千種は言葉を失った。
「ここ十年間、この村の人間の大半が五十より前に死んでいる。平均寿命は四十に届くかどうかだ」
「そんな――まさか」
水瀬は、昼間に視た光を思い返していた。どこまでも眩く、そして温かい光。見ているだけで心が満たされるような、そんな光だった。
「……皆さん、幸せそうでした」
水瀬は何も言わず、銀の懐中時計をカチリと閉じた。
「あの笑顔は作り物ではありません」
「神が居るのは事実だろう。だが資料の結果が神の影響であるなら、見逃せない。だから、俺たちが来た」
真実を、この眼で見極めるために。
千種は、机を挟んで座す水瀬の顔を真正面で見据えた。相も変わらず、何を考えているのかわからない無の表情だ。見え過ぎるこの眼を以てしても、何も窺い知ることはできなかった。
「夜を待つ。――祠へ行くぞ」
※
村を覆う夜の闇は、帝都のそれよりも遥かに深かった。
電灯のない山道を、二つの漆黒の外套が静かに進んでいく。
低い雲の立ち込める、月も星もない夜空の下。容赦のない闇が、足首を掴んでくるような錯覚すら覚えた。
「灯りを、持ってくるべきでしたね」
「要らん。人目に付くと厄介だ」
耳に痛い静寂の中、聞こえるのは二人の土を踏む音だけだった。
獣の気配も、虫の気配ですら感じられない。不気味なほどに、命の気配がしなかった。
苔むした石段を上がるにつれ、甘やかで、どこか泥臭い花の香りが、周囲に漂い始めた。次第にそれは、濃密なものとなっていく。
――神が近い。
二人はどちらともなく、目配せをした。
石段を上り詰めた先、そこには小さな祠があった。古木の根元に寄り添うように、質素な社が建っている。
長い年月を経た木材は飴色に変色し、屋根の端には風雨に削られた痕が残っている。柱にも、細かな傷が刻まれていた。
けれど不思議と、荒廃した印象はなかった。
多くの木々に覆われながら、石段には落ち葉ひとつ落ちていない。祠の周囲も、綺麗に掃き清められている。
供物台には今日供えられたばかりと思しき果物が並び、小さな花瓶には野花が活けられていた。
誰かが毎日手入れをしているのだろう。
否。
誰か、ではない。
村人全員が、この場所を大切にしている。
そんな気配があった。
花のような、土のような甘やかな神の香り。
この祠に限っては、人肌の残り香にも似ている気がした。
千種は悟る。
この場所は、長く、深く、人々に祈られ続けてきたのだろうことを。
祠の前に、幼子がぽつんと座り込んでいた。
小さな手を合わせ、一心に社の奥へと祈っている。
水瀬は、黙したままそれを見ていた。
千種は、息を呑んだ。
社の奥から零れ出る神気が、闇の中で淡く、白く揺らめいている。
まるで誰かがそこに居て、静かに微笑んでいるかのようだった。
千種は、眼の奥を限界まで見開いた。
人ならざる者を映す焦茶色の瞳が、闇の奥の真実を、捉える。
「あ……」
社の奥から漂う白煙のような神気が、幼子の小さな身体を包み込んだ。まるでそれは、我が子を慈しむ母親が、その腕で抱き締めているかのようだった。
神の側から溢れ出すのは、おぞましい悪意などではない。どこまでも純粋で、無垢な、穢れなき『慈愛』の情そのものだった。
神気が模る輪郭が幼子の髪を愛おしそうに撫でるたび、その身体から淡い光の粒子が抜け、神の中へと吸い込まれていく。
幼子は苦しむどころか、温もりに微睡む至福の笑みを浮かべていた。
「違う……」
千種には、それが母親の姿に見えた。
幼子が求め続けた面影そのものだった。
「これは……邪神なんかじゃ……」
見開いた眼から、涙が溢れた。
神の感情が、静かに流れ込んでくる。
寂しい。悲しい。救いたい。失わせたくない。
――人が愛おしい。
悲痛なまでに純粋な慈愛の情に、千種の心が呑まれかける。
その瞬間。視界が暗くなった。
水瀬の黒革手袋の掌が、千種の眼を覆っていた。
「――もう視るな。息をしろ」
低く、僅かに掠れた声が、耳元で囁く。
千種は思い出したように、息を吸った。
喉が嗚咽に震え、思うように呼吸ができなかった。
「神の感情を覗くな」
水瀬は、なおも続けた。
「神の視点に立とうとするな」
落ち着き払った声音だった。
手袋越しに、水瀬の体温が伝わってくる。
千種の心が、少しずつ凪いでいく。
「眼を閉じろ。それ以上見ようとするな」
千種は、言われるがままに瞼を落とした。
なおも止め処なく溢れる涙が、水瀬の革手袋を濡らす。
それでも受け止めきれなかった雫が、頬を伝って地に落ちた。
「俺たちは神の前では虫螻にも及ばない。烏滸がましい真似をすれば、お前の心が壊れる」
奪われた視界の中で、千種は激しく脈打つ自分の心音を聞いていた。
水瀬の掌に覆われたまま、千種はただ、震えることしかできなかった。




