第4章 レガリア ・ 第2話 脱出 ①
大御巫・壱子の力は想像以上で、面白くもあった。
しかし、壱子は拷問されても吐かないだろう。俺は早々に諦めた。
俺は七の宮を飛び出し、廊下をひた走った。
もうすぐ陰陽寮退魔課が駆け付ける。
俺は既に指名手配の一歩手前だ。五百里が俺の名を検非違使に告げれば、八島黎明が指名手配され、俺も動きにくくなる。
もう一度光の作用で父の顔を作り出し、急いでエレベーターへ向かった。
暗い曲がり角で、誰かと思いきりぶつかってしまった。
「いっ…てぇ…!」
俺達は尻餅を着いた状態で向かい合った。
相手は桃井虹だった。あの桃井虹が廊下に転がっていた。
「立てるか?」
俺は起こしてやろうともしない。
「…骨が折れたかも…」
桃井虹が大袈裟に言いながら上半身を起こした。
「朝堂院の隣が病院だよ」
俺は帽子を拾ってやった。すぐ立ち去るつもりだった。
桃井虹の頬に涙が流れた筋があった。それだけじゃない。服に涙がポロポロと落ちて滲んだ。鼻が真っ赤だった。
俺は見なきゃよかったと思った。
「あ…」
桃井虹は俺の視線に気付き、キャップを目深に被り直し、顔を隠した。
彼女にとって、俺は見知らぬオジサン。
俺もたまたま、黎明の写真集で名前を知っていた。それだけ。
俺はさっさとエレベーターに向かい、桃井虹も俺を追い抜かして、そっちへ飛ぶように走っていった。
毒島マネージャーが桃井虹を追いかけてきた。
「桃井虹を……、ちょっと可愛い女の子を…見ませんでしたか?」
と、聞いてきた。
俺は単なる気紛れで、
「あっちに行ったよ」
反対方向を教えてやった。
マネージャーが去った後で、付近のトイレから桃井虹が出てきた。
俺は売り出し中のアイドルを無視して、エレベーターのボタンを押した。
ティッシュで鼻をかみながら、桃井虹が俺の後ろに立った。
「…なんで泣いてるの、って聞かないの?」
「知らねーよ」
俺はちょうど来たエレベーターに乗り込み、一階のボタンを押した。
ドアが閉まる寸前、挟まりそうになりながら桃井虹が飛び込んできた。
「危ねーな!」
俺は苛々した。
桃井虹はハァハァと荒い息をした。
「な、なんで、泣いてると思う?」
「知るか! 忙しいんだよ!」
俺は父のスマホを使い、外回りの仕事に出る件を上司に連絡した。
「サボるの?」
桃井虹がいちいち五月蠅い。
そうか。認証システム付きのエレベーターだから、誰かと一緒じゃないと朝堂院から出られないようだ。来客用カードを失くしたのか、首から下げていない。赤いシュシュで無造作に二つ束ねていた髪が解け、肩を覆っている。
桃井虹は何か事情があり、マネージャーから逃げている。
面倒臭ぇ!
「君と一緒に朝堂院を出ると、防犯カメラに映って、俺が誘拐の容疑で捕まるだろ!」
一階で、俺は桃井虹をエレベーター内に押し戻し、自分だけ降りようとした。
桃井虹は俺の足にしがみついて、
「やだ。連れていって。オジサン‼」
エレベーターからズルズル膝を擦って出た。
六階、陰陽寮退魔課。
今日の当直は弥坂五百里と都下野市姫。
鬼文字の赤い護符が壁にびっしり貼られた、暗いモニタールーム。
邪霊センサーは問題ないのに、突然、大きな霊圧二つが衝突する衝撃が感じられた。
二人は同時に顔を見合わせた。
「五百里さん! 今のって…。…出たよ! 超でかいのが!」
今日も市姫は黒いニットのワンピースで、赤いピンヒールの靴を履いている。
「八階だね。あの方向は斎院かも…」
五百里も席から立った。羽織袴で眼鏡と鼻ピアスの男。
五百里はいつもの穏やかさを欠いていた。
彼は弥栄流退魔道の宗家・弥栄千五十寿の庶子で、母方の弥坂家で育った。
弥坂家は弥栄氏の古い分家で、大宮の社家の一つ。
彼が姉のように慕う存在・弥坂百舌が、俺に殺害されていた。
五百里は叔母の遺体の身元確認者として、病院の霊安室で引き合わされた。
その夜、五百里の母や親戚が弥郡から駆け付けるより先に、陰陽寮退魔課で勤務する五百里が霊安室に着いた。暗い部屋の中で線香の匂いがしていた。
「百舌姉!」
五百里は涙が出なかった。何も実感が湧かなかった。
叔母の死に顔は青白いが、目立つ外傷が無かった。
「百舌姉、あの邪神がやったのか…⁉ 黎明に憑りついたあの特殊一級邪霊が……!」
五百里がギリギリと歯軋りした。悲しみより怒りの方が強い感情だった。
「…絶対に百舌姉の仇を討つ…」
五百里は叔母との悲しい別れを思い出し、握り拳が震えた。
朝堂院八階で起きた騒動の中心が俺だと、はっきり感じ取った。
「殺してやる…。僕の命に代えても…」
圧倒的な力差は体験した。
それでも、捨て身で挑みたい五百里だった。
五百里と市姫が八階でエレベーターから降りた。
ちょうどその瞬間、隣のエレベーターの扉の隙間へ桃井虹が飛び込んだ。
「危ねーな!」
俺が叫ぶと同時にドアが閉まり、エレベーターが下降していった。
俺は桃井虹のせいで五百里に気付かず、五百里も桃井虹のせいで俺に気付かなかった。
五百里は女連れの中年公務員に興味を示さなかった。
「五百里さん、早く!」
市姫の方が朝堂院を隅々まで熟知している。斎院と言えば、彼女が御巫だった頃の配属先だ。市姫が五百里を引っ張って斎院に向かった。
七の宮があちこち破壊されて戦闘の跡があった。
大御巫・壱子は雨の中、ぼーっと突っ立っていた。
実は、壱子は階下の俺を遠視で追っていた。
「壱子! 大丈夫⁉」
市姫は壱子の先輩で、顔見知り。
市も壱も巫のことを指す。通称であって、本名じゃない。
「市姫先輩…。過激に艶めく装いだな…」
「壱子。御巫時代の極端に厳しかった生活の反動なんだ。今は自由を謳歌してる」
市姫は腰に手を置き、堂々と言い訳した。
「吾はこの生活で十分だ」
事件に全然関係ない話で、五百里は焦った。
「あの……邪神は…どっちへ行きましたか?」
五百里が大御巫に話しかけるのを、市姫が遮った。
「こら、五百里さん。御巫に成人男性が話しかけるのは禁止だよ! 私を通してくれる?」
「そんなぁ…」
困惑する五百里。
壱子は無音の聲を彼等の脳内に響かせた。
「…多伎なら…吾が祓った。多伎は弥のミオヤの身内だ…。こちらから何も仕掛けなければ、彼は誰も殺さぬ」
五百里は反発した。
「うちの叔母が殺されてる!」
壱子はチラッと五百里を見た。
「……弥栄流の内輪揉め。多伎から攻撃を始めたのではない…」
さすが、状況を言い当てた。
「五百里さん! 御巫はねぇ、清らかな霊質を保つ為、男性と一切接触しちゃいけないの! 喋るのもダメなのォ!」
市姫がまた注意する。
五百里は悔しくて唇を噛んだ。市姫を残し、七の宮を飛び出した。




