第5章 シルト ・ 第3話 大腿骨をもらう ①
俺は無人島に漂着した。
シケのタタリ神によって嵐の海に引き擦り込まれた後、どうなったのか覚えていない。
今が何時なのかもわからない。夜明け前のように薄暗い。
俺は渚を歩き、綺麗な貝殻を拾った。
生きているのは俺だけだった。
そう言えば、喉が渇いていた。俺は水を求め、藪の中へ入った。
川を探したが、どこからも水音は聞こえなかった。
それにしても、いつかどこかで見たような景色。
幼い頃、毎夏、弥郡の海水浴場に行った。沖にこういう小さな無人島が浮かんでいた。
近くまで千歳兄達とボートで行き、上空を飛ぶ海鳥を眺めた。
あの時の島とこの島はよく似ていたが、ここでは海鳥の姿が一つも見えない。
俺は水を求め、獣道すら無い山の斜面を登り続けた。
前に進むほど、森が深まっていく。
やがて尾根に出て、木々の隙間から島を見渡した。半日で一周出来るような、とても小さな島だった。
しかも、絶海の孤島。360度、陸地が見当たらなかった。
船が入るのに適した湾もあったけど、船着き場が無い。助けを待っていても誰も来ないということだ。
この無人島から一人で脱出するしかない。
剣達と『滄溟の鳥』の乗組員、狼の仔の淡由岐はどうなったんだろう。無事か?
彼等のことだから窮地は脱しているはず。
でも、俺がこんな場所に流れ着いたなんて思わないだろう。俺が死んだと思うはずだ。
実際、これは死んだのと同じじゃないか。
俺は歩き疲れて座り込んだ。
自分の死骸が虫にたかられて腐っていくところを想像した。不安に押し潰されそうだった。
俺はいつの間にか眠った。木陰で横になって爆睡して、少しは疲れが取れた。
何時間か経過したはずだが、相変わらず夜明け前の薄暗さだ。
俺は次第に冷静になり、砂浜から行けるところまで島の外周を歩いてみることにした。
一時間ほど歩いて砂浜が途切れ、柱状節理の断崖絶壁がそそり立つ。
岩場に白波が押し寄せ、高く砕け散って飛沫が上がる。
岩場の上を飛んで絶壁の向う側に周ろうと思ったけど、何故か飛べない。
シケのタタリ神との戦いで霊力を消耗しすぎたか。
入り組んだ岩場、岩の裂け目に洞窟のような影が在った。岩のアーチのように、崩れた巨岩が重なり合って短いトンネルみたいになっている。
この景色も何となく見覚えがあった。
その奥に赤い火の点が見えた。
「人が居る…⁉」
胸に希望の光が差した。
俺は岩場を必死によじ登って、人の気配を確かめに行った。
暗がりで赤く小さな火が動き回っていた。
「おーい。誰か居るぅー⁉」
俺は叫びながら岩の隙間に入って行った。
火が奥へ遠ざかる。火を追いかけたが、不思議と逃げていった。
岩の割れ目は俺の頭上10メートルほどの高さがあり、崩れた岩が両側から合掌するように急勾配で、幅も10メートルほどある。
足元は海水で濡れている。
どこからともなく薄明かりが射し込む、藍色の世界。
そこは迷いようのない一本道で、奥からも潮騒が響いて聞こえた。
岩陰を50メートルほど歩き、ごつごつした岩場に海藻が張りつく磯へ出た。
磯を見下ろす岩に鬼が腰掛けていた。
俺は落胆した。俺が見た火は、暗がりを飛び交う鬼火だった。
「人間は…居ねーのか?」
俺は鬼の様子をそっと伺った。
「ウウッ……ウッ……」
この島に流れ着いた船乗りの男が、二匹の鬼に生きたまま食われていた。
鬼達は腸を掻き出し、うまそうにムシャムシャと喰う。鬼の足元には古い人骨が沢山散らばっていた。
鬼達は内臓も眼球も喰い尽くして、脳味噌も残さない。脳味噌をズルズル啜って食べた。
髪の毛と歯と爪と骨を残して、短時間で喰い終わった。
後で夢にうなされそうな凄惨な光景だった。
こいつらは鬼と言っても、俺がこの世界で多く見てきた屍の鬼じゃない。
あの屍の鬼達は半分腐っていた。飢えと闘争本能のみで、ヒトの原形すら忘れてしまい、奇怪な獣に変わり果てた鬼もいた。
こいつらは人間を食らって精気を補充済み。皮膚も艶々して、筋骨隆々。まるで金剛力士像のように美しい筋肉だ。
それで正気を保ち、言葉を話す。
「兄よ。人間の匂いがする…」
「もう一匹残っていたようだな…。弟よ」
鬼達が俺に気付いた。
二匹の鬼は額に一本角を生やし、両眼が炯々と赤く耀く。
半裸にぼろぼろの着物をまとい、帯に古びた剣を吊るす。
「出て来い、小僧。どうせ、逃げられぬ」
鬼が俺の匂いをクンクン嗅いだ。
俺は磯から鬼を見上げた。
俺の素環頭大刀『沸』は折れてしまった。腰には多伎の父親の形見という、古めかしい短剣一本あるだけだ。
鬼は血で汚れた歯を見せて嗤った。
「小僧。この島に辿り着くとは、運がいいぞ。お前の青臭い悩みも、若い躰も喰い尽くし、くだらない存在を終わらせてやろう…」
クソ。脅しはいい。
俺は鬼に聞いてみたいことがあった。
「なぁ、鬼って、生前の記憶はあるのか? その剣、生前から持っていた物か? だったら、それなりの身分だったって事だよな?」
鬼は俺が怯えて小便を漏らすか、萎縮して泣きながら命乞いすると思っていた。
それを嘲笑ってから喰うつもりだった。
鬼は意外そうに、
「小僧。俺達は確かに死者だが、お前も死にかけだ。それほど違いはないな。…おい、俺達が怖くないのか?」
俺の度胸に関心を持った。
「小僧。教えてやろう。勿論、遠い日々を憶えているとも。ただ、もうどうでもいい。終わったことだ…。お前の人生もここで終わった。お前は骨までしゃぶられ、次が無いんだ。安心して過去を忘れればいい…」
鬼は俺に短剣を抜くよう、手振りで示した。
俺をなぶり殺す気に変わった。
「先に聞かせてくれ。ここはどこだ? 俺はお前達を倒して、仲間の元へ帰る…」
俺は短剣の柄に右手を掛け、左手でゆっくり鞘を引く。
この島でやっと会えた相手が鬼とか、ついてない。
鬼は余裕すぎて嗤った。
「知ってどうする? お前はここで死ぬ」
弟鬼が剣を抜き、俺の剣を受けた。
俺は『風滝』を仕掛け、短剣に霊力を込めたが、発動しなかった。
普通の打ち合いになった。
鬼の剣も刃長30~40センチほどしかない。形は相当古い。
カ、カッと打ち合う直後、柔術が絡む。短剣同士だと超接近戦になる。
相手が俺の右手を取りにきた。ゼロ距離で、同時に俺の蹴りが相手に届く。
鬼が俺の息を吸う。
しまった。精気を抜かれ、一瞬意識を失いかけ、クラッときた。
歩を停める暇は無い。俺と鬼の位置が入れ変わり、鬼が素早く打ってきて、俺が押される。
俺は距離が狭まると息を停めることにした。
相手は実戦で鍛えた腕。かなりの手練れだ。
しかし、その圧倒的な筋力に頼った動きだ。
鬼が俺の動きに戸惑う。この世界に無い、全然知らない戦い方。
俺は剣術を一から習った。足運び、刀剣の基本的な使い方、相手の剣の勢いをどう削ぐか、全部知っている。
力に頼らない戦い方、相手の力や速さを利用する技、それが剣術の面白いところ。
俺は鬼の頭部か心臓を狙う。そこが鬼の急所。
俺の短剣が鬼の肩を裂き、頸動脈を切る。
鬼は首筋から流れ出た血を手で押さえ、驚愕して俺を見た。
「…小僧。そんな戦い方、どこで…」
また打ち合ってリズムを変え、俺が鬼を切り刻む。
よくある映画のように、速く連打するのは下手クソだ。
達人は相手を崩す。刃を返させないコツがある。
俺は祖父みたいな達人じゃないが、勝負で負けたくない。
打ち合う度、俺と鬼は関節技や投げ技を含め、蹴りや足払いも挟む。
祖父がよく言っていた。相手の動きを読み、歩を盗んで一歩で避ける。
俺が一歩で避け、肩のすれすれを相手の剣がズバァーンと落ちる。
祖父は針の穴に糸を通すように狙えと言った。相手は何が起きたかわからない。
俺の剣が鬼の頸動脈を切って、俺がこいつの斜め後ろに入った。
「ひゃあ、いい剣だ…」
弟鬼がヨダレを垂らし、舌なめずりした。
「お前、巫か。…滅多に味わえない。これは極上だ。うまそうだな……」
兄鬼はずっと俺の動きを見ていた。少し離れたところから、俺の霊力を計った。
巫を食うと、鬼は力を増すことが出来るので食いたがる。
俺は巫の家の子。鬼にとってはご馳走だ。
弟鬼は首の左右から血を垂れ流しているが、倒れない。シューシューと白い煙を発し、傷が修復されてしまう。
動脈を二回斬ったんだが、この短剣では上手く首を斬り落とせそうになかった。
日本刀でも頸椎は斬るもんじゃなくて、介錯は骨の継ぎ目に刃を滑り込ませないといけない。
この世界の剣は切れ味が余り良くなくて、叩き斬る感じ。
鬼の頑丈そうな首を落とす為には、やはり『風滝』と同時に斬ることが必要だ。
鬼がどこもかも硬くて、刃がボロボロになっていく。
俺は少し焦ってきた。
「どうなってんだ…」
何故『風滝』が発動しないのか。俺の頭の中が混乱した。
これじゃ、俺が圧倒的に不利だ。俺は酸欠になって倒れそうだ。俺の息はもうハァハァと上がっている。
弟鬼はまだ序の口と言ったところ。
こいつ、動きは俺より遅い。関節の可動域も俺より狭い。
でも、スタミナは無尽蔵。
「小僧。俺達はちょうど、ヒトを喰って満腹だったんだが…、巫なら話は別だ。デザートに食ってやるよ…」
兄鬼が俺を挟み打ちする為、弟鬼の反対側へ歩いていく。
俺の口の端が斜めに上がる。
「やってみろやァ…!」




