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第一章 幸福の村

 村人は皆、幸福に満ちていた。

 彼らは皆、喪失の先に救済が待っていることを知っていた。


 時は大正十年。

 時代の波に取り残されたような、小さな村があった。


 山々に囲まれたその土地には鉄道も通らず、電灯も少ない。

 文明開化の恩恵など、まだ遠い国の話だった。


 けれど村人たちは、幸せだった。


 春になれば山桜が咲き、夏になれば蛍が舞う。

 秋には黄金色の稲穂が頭を垂れ、冬には白雪が村を包んだ。


 決して豊かな村ではない。けれど貧しくとも、皆、笑っていた。


 可愛がっていた犬を失くした、飼い主がいた。

 傍らの犬が、飼い主を見上げていた。


 夫を亡くした、老婆がいた。

 縁側に座す老婆の隣で、夫が微笑んでいた。


 子供を失くした、親がいた。

 腕の中で、子供が寝息を立てている。


 皆、幸せに包まれていた。


 村には、小さな祠があった。

 苔むした石段の先。古木の根元に寄り添うように、質素な社が建っていた。

 村人たちは毎朝そこへ赴き、花や果物を供え、手を合わせた。


 社には、神が居た。

 そのことを、村の誰もが信じて疑わない。

 幸福をもたらしてくれる神が、確かにそこに居ることを、この村の者であれば知らぬ者などいはしない。


 村の端で、今日も立ち昇る白煙があった。

 村の皆が集まって、空へ還る白煙の先を仰いでいた。

 この村では連日のように、繰り返される光景だった。


「おっかぁ、なんで死んでしもうたん」


 涙を流す幼子の肩を抱き、村人は言った。


「神様に祈れ。必ず、お前の願いを聞き届けてくださる」


 幼子は毎日社へ足を運び、野花やなけなしの食料を捧げ、神に祈った。


 神は、その願いを受け取った。


 幼子は一度失くした母親と手を繋ぎ、野道を歩んでいた。

 それはそれは幸せそうに、笑っている。

 村人たちも皆、その光景を微笑ましげに眺めていた。

 喪失の先の救済を、心から祝福した。


 ――ある日。

 村に、政府の人間がやって来た。


 村人たちの幸せは、終わりを告げた。




 ※




 馬車を降りた青年は、赤煉瓦造りの庁舎を見上げた。

 建物は帝都の中心にありながら、どこか神域を思わせる静寂を纏っている。

 青年は『内閣府神定省』と記された扁額を横目に見ながら、物々しい正門を潜った。

 その表情は、登庁日の初日を窺わせるに十分なほど、ひどく硬い。


 重厚な扉を押し開け、庁舎に一歩足を踏み入れる。

 途端に、外とは異なるひんやりとした空気が頬を撫でた。


 磨き上げられた石床。高い天井。役所というよりは、巨大な神殿のような雰囲気を感じさせた。

 正面の大壁画に、青年の視線が吸い寄せられた。思わず足を止め、大きな双眸で仰ぎ見る。

 一番目立つところにあるそれには、藤の木が描かれていた。一面を彩る淡紫が、この場の空気をさらに静謐なものとしていた。左下には『対魔省』の文字があった。神定省へ改組される以前に描かれたものなのだろう。


 千種の眼が、淡紫色を映し続ける。高窓から差し込む光に、瞳の焦茶が煌めいた。人ならざる者を映すその眼は、壁画の藤を捉えて離さない。


 やがて大きく息を吐き、青年はようやく壁画から視線を外した。重い歴史の象徴に、青年の背は自ずと伸びていた。淡い栗色の髪が揺れる。

 整った顔立ちではあるが、まだ少年らしさの残る輪郭は年齢より幾分幼く見えた。


 青年は事前に言われていた通り、先ずは受付へと向かった。

 廊下に響く足音は驚くほど小さく、擦れ違う職員たちもまた必要以上の声を立てない。


「こちらが、貴方の名刺です。新たな神格鑑定士を歓迎します」


 新任職員の案内係を務める女性が、新人へと名刺の束を手渡した。

 受け取った青年は、その紙上へと視線を落とす。


 内閣府神定省 神格鑑定局所属

 神格鑑定士 『鏡守かがみもり 千種ちぐさ


「舌を……噛みそうですね」

「すぐに慣れます。そのうち寝言でも言えるようになりますよ」


 軽い調子で答える案内役の背に、千種が続く。

 とある扉の前で、二人の足が止まった。

 扉の横には、『神格鑑定局』と記されている。


「こちらが執務室となります。では、頑張ってくださいね」


 女性は定型文のような台詞を告げると、さっさと立ち去ってしまった。

 その背が廊下の曲がり角へと消えてから、千種は再び手元の名刺へと視線を落とした。


「僕に……務まるのかな……」


 ――神格鑑定士。


 その名の通り、神を鑑定する者だ。

 国家資格である神格鑑定士は、誰もがなれるものではない。国立の養成校を出て、国家試験に合格した者だけが鑑定士と認められる。その養成校へも、当然のことながら神を視る素質がなければ入学できない。狭き門をいくつも潜り抜けた先でようやく得られる、謂わばエリートだ。


 役職の重みが、今更ながらに肩に圧し掛かるようだった。

 立ち竦んだように扉を開けることができないでいた千種の後ろから、


「おい。邪魔だ」


 低く、感情の起伏を感じさせない声がした。

 千種が振り返ると、そこにはその声の主に似つかわしい、冷たい双眸をした男が立っていた。

 歳は三十前後に見えた。整った顔立ちだが、その双眸には年齢以上の静けさがあった。

 漆黒の髪と瞳。肩に掛けているインバネスコートもまた黒く、まるで夜をそのまま纏っているようだった。

 コートの下には、滅紫色の制服が覗いている。襟元を走る銀のモール線は、千種より遥かに上の階級であることを示していた。

 身長差のため、自ずと仰ぎ見る形となりながら、千種は慌てて脇へと退いた。


「し、失礼しました」


 男は何事もなかったように扉へと手を掛けたが、開けるよりも早く、再度千種の方を見た。


「新人か」

「はい」

「名前は」

「鏡守千種です」

「俺は水瀬陣みなせじんだ。――鏡守。早速だが仕事だ」


 口早に自己紹介を終えて、水瀬は執務室へと消えていく。

 後を追うべきか迷っていると、すぐにまた戻って来て、千種の胸に荷物を押しつけた。

 それは、今水瀬が身に纏うものと同じ、制服と外套がいとうだった。


「早く着替えてこい。行くぞ」

「は、はい」


 千種は右も左も解らぬまま、初任務に就くことになった。




 ※




 二人を乗せた馬車は、帝都の華やかな街並みを越え、山間やまあいの道を進むようになった。

 舗装のされていない道に車輪を取られそうになりながら、馬車は荒々しく進んでいく。

 余りの揺れの激しさに顔面を蒼白に染めている千種とは裏腹に、水瀬はその長い足をゆったりと組み、腕組みをして、涼しい顔で窓の外を眺めていた。


 支給された制服は、思った以上に身体の線にきっちり沿って作られていた。

 まだ生地の硬い制服に初めて袖を通したとき、自らの頼りない体格が強調されるようで、ひどく着心地が悪かった。

 明らかに、制服に着られている。

 そんな自身の姿とは違い、制服越しにも逞しいことがわかる体格が眼前にある。

 厳格なようでいて、優雅にもそれを着こなす上官の姿に、羨望を隠しきれない眼差しを向けながら、千種は重い溜息を零した。

 上肢全体を締め付けてくる慣れない感覚が、殊更に酔いをひどくさせる。


「――停めるか?」


 ちらと千種を見遣った水瀬が、やはり感情のこもらぬ声で言った。だが、その眼は千種を気遣うような色を滲ませている。

 与える印象よりは、冷たい人ではないのかもしれない。


「大丈夫です……」

「そうか。……あと少しだ。限界が来る前に言え。くれぐれも、そこで吐くなよ」


 前言撤回だ。至極面倒くさそうに言い放つ男の視線は、早々に窓の外へと逸れた。その横顔も、彫刻のように整っている。

 車酔いが、より一層ひどくなった。




 ※




 ようやく村へと辿り着いた二人は、まず村長の宅へと真っ直ぐに向かった。

 何の変わり映えもない、何処にでもあるのどかな村のように思えた。

 ただ一つ、村人たちが皆、遠目にじっとこちらを見ていることを除いては。

 あまり外との交流を持たない彼らが、突然訪れた政府の人間を警戒するのも無理からぬことだろうと、千種はさほど気にも留めなかった。


「神格鑑定局……?」


 村長は、聞き慣れぬ名を繰り返した。


「神や妖を調査する役所です」


 千種が答える。

 玄関先で佇む村長の視線は、忙しなく二人を見比べていた。


「神様を調べるんか」

「はい。その存在が人に恩恵を齎すものなのか、あるいは害を及ぼすものなのかを」


 村長の顔色が変わったように見えた。

 言葉に詰まってしまった千種の代わりに、水瀬が静かに告げる。


「我々はこういう者です」


 水瀬は、村長へ名刺を差し出した。

 千種も慌てて鞄を漁り、それに倣う。


「――神格鑑定士」


 紙上に視線を縫いつけたまま、その文字を読み上げる村長の声は、低い。


 遠くの空で、とんびの鳴く声がした。高らかに響くその鳴き声は、一度きりだった。

 太陽が、流れる雲の影に隠れた。いつの間にか、空の大部分を雲が覆っている。陽光が遮られ、地上が音もなく翳る。


「――必要と判断されれば、神を滅します」


 そう告げる水瀬の声音は、一切の感情を排したものだった。


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