第5章 シルト ・ 第3話 大腿骨をもらう ③
鬼が教えた獣道に入った。
光が時折漏れくる藪の中だ。
俺は躰を複数負傷していた。鼻血を手の甲で拭い、片足を引き擦りながら、急いで進む。肋骨もたぶん、ヒビが入った。
前は険しい斜面で、背後は切り立った崖だ。崖の下は白波立つ岩礁。落ちたら死ぬ。
俺は途中で歩きながら倒れ、力尽きてそのまま寝た。
何時間かして目が覚めて、周りを見回した。
どこかで見た景色だ。
知らない土地で迷う夢を見たことがある。その景色に似ている気がした。
崖っぷちに木が生えている。そんなところによく生えたものだと思う。
光だけを求め、斜めに踏ん張って立つ姿は、何となく今の俺を勇気付けてくれる。
ひたすら山道を登り、そろそろ尾根に達する頃だと思ったのに、傾斜は下り坂になった。深い森に飲み込まれ、見晴らしを失ってしまう。
その後はどこが獣道かもわかりはしない。
小さな島だと思ったのに、なかなか島の向こう側に着かなかった。
森の中は野鳥の気配も虫の声もなく、ただ静まり返っていた。
森の奥に小さな祠のような建物があった。
「どういうことだろ…?」
俺はずっと記憶の端っこを歩いている。
気味悪く思いつつ、素朴で小さな扉を開いた。狭い戸口から覗き込む。
内部は視界ゼロの暗闇。
たぶん、鬼が言っていた生者の世界へ行く道はこれじゃないだろうか。
俺は意を決し、扉の中へ両手を入れた。
俺の躰がギリギリ入る大きさ。這って入る。
入口だけ狭くて、内部は異空間のようにガランとして広かった。板間を踏むと、長い年月で傷んだ床がギイギイ鳴った。
突然、俺の背後で入口の扉が勝手に閉まった。
俺は真っ暗闇に居た。
心を澄まし、霊眼を開く。微かに気配を感じ取った。
霊眼で見る闇の奥、老人が現れた。
老人は座っている。
「…若者、どこから来た?」
ボソボソと小声で問いかけてきた。
肉眼で見ようとしても闇が濃すぎて、老人は見つからなかった。
また、声が聞こえてきた。
「…若者、何をしに来た?」
「道に迷ったんだ」
俺は今度こそ、相手が生者であることを願った。
「弥の西海から来た。八雲って…知ってる?」
多伎の出身地を伝えた。
老人は唸った。
「…ふむ。弥か…。奴の身の一族と親族だな。お前は最初の英雄を知っているか?」
俺はその声と話し方から、立派な白鬚を生やした老人を想像した。
老人はこの暗闇でも俺を詳しく観察し、最初から若者と呼びかけてきた。
「聞いたことあるような気もするけど…、よく知らない」
俺は声の近くに寄って、胡坐をかいて座った。
この老人は俺の思考を読んだ。
「そうか。門番の鬼には勝ったんだな…。若者よ、お前は巫か?」
老人は俺に興味を持った。
「そうだよ」
突如、俺の空腹を刺激する匂いが鼻を突いた。
俺の前に熱々の飯と焼肉、焼魚が置かれた気がした。
「若者、お上がり。疲れただろう…。あの鬼達と死闘をやらかしたのならば…」
老人が勧めた。
気のせいじゃなかった。本当に俺の前に飯があった。
俺は手で温かい土器に触れ、匂いで堪らなくなって唾を飲み込んだ。
「…食べたいけど、ご馳走になる理由がねーよ…」
老人は正直な俺に笑い声を立てた。
「そうか。では、こうしよう。これから私がいくつか質問をする。その答えが私を愉しませるものだったら、その礼として食事を提供しよう。つまらなかったら、食事は無しだ」
老人は勝手にルールを決めた。
「ジイサン、誰なの? 門番って…、あの鬼達と知り合いか?」
俺が聞こうとしても、
「質問は私からする。若者よ。まず、お前は何の因果で死後の島に行った?」
老人は頑固にルールを曲げなかった。
島に行った?
その言い方は、既にここが島の外であるかのように聞こえる。
俺に質問権はないので、この老人を愉しませるように答えるしかない。
「…シケのタタリ神と戦って、海に沈められたんだよ。目を覚ましたら、死後の島に漂着してた…。シケのタタリ神ってーのは、こう…」
俺はシケのタタリ神との戦いを面白おかしく話そうと思ったのに、老人は遮った。
「それでは答えになっておらんな、若者よ。タタリ神の祓い流した穢れが、毎度、あの島に流れ着くわけではないからな。お前は生者でありながら、何故流れ着いた? 何をしに来たのだ、若者よ」
俺は一言一句に驚かされた。それはただの質問じゃなかった。
シケのタタリ神が穢れを流す?
俺はその言葉に驚いた。シケのタタリ神は怨念の蓄積じゃないのか?
多伎が祓われる存在というのはわかる。
多伎は怨念を内に溜め、邪神になっていくから。
…そうか。死後の島に流れ着いたのは、多伎自身の怨念のせいだったってこと?
俺は冷静に多伎のことを分析して、老人に話してみた。
「…そう、俺は怨念の塊で…、鬼を残らず殺すまで憎しみが止まらない…。俺の中には鬼を滅しながら蓄積していく怨念があって、それが俺を更に憎しみへ駆り立てる…」
老人が頷くのがわかった。
俺は多伎が死後の島に流れ着いた理由を考えた。
「俺は…あの島に怨念を捨てに来たのかも。…怨念は怨念を呼び寄せ、止まることがないからな」
「そう。若者よ。…では、島を出たお前はどこに行く? 何を為す?」
老人に促され、俺は気付く。
俺は三十代くらいの多伎と出会った。俺を異世界に落とした多伎は十五歳の多伎じゃなくて、もっと大人の多伎だった。
多伎は恐らく、この後も怨念を拡大し、翼を大きくするばかりか、遂には邪神になってしまう。
一体、多伎に何があったのか。
「…八雲の民を鬼から守りたい、というのが、俺の一番の願い……だったと思う」
俺は多伎の思いを想像した。
「でも、俺はいつか、溜り溜まった怨念のせいで邪神になってしまう。俺は…自己と向き合う為に、あの島を出たんだ」
「…食事を召し上がれ、若者よ」
老人が消えた。
俺は両手に骨付き肉を掴み、漂着以来の食事を頬張った。
有難いことに、食事以外に俺を回復させる方法は無かった。
腹一杯になると眠気が襲い、俺はまた眠ってしまった。
俺が意識を取り戻した時、ヒソヒソと声を抑えて、小人達のお喋りが聞こえた。
小人達は俺の手と同じぐらいの大きさ。
彼等は俺が寝ていると思い、喋り続けた。
「こいつを殺してしまうんだよ」
「どうして?」
「こいつは邪神になりたがっているんだよ。だから、死後の島に来た…」
「邪神になる前に…眠っている今のうちに、俺達で殺してしまおうよ…」
俺は寝ているフリをして、小人達の話を聞いていた。
何か、面白ぇ…。
暗闇の中、数十人の小人達が俺の躰をよじ登ってきた。
「生者の世界の…多伎はどうなる?」
「気にするな。多伎は…海で溺れ死んだことになるのさ…」
「じゃ、八島黎明は元の世界に返してやろう…」
「八島黎明?」
「邪神になった多伎が自分の身代わりに置いていった人間だよ」
「黎明、そいつは悪くない。ただのゲーム好き。遊び人だ」
「役立たず。そいつも死ねばいい!」
「海の藻屑でいいじゃないか」
「俺がトドメを差してやる…」
「俺に寄越せよ。半殺しにして遊ぶ…」
小人達は好きなことを言っている。
俺は内心、可笑しかった。
「じゃ、黎明も殺してしまおう。そうしよう」
「どうやって殺す?」
「この針の先に塗った猛毒で、熊でも一瞬のうちに死ぬ…」
小人の一人が自慢げに、縫い針で作った剣を掲げた。
俺は慌てて起き上がった。
「……ダメだ。俺はもう行かなくちゃ…」
蟻が虫の死骸に群がるように、俺の躰に大量の小人が群がっていた。ばらばらと小人が俺から落ちた。
俺の焦りを見て、小人達は嘲笑った。
「おお、可哀想に。そんなに俺達が怖いか?」
馬鹿にして笑った後で、小さな針を俺の爪先に刺そうとした。
俺は多伎の父親の形見の短剣で弾き返した。
でも、大事な剣がポッキリと折れてしまった。たかが小人の極細の針先で。
「うわあああああ…! 多伎が起きたぞ!」
小人達が蜘蛛の子を散らすように逃げた。
「エイッ!」
俺は小人の一人に踵を蹴飛ばされた。
巨人に蹴られたみたいに大きな衝撃を受け、俺は柔らかい地面に転倒した。
眠る前の板間とはまた別の場所に来ていた。
土が崩れ、俺は斜面を滑り落ちた。
土を掴んでもポロポロと崩れ、掴まるところがどこにもない。
斜面に穴が開き、死のバンジージャンプに挑むような速度で真っ逆さまに墜ちていく。
翼を広げようともがいたが、今回も何故か、翼が開かない。
真っ暗の底なし井戸を墜ちていく感覚。
どこまでも墜ちていく。
途中から速度が落ち始め、最後にドサッと、柔らかい土の上に投げ出された。
暗闇で手探りするが、土の感触しかない。
「ここはお前の墓場だ…」
俺自身の声が俺に言っている。
緊張し、心臓の鼓動が速くなる。
「妖怪の棲み処じゃねーだろな……」
俺は警戒して見回した。




