第5章 シルト ・ 第2話 海の怪異 ①
奴津からの出航は、どんよりした灰色の空と暗い海から始まった。
志加の島の外を廻った後、向かい風がきつくて船がなかなか進まなかった。
「この空の色……やばくねぇ?」
三野方まで戻る予定だったが、俺達は予想外の急な大シケに遭った。
こんなに天候が変わるなんて、嘘だろ。奴の内海は今朝も穏やかだったのに。
今、低い雨雲と外海の間で押し潰されそうな『滄溟の鳥』。
そして徐々に波が高くうねって、俺の胃袋もまた激しく揺さぶられて…吐き気がしてきた。
大波が高く立ち上がり、全長12メートルの『滄溟の鳥』がアミューズメントパークの乗り物みたいに反り立った。海に櫂が落ちた。
いつ転覆してもおかしくない状況に陥った。
空は真っ暗、横殴りの雨が降り、風が荒れ狂っている。海は鳴門の渦潮のように渦を巻いた。
「ウワー! やべぇー!」
「ヒェー! 落ちるぅ…」
俺達は大波に揺られ、船にしがみついて落ちかかっている。
船は波に抗えず、乱雑に洗われる野菜みたいに弄ばれ、操舵不能だった。
「真具呂―! 何とかしてくれぇー!」
「はぁ⁉ 無理に決まってんだろ! 海の神さまに祈ってろ!」
操舵士の真具呂が怒鳴り返す。
「お前が何とかしろよ、多伎ィ‼」
もう一艘の操舵士・志毘も怒鳴った。
船に波飛沫が入り込み、脹脛まで海水が溜まってきた。
俺達は柄杓で海水を掻き出そうとしたが、船が揺れて捗らない。海水は増すばかり。
とうとう、俺は船酔いで吐いた。
俺の脚に淡由岐がくっついた。不安そうにずっと鳴いていた。
「多伎、あれ、見て!」
俺の側で奈目が海を指差した。
奈目の濡れたツインテールが俺をバシバシ叩いて、鬱陶しい。
「何?」
吐いていた俺が顔を上げると、船体がどんどん渦潮に引き寄せられていくところ。
渦は海面から下がって深海にのめりこむように回転している。
二艘の船が渦のバンクに合わせて内側に傾き、渦に向かって勢いよく走っていく。もう誰も漕いでないのに。
漕手達は絶望し、口々にミオヤの名を叫んだ。
「我等が祖よ…、助けたまえ…………」
この世の終わりみたいな空気になった。
船の舳先に立てられていた榊の枝が暴風で吹き飛んだ。
海上守護の神さまに見放された気分だ。
剣は水の溜まった場所に腕組して胡坐をかき、渦を毅然と睨み付けている。
二艘の船で船乗り達は右往左往し、久斯は覚悟を決めたように無口だった。
「巫―!」
剣が俺を呼んだ。
出た。そらきた。
俺はこの船を護る役目の巫。一切の災厄を引き受けて、『滄溟の鳥』をこの絶体絶命のピンチから救わなきゃいけない。
俺が一番大声で「助けてくれぇ‼」と叫びたいところだよ。
真具呂と志毘が操舵不能と言っている状況で、俺に何が出来ると思う⁉
「多伎、来たぞ!」
剣が俺を呼んだ。
「何がだよ? 今度は死神か?」
俺は剣の視線の先を追った。
今度は渦の中心が盛り上がり始めた。
この世が異世界と接触した。
海面が高く高く盛り上がっていく。俺達の船は翻弄され、波間で荒く揉まれる。
盛り上がった海面からナイヤガラの滝のように水が流れ、海が割れる!
巨大な何かがヌーッと首をもたげた。
真っ黒の坊主頭が海から浮上した。
それはクジラの頭でもなかったし、もっとずっと巨大だった。
最初、化け物級の大蛸かと思ったが、続いて胸まで浮上。
影をハサミで切り抜いたように立体感がない黒一色で、表面も艶がなく、のっぺりして見える。暗い空と重なって、輪郭がはっきりとしない。
この怪物の大きさは上半身だけで20メートルくらいあった。
もしかして、海坊主? 俺は幼い頃にトヨばぁから聞いた話を思い出す。
この化け物は人の形と言っても大雑把で、筋肉とか骨格なんてものは感じられない。そいつが右腕を振り上げた。
右腕…も人間の腕と少し違う。軟体動物の蛸のようにグニャリと、骨が無い動き。
「剣! あれは…何⁉」
俺が暴風雨に負けない大声で叫んだ。
「タタリ神だよ」
剣が落ち着いて答えた。
海で沢山の人が亡くなった。
魂は常世へ旅立ったが、海に溜まった怨念が化け物になった。
「怨念なら、遠慮はいらないか…」
俺も右舷に片足を掛け、素環頭大刀『沸』を抜いて握り締めた。
久斯も弓を構えたが、船は波で大きく揺れ、海原の木の葉のように回転し、狙いを定め難い。
久斯は空中に飛び上がり、高い位置から矢を射った。
暴風雨が久斯の必殺の矢を逸らし、海へ落とした。『熄滅』の久斯の矢が届かないなんて。
「ダメだ! 風が台風並みだ…」
久斯も次の矢を射ることを諦めた。
シケのタタリ神が振り上げた拳で海面を叩く。俺達の船に大波が襲いかかった。
俺は咄嗟に『沸』を横一文字に、風を起こす。
「『風滝』!」
俺のありったけの力を込め、大波を相殺する。
船に当たる前に大波が砕け散った。
悔しがるように、タタリ神の巨体がグニャグニャッと揺れた。
その動きがまた大波を生んだ。
『滄溟の鳥』は異様に持ち堪えた。
シケのタタリ神はいったん海に潜り、今度は俺達に近いところに頭を急浮上させた。
ザバーッと滝のように海が盛り上がって割れて、また黒い影がむくむくと立ち上がる。
今度は直接、船を叩き壊そうとしている。
「多伎。あの怨念は馬鹿でかいけど、首さえ落とせば何てことはない。この船は俺が沈めない。お前はタタリ神の首を取って来い!」
波風唸る海原の一瞬の静けさに、剣の静かな声が俺に届く。
「おお!」
俺は黒闇の翼を広げ、疾風怒濤の瀛に飛び出す。
その後は風の唸り声しか聞こえない。
気流乱れ、海鳥も墜落する激しい突風に向かい、俺はジグザグに飛ぶ。
俺はシケのタタリ神の周囲を旋回し、下降して波すれすれの低空を飛んだ。
タタリ神が俺を掴もうとする。
その太い指の間から擦り抜ける。
俺は高く舞い上がり、タタリ神を見下ろす。
上空は強烈な風雨が渦巻く。
シケのタタリ神の背中側を急降下し、奴が振り回す手の裏へ抜けた。
そいつが両手を振り上げ、長い尻尾をもたげ、三方向から俺に襲いかかった。
俺がタタリ神の注意を引き付け、久斯と三野が矢を射った。
今度はバスバスと矢が突き立った。
タタリ神の巨体は不定形で、安定せずにブヨブヨと蠢いている。矢が当たった部分はボロボロと崩れて消えた。
複数の風穴が開いた。
しかし、また中央から膨らみが盛り返し、タタリ神が復活してしまう。
目も無ければ、鼻も口も無い。首と言える部分も無い。
俺がタタリ神の右腕を切断した。
『沸』に焼かれ、黒い腕がジュワッと溶けた。タタリ神が怒り、ブルブルと震えた。
またタタリ神の中央から膨らみが広がり、腕が生えてきた。
怨念の集合だから、腕もクソも無い。どこも同じだ。
首を落としに行く。
その首が胴体に亀の頭みたいに凹んで、俺はどこを斬ればいいのか。




