第5章 シルト ・ 第4話 見ず知らずの男 ④
そこは『道』なんかじゃない。たなびく雲の上だった。
地面がふわふわと白く、霧のように掴みようがなかった。
夜明けでもなく、日暮れでもなく、昼でも夜でもない。仄かに明るいが、全体を見晴らせるほどの明るさはなく、互いの顔が見えないほど暗くもなかった。
鳥が囀っていた。
俺が寝転んでいた草むらは柔らかで、百合の花の香りがした。
「多伎…。俺がわかるか? 三可見だ…」
三可見に呼ばれ、俺は薄明かりの逆光で彼を見上げた。
寒くも暑くもない。五感が鈍い。俺は死んでしまったのか。
三可見は出血が止まって傷痕すら消え、あの端正すぎる顔立ちで俺を見下ろしていた。
俺の痛みも無くなっていた。
俺はガバッと飛び起きた。
「三可見! ここはどこ⁉」
「…わからないのか? 君を巻き込んでしまった…」
三可見は残念そうだった。
俺は立ち上がって白い雲のような地面をフワフワ歩いた。半分浮いているみたいだった。
そこは不思議な世界だった。
天を突くような、100メートルくらいありそうな巨木。巨大植物の森だった。巨木が青碧色の木陰を生み出していた。
「千年樹だ」
三可見が巨木を仰いだ。
野生の百合も一つ一つの花が大きかった。カサブランカより大輪の百合が咲き、白地に淡いピンクや濃いピンクが差して燃えるような色合いだ。その様子は、鮮やかな傘を沢山並べて開いたようだった。
雲のような大地から下に、それら巨大植物の根が長く伸びているのが透けて見えた。
せせらぎの音が聞こえた。
三可見が注意事項を伝えた。
「ここに居る限り、俺達は身も心も癒され、生命を回復出来る。水は飲んでもいいが、何も食べるな。生者の世界に戻れなくなる」
「え⁉ 俺、死後の島を出た時、変な問答のジイサンが出した食事を食べたよ。でも、その後で生者の世界へ戻ることが出来た。なんで?」
俺は焦った。
三可見がこの『道』の案内人のように俺の先を歩いていく。
「多伎…。その大腿骨のヌシがお前を助けたんだ。どんな男だった?」
「普通の骸骨だったよ」
俺は急ぎ足で三可見の背中を追いかけていく。
「普通じゃないね。君が出会ったその人は…最初の英雄…」
三可見が確信していた。
彼がその英雄の名を言ったけど、すぐ忘れてしまった。
俺達はくたびれることもなく、ひたすら巨大植物の森を歩き続けた。
俺は美しい世界に目を奪われていた。キョロキョロよそ見して、何度も三可見を見失いかけた。
三可見は瞬間移動するように別の場所に出現し、追う俺も瞬間に別の場所に一歩を踏み出して、度々距離が開いた。
「三可見は何回死んでもよみがえれるの? マジで不死身か。三可見こそ、英雄だな!」
俺は褒めたつもりだった。
三可見は否定した。
「そんなわけないさ。俺が生かされるのは、為さなくては終われない何かがあるからだ。俺もいつか、呆気なく終わる」
三可見には何か思うことがあるらしい。
「俺は選ばれた人間だ。天の意を為さなくては…。多伎、君は何を為す?」
突然そんなことを聞かれても、俺には準備出来た答えが無い。
俺は戸惑う。
多伎の世界に来る前の俺はゲームに明け暮れ、努力もなしに無双してぇだの、一夫多妻制の世界に行きてぇだの、クダラナイことを言っていた人間だよ。
何かを為すとか、そういう英雄の器じゃない。
「…知らねーよ。俺は馬鹿なんだから」
俺は正直に言い返した。
「馬鹿が一番強いんだよ。自惚れずに自信を持つということは、誰でも一番難しいことだからね」
俺達は静寂の泉まで来た。澄みきった水が鏡のように森を逆さに映し込む。
三可見が水面を覗き込み、泉の水で顔を洗った。
「…英雄か。多伎、それは……後世が勝手に作る神話かも知れない。俺達が為すことは全て、歴史の泥土に埋もれていく。砂礫と泥土と粘土の地層に…どんな偉業も名声も、俺達の夢も、跡形なく埋もれていくんだ……」
三可見が泉の底の泥を掬い、水を掻き混ぜた。
水が濁った。
三可見の指から落ちた滴が、水の波紋を引き起こした。
俺達は無常の理を見ていた。
三可見は静寂の泉を指差した。
透明度が高く、森の大木の根がよく見えた。
「『根の國』と言う言葉がある。この根とは、地底とか木の根のことを指すのではなくて、祖のことを言う。俺達は木の地上の姿しか見ないが、木はそれと同じ丈の深さまで根を伸ばしている。地面を境に、世界は上下に半分ずつある」
次に三可見は泉を指差して、
「『眞名井(マナイ)』と言う。天(海・宇宙)にも地上にも存在する。全ての生命は水から生まれ、還元される」
と、泉を讃えて呼んだ。
このマナイの傍に、この森で一番大きな木が聳えていた。
四枚花弁の黄金色の花が満開の桜のように咲き乱れ、幽玄の美と情趣があった。
言葉を失うほどの美しさに時を忘れて見入った。
花が咲き乱れると同時に、一部ではグミの実のような見た目の、甘い香りを放つ金色の実が付いていた。
うまそうだったが、三可見の注意が心に浮かんだので食べなかった。
三可見がクルミの殻を二つに割って、小さな杯にして、その黄金桜の根元の泉の水を掬った。
その少量の水が甘いリキュールみたいに感じられ、喉を潤し、腹全体にしみ渡った。
活力が湧くようだった。
三可見がくれたクルミの殻の半割れを、俺は後生大事に持っていようと思った。
それ程、三可見との時間は俺の価値観を変えてしまった。
「そうか。多伎は鬼御子がよみがえらせた死の軍団を倒したんだな…。鬼御子のダメージは大きい。そう遠くない未来、鬼御子は死ぬだろう。自業自得とも言えるが…」
三可見はどうやってか、俺が鬼御子の邪龍を倒した事件を知った。
彼の言葉は予言みたいだった。
それは三可見が持っている巫のような力だと思う。
俺は三可見の横顔をまっすぐ見詰めていた。
「多伎。恐怖で他者を威嚇するような政治体制がいいとは思わないし、民を苦しめる独裁者が長く存続することを望まない。俺はずっと、そういうものを排除したかった…」
三可見は鬼御子のことを言っているのだろうか。
彼も鬼御子を嫌っていた。
退魔師なら当然だと思う。
もし、本当に鬼御子の死期が近いとすると、倭の國の情勢が一気に動く。
「…そう言えば、多伎は英雄になりたいとよく言っていたな」
え、俺はそんなことは一度も言ってねぇよ。
俺が言ったんじゃなくて、恐らく本物の多伎が言った。
「多伎。英雄なんて、孤独で虚しいものだと思う。…君は…神になれ。神だ、わかるか?」
三可見が言うことは哲学的で、よくわからないぞ。
でも、俺はホッとしている。
三可見が悪い奴じゃなくてよかったよ。彼を助けることが出来て良かった。また会いたいと願う。
俺達はそこで乾杯して水を飲んだ。クルミの杯で少しずつ飲む。
俺達は桃園の仙人になったみたいだ。
いつの間にか立派な着物に着替え、ゆったりとした袖で、髪もきれいに梳き、水墨画のような景色の中で寛ぐ。
「多伎。俺は自分の船を見つけた。仲間も一緒だ。…方向は三野方じゃない。俺の船はもっと先に進んでいた…」
急に三可見が俺の手を引いて立たせた。
目の前に丹塗りの橋があった。
「三可見はどこへ行くの?」
俺は心配になって尋ねた。
別れることが急に寂しくなった。
「多伎。君と違う水門だよ。君が上手く剣の居場所に辿り着くよう、祈っている。ただ残念なことに、俺達がこの『よみがえりの道』に入ってから、生者の世界では最低でも三日ほど経った…」
「三日!」
俺は三野方で剣と入れ違いになることを覚悟した。
「…構わねぇよ。それでも俺は剣の船を追いかける」
三可見は呆れた。
「多伎。海路と陸路はコースが違う。どうやって追いかける? 陸路の半分は沿岸部から離れて山越えになるぞ」
それは知らなかった。倭の國ならではの交通事情。
「剣の最終目的地はわかってる。最悪、多可國で落ち合うさ」
俺は息まいた。
気付いた時には、俺は赤い橋の欄干から長大な滝へ、三可見に突き落とされていた。
「うわわああああああー!」
俺は勢いよく岩の上を滑り落ちた。
高く水飛沫を上げ、滝壺の深い底まで沈み込んだ。
もがいても、もがいても、なかなか水面まで浮上出来ない。息が持たない…。
水が氷みたいに冷たい。
待ってくれよ。心臓が停まりそう。
そこから急流のウォータースライダーを一気に滑り落ちるように渓を流された。
滝は激しく水音を立てていた。どうどうたらりたらりら、たらりあがりららりどう…。
三可見と離れ離れになった。
あいつは謎ばかり残して行ってしまった。
俺は手にクルミの殻の半割れを握り締めていた。




