第3章 ウェルド ・ 第8話 八千矛の祓 ②
俺に咬みついた邪龍の顎の下を蹴り付け、頭部を剥がした。
「淡由岐、来い!」
逃げ遅れた淡由岐を助けに行く。
左肩を咬まれた俺は、黒い翼が片方もげそうになっていた。
淡由岐がつぶらな眸で俺を見詰め、健気に信じ、助けを待っている。
「多伎! そんな狼、置いといて逃げろ!」
剣が俺を呼ぶが、淡由岐を置いて逃げられない。
俺は淡由岐が可愛くて仕方ない。俺の命がかかっても、行かずにはいられない。
邪龍が前足で淡由岐を踏み潰そうとしていた。
俺は本能的に飛び込んで、淡由岐を抱き上げて岩場を転がった。
「淡由岐ィ!」
淡由岐が踏み潰される寸前で間に合った。
思わず、ギュッと抱き締めて頬を着けた。
「アウォーン…(多伎ィ…)!」
淡由岐は右の後足に怪我をしていた。
俺は淡由岐を抱え、邪龍の足を避けて走った。邪龍が恐竜のような四肢で追いかけてきて、地響きがした。
大地が割れ、崖の上から岩が転がり落ちてきた。
剣はそんな俺達を見ていられなくなって、邪龍の前に飛び出した。
「多伎! 早く逃げろ‼ ……あっ!」
剣は俺を助けようとして、邪龍の長い牙に腹を引っかけられ、空中高く放り上げられた。
俺は悪夢を見るような思いだった。
「剣ッ‼」
血の気が引いた。俺の為に剣が重傷を負った。
駆け寄ったら、剣は倒れたまま動けなかった。
「…だから、…そんなチビ狼は邪魔だと言ったんだ…!」
剣が忌々しそうに言い、ゴボッと血を吐いた。
「多伎! こっち!」
三野と久斯が岩陰から呼んだ。
俺はちぎれそうな翼で羽ばたいて、剣と淡由岐を抱え上げた。邪龍が大地を割り、樹木を踏み潰しながら迫ってきた。
俺は低空でジグザグに飛ぶ。もう高く飛べない。
邪龍の首の一つが大口を開き、下顎の鋭い歯並びを覗かせた。
俺達を掬って丸飲みしようとして、下顎を大木にぶつけ、これを粉砕した。
その衝撃で俺達も跳ね飛ばされた。
邪龍は巨体で集落跡を踏み潰し、樹々を薙ぎ倒してバキバキと砕いた。邪魔な大木を尾の一振りで根ごと抜いて吹っ飛ばした。
俺は翼から霊力が抜け、墜落した。
三野・久斯と合流したが、俺達は肉離れを起こしそうな疲労した筋肉に鞭打って、ひたすら逃げることしか出来なかった。
方向もわからず、森の黒い影に逃げ込む穴を求めて走った。
日が完全に沈み、暗くなった。
邪龍の周囲から世界が壊滅していく。
俺は瘴気を浴び過ぎ、剣は出血し過ぎで、意識が飛びそうになってきた。
三野と久斯で左右から剣を肩に担ぎ、俺は片手で久斯に掴まり、懐に淡由岐を抱えて走り続けた。
三野が叫んでいる。
「早く! もっと早く! 多伎、遅いんだよ!」
俺達は森を抜けた。そこからは木も疎らで、見渡す限り遮蔽物がない。
眼前の真っ黒な部分は、夜の海だ。
「うおおおお…」
俺達は無意味に唸り声を上げ、懸命に走った。
怪物の吐く息が背に掛かった。
「多伎…! 桃の種を…撒け!」
剣が喘ぎながら命じた。
俺は走りながら、腰に吊った巾着からそれらしきものを掴み、後ろ手に投げた。
久斯がそれに息を乗せた。
種が幾つか、ヒューッと飛んでいった。桃の種が、俺達を喰おうとして首を伸ばした邪龍にぶつかり、食い込んだ。
邪龍の残る三つの首のうち、中央の片眼に当たった。
刹那、その頭蓋骨を砕き、桃が発芽して凄まじい速度で枝を伸ばし、放射状に広がった。
「フギャアアアア‼」
そいつが痛みに悶え、空気を震わせて啼いた。
邪龍の霊力を養分にして、片眼から桃の木が生えていった。瞬く間に魔性の赤い桃が実り、熟して腐りかけのきつい香りを放った。
邪龍はその場に停まり、両側の首が中央の首を共食いし始めた。桃の木ごと、仲間の長い首の付け根まで貪った。
「…あれは退魔術じゃなくて…呪術か?」
弥栄流退魔道では禁じられた技。正反対の性質のもの。
「毒を以て毒を制すんだよ!」
剣が言い訳した。
しかし、邪龍は尚も俺達を追ってきた。
俺は黄泉路の物語を思い出した。陰陽寮退魔課に勤務する叔父の五百里から聞いた。
イザナギの尊が逃げる黄泉路、あれは黄泉平坂で、伊賦夜坂とも言う。呪物を投げ、呪術を駆使して暗黒世界から脱出する物語。
イフヤサカは島根県にあると言う。
俺は立ち止まった。
「剣、先に逃げろ!」
俺は淡由岐を下ろして巾着に手を入れ、あるものを探した。
すぐに見つからない。俺の両腕から血が滴った。
「馬鹿言ってんじゃねぇ、多伎!」
剣が怒鳴った。
「多伎、任せた!」
久斯と三野が剣を両側から担ぎ、砂浜を駆け出す。
文字通りの背水の陣、俺は邪龍に立ち向かう。
体力ゼロ、限界だ。もう走れない。俺は躰の底から霊力の搾りカスを集めた。
「ウォオオーン(多伎ィ)!」
淡由岐が俺を呼ぶ。淡由岐は俺と共に死ぬ覚悟だ。
俺は命を削るように、あるものに全霊力を注ぎ込んだ。剣の側近・奥津が俺にくれたもの。
多伎の指示で作らせたと言う、魔除けのオキの石(黒曜石)の鏃。
俺は空中で翼を変形させ、黒い弓矢を創造した。その矢の先端はオキの石の鏃だ。俺は弓に矢を番え、霊力のみでキリリ…と羽引きする。
この黒い弓矢が黒い炎のように燃えている。
「『鳴神』‼」
俺は黒雲から雷神を召喚した。
オキの石の奇跡が起こる。
雷神の乗った矢が命中し、邪龍の首三つと上半身が大破した。
邪龍の僅かな肉と皮膚がドロドロに溶け始め、上から骨格が崩壊していく。
完全に仕留めた。
しかし、最後の足掻きだろうか、その尾が俺を弾き飛ばす。
俺は無我夢中で立ち上がり、口の中でジャリジャリする砂をペッと吐いて、
「うおおお…!」
叫びながら、淡由岐を抱えて飛ぶ。
「逃げろ!」
俺の両翼が穴だらけだ。不安定な飛行だ。
俺の方に向かって邪龍の遺骸が崩落する。あの世へ巻き込もうとするように、大量の穢れた血を撒き散らしながら落ちてくる…。
「クソォ!」
間に合わない! 下敷きになるのは御免だ。
「多伎!」
剣が碧玉と玻璃の耳飾り(片ピアス)を外し、思いきり投げ付けた。
邪龍の残骸が俺と淡由岐を覆う寸前。
夜闇の下、その耳飾りの玉が残骸の中で透けて見えるほど強い光を放った。
残骸が光に消されるように消滅していった。
気付いたら、俺の上に剣が覆い被さっていた。剣の上に久斯と三野が被さった。
俺達は『カラス』。死ぬ時は一緒だ。誰かが誰かを全力で庇う。
四人と一匹揃って死を覚悟した。
俺は息を飲んだ。
俺達の上に邪龍の残骸は落ちて来なかった。
邪龍の残骸は吹き飛び、その血も肉も骨もグジュグジュ溶け、大地に浸み込んでいった。
圧倒されて言葉も出ない。
俺達の逃げ場が尽き、海まであと数メートルの浜辺まで来て、邪龍の暴走が止まり、遂に崩れ去った。
俺達は波打ち際に居た。
冷たい白波が足元まで寄せては返す。沖の暗闇があの世へ続くかのようだった。




