第5章 シルト ・ 第2話 海の怪異 ②
その頃、剣と久斯と三野、『滄溟の鳥』乗組員は、右舷左舷から這い上がってくる気配を感じ取った。
水霊。それは河童にも似た半魚類的な風貌。びちゃびちゃのジェル状の皮膚を持つ。
鱗は無い。指の間には鰭。魚眼のように目が丸い。
水霊が船の側面を登り、いきなり襲いかかってきた。
海の怨念が船を沈めようとしていた。行き場のない思いだけが海に蓄積している。
「ウワー!」
漕手達が叫んだ。
波に激しく揺られる中で、必死に櫂を振り回して身を守ろうとした。
水霊の躰は軟弱で、一撃で水風船が割れるように潰れる。
しかし、『滄溟の鳥』で刀剣を持っているのは僅かで、霊力を込めて斬ることが出来る退魔師も『カラス』メンバーのみ。
何人かが落水した。
「落ちたぞ!」
「掴まれ!」
誰かが身を乗り出し、櫂の先を差し出す。
落ちた男がそれを掴もうとして空振りし、波間へ流されていく。
志毘が海に飛び込んで助けようとして、比良と海狭児が彼の帯を引っ張った。
「志毘! ダメだ! 海の中は…」
常世。
ただいま、死後の世界と接触中。
剣と久斯と三野が水霊を斬ったが、怨念の重みで船が沈みかけた。
「クソ…。俺の船を…沈めてたまるか…」
剣は重傷を負って体調が充分ではなく、三野もまだ杖をついて歩くような状態だ。
淡由岐は雷撃を発し、共に戦った。
その戦いは長く続いた。
怪力の奈目が水霊と櫂で戦う。その合間に俺の不利を見て、三野に頼んだ。
「三野! 多伎が殺されちゃうよ! 多伎を助けて!」
「今、それどころじゃない…。多伎なら大丈夫だ! あいつは鬼の首斬り人だ…」
三野が水霊をまとめて三体叩き斬った。
船が沈められる前に、シケのタタリ神の坊主頭を斬り落とさなくちゃならなかった。
暴風雨の海の上で愛刀『沸』を構える。
俺の血が沸き立ち、熱湯のように煮えたぎっている。
俺の体内に蓄積した怨念で出来ている、この黒い翼、飛んでいるだけで神経が昂るようだ…と気付く。
俺が首を狙うと、タタリ神が頭部を胴体にめり込ませ、体内に隠した。
やはり、頭が急所なんだろう。頭部に目も鼻も口も無いくせに。
霊力で俺の気配を追い、その両手で掴みかかる。
ザバーン、ザバーン…大胆に手を振り落とし、俺を海の中に叩き込もうとした。
俺は力任せにシケのタタリ神の頭部を斬り落としに行く。
体内に隠すと言うなら、何メートルある巨体だろうが、肩ごと、胸ごと、頭部を真っ二つにしてやる。
俺の愛刀が風を切って唸り、タタリ神のジュッと蒸発する音を聞かせてやる。
俺はタタリ神に空から斬りかかり、飛び降りながら切り裂いた。
「あァ⁉」
驚いた。手応えが全く無い。
まるで蟻の行列を針先で掻き混ぜるみたいにスカスカした。
多少の怨念は『沸』で消し飛んだが、タタリ神の本体として捉えることが出来ない。
シケのタタリ神の核はどこなのか。俺は手当たり次第に斬り込んだ。
最後にガキンと金属音がして、俺の『沸』が折れた。
素環頭大刀の切先がタタリ神を突き抜け、岩礁に当たった。
岩礁がダイヤモンドのように硬かった。
『沸』は切先から刃長三分の一で折れ、先が海の中へ消えてしまった。
いつの間にか、俺は嵐の中で『滄溟の鳥』を見失い、剣達に代わりの刀を借りることも出来なかった。
俺は必死に呼びかけた。
「『沸』が折れた! 誰か、代わりの刀を…!」
返事が無い。
剣や久斯、三野は、船の乗組員はどうなった?
俺は丸腰で、この巨大な化け物とどうやって戦ったらいい⁉
俺の前にシケのタタリ神が迫り来る。俺は先が折れた刀を持って気流に乗り、空中を漂っている。
雨が激しくなり、視界が霞む。
シケのタタリ神が腰の高さまで浮上し、俺より高いところから全身で包み込むように、俺を海に引きずり込もうとした。
俺の視界がタタリ神で真っ黒に変わる。
冥府へ突き落される。死んでしまう。
俺は異世界に来て、生まれて初めて自分の為じゃなく、誰かの為に戦おうとしたんだ。
剣、久斯と三野、仲間達が……俺を待っているんだ。
海は凪を迎え、嵐は嘘のように去った。
水平線まで空が晴れ渡り、時刻は日没に近かった。
体力尽き、剣達は水浸しの船に座り込んでいた。乗組員も皆、ぼんやりと夕空を見上げていた。
淡由岐がキューンと鳴いていた。
「淡由岐、多伎はどこ?」
奈目が淡由岐に聞いた。
狼の仔は知らなかった。
「ここには居ないようだな…」
剣が海面に手を伸ばした。
漂っていた櫂が自然に流れてきて、剣の手に吸い寄せられた。
真具呂が舵を取る船も、志毘が舵を任されている船も無事だ。損傷は受けているが。
漕手が何人か落水して、あの世に飲み込まれた。
俺の姿を…剣達は見つけられなかった。
「…海に飲み込まれたよ。多伎は…シケのタタリ神に連れて行かれてしまった……」
「そんな…!」
奈目が泣きそうになった。
久斯と三野は呆然とした。
「あいつが……くたばったって言うのか?」
真具呂が拳を握り締め、
「そんなわけないでしょう。あの多伎さまですよ…! 無事に決まってる!」
剣の護衛の奥津が言い張った。
シケのタタリ神は俺を人柱のように海へ引き込み、暴風雨と共に去った。
「多伎―! 多伎―! 多伎ィー‼」
奈目がひどく取り乱して波間に呼びかけ、向かいの船で見ていた海狭児はその様子にびっくりした。
「…奈目、落ち着けよ…。落ち着けって…」
「奈目よ、多伎が死ぬわけねーだろが。もうすぐ泳いで戻ってくるぜ…」
志毘と海狭児が奈目を慰めた。
「どうやって助けるの? 剣さま、多伎を助けて! お願い!」
奈目が泣きながら頼んだ。
「奈目、多伎を信じろ。…夕刻だ。最寄りの水門へ入るぞ!」
剣は声を張り上げ、漕手に櫂を渡した。
「剣さま! 多伎を置いて行くの⁉」
「奈目! 漕げ!」
剣がすがりつく奈目を座らせ、櫂を握らせた。
彼等は陸地を目指した。
『滄溟の鳥』は漕手が残る力を振り絞り、黄昏の海を進んでいった。




