混乱ミックは飛びついた
早くキッドに戻ってきて欲しいのだ。ミックは膝を抱えて廊下の物陰に隠れたまま、とにかく、とにかくキッドが早く戻ってきて、いくぞ、と手を引いてくれるのを望んでいた。
そうでもしないと、なんだかよく分からないけれども、マスケード目当てで一階にひしめき合い、怒鳴り合う数多の海賊船の人間達からも、遠ざかれないと言う現実があったのだ。
ミックは自分がマスケードだとはとても思わないけれども、狙撃の腕前はどうやら、武器屋の店主のお墨付きで良い方のようなので、それを求めて声をかけに来ている面々を、黙らせる方法が喋れないミックには無いのだ。
だからキッドに来て欲しかった。とにかくこの物陰に隠れたまま、じっとし続けている事も出来なくはないが、怒鳴り声ばかりがひしめき合う階下を覗くのも、ちょっと怖かったのだ。
よく分からない頭の中で、船の人間達が意思疎通のために大声を上げるのと、大違いの怒鳴りあいの罵声は、どうしてもミックの体がすくむ音の群れだった。
膝を抱えて物陰に隠れてやりすごし続ける。思い出してしまった暴力の欠片が、ミックの心を不安定にさせていた。
それは誰だって同じように体感するに違いなかった。その暴力は、人間の心を壊すために行うような物だからだ。
船長、早く迎えに来てくれ。呼んでくれたら、思い切り動いて駆け寄るのに。
あの声が、自分の事を呼んでくれたらそれだけで、この体中を這い回る気持ち悪さも、遠ざかる、そんな事を思っていた時だ。
「あ、こいつじゃないか!! 武器屋でキッドの脇にいた小僧だ!」
「ちょっと!! 二階の客じゃないのに階段を上らないでもらえるかい!! ルール違反だ!!」
「うるさい! あんたら、キッドとぐるなのか!! マスケード二世をこんな物陰に隠しやがって!!」
乱雑な音を伴って階段を上がった男が、物陰に息を潜めていたミックを見つけて、強引に腕を引いたのだ。それは痛みを伴う程の乱暴な行動だったのだが、ミックは声が出せないから、歯を食いしばる事くらいしか反応が出来なかった。
そんなミックを上から下までじろじろと見回して、その男はジタバタと暴れるミックを検分するような態度を取った。
「こんな小柄で、細っこくて、でもとびきり腕利きなんだろう、この年齢で、そりゃあキッドも将来有望って事で手元に置きたがるな。……どうだ、ちび。キッドの船でどれだけ報酬をもらったのか知らないが、オレの船ならその倍、いいや、三倍は出してやるぜ、オレの船に来い!」
いやだ。ミックは必死に首を横に振った。こんな状態だというのに、一言も喋らないという事から……ミックの声が出ない事に、その男すら気がついて、思い切りにんまりと笑ったのだ。
その笑顔は、記憶が無い頭の中の、おぞましい気配の何かと重なる。悲鳴を上げたいほどだったのに、ミックの喉はうんともすんとも言わない。やめてくれ、手を離してくれ、お前の所になんか行ってたまるか。
そう言おうとしても、喉はひくりとも動かない。
「お前、喋れないのか! じゃあ誘ってもうんって言えないよなあ? そうかそうか、オレの船に乗りたいのか。じゃあ行こうぜ!」
声が出ない事を、自分の都合の良いように使い出したその男が、ミックの肩を抱き寄せてしめしめ、と言いたそうに階段の下に、ミックを連れて行こうとする。
いやだ。やめろ、ふざけんじゃねえ。
ミックは罵声を浴びせたかった。殴りかかっても良いんじゃないかと思ったが、ここは暴力が御法度のシャンティという場所だ。それはきっと禁止事項に触れてしまう。
ミックは必死に足を踏ん張ろうとした、その時だ。
「おいおい、うちのにずいぶんと乱暴な事してくれちゃってるじゃねえか。シャンティを出た後に船を沈められても、文句の言えない乱暴な振る舞いだなあ」
入り口の方から、余裕のある態度とふてぶてしさを感じさせる声が響き、ミックは自分の顔が輝いたのが分かった。もうそれからは力一杯相手を振りほどき、ミックはその声の主の腕の中に飛び込み、そのまま後ろに回り込んだ。
「うちのだって? マスケード二世はあんたの所の船員だろうが、あんたの所有物扱いされる人間じゃねえだろう」
「……あっはっは。言われると思ったらそんな事か? そうさなあ、こいつは……」
後ろに回り込んだミックの頭を頭巾越しに軽く撫でたキッドが、視線だけで、ちょっと話を合わせろ、と言ってきた気がしたので、ミックはキッドの服の裾を少し強めに握って了解した。
そうした時だ。
キッドは手慣れた動作のように、ミックの頬に手を滑らせて、それから。
ちゅ。
酷く軽く柔らかい動作で、ミックの唇に自分のそれをかすめさせた。周りの……店内の時が止まる。マスケード二世を欲して大挙していた人間達の全てが、固まったのだから、時も止まろう物だ。
「俺様のモノだぜ? こんなかわいいやつは他にいないからな」
かすめさせて意味ありげに肩を抱き込み、実に意味ありげに言うキッドは、本当に役者というモノに違いない。ミックはそれが当たり前の行動なのだと言う態度を取って、その腕の中に体重を預けるそぶりをした。
「おい……キッドの情夫かよ」
「相手が悪いぜ、これはうちのだ」
「話が違う! なんで、なんで……」
「お、男は範囲外って話じゃなかったのかよ!」
「はあ? かわいいやつをかわいがるのに男女が必要なのかよ」
キッドは余裕そうだ。シャンティでは暴力行動は全ての人間に対して禁止されているのだから、どれだけ役者であるかどうかが、物事を有利に進める条件だ、とミックはうっすら気がついた。
だから、いかにもミックは、キッドにそう言う意味でかわいがられている下っ端船員、と言う態度を取って見せたのだ。いかにも、キッドの腕の中を知っている様なそぶりを取って見せたと言うだけだが。
「あーあ、ちょっとここの宿を借りようと思ってたんだけどなあ、こんな無粋な連中が大挙してんじゃ興ざめだ。行くぞミック、もっと良い場所につれてってやる」
支払いはこれな、とキッドが豪快に戦利品の黄金の腕輪を店主に手渡す。迷惑料込みだ、と言うキッドに、店主が頷く。
「あんたに迷惑をかけられた覚えはないが、くれるならもらっておくぜ、あんたはいつでも金払いが良い」
「しけた客になりたくねえってだけさ」
にやりと笑うキッドはそのまま、ミックの肩を抱いて店を後にした。そしてしばらく歩いて、ミックに問いかけた。
「趣味の悪い追っかけは?」
いない。いないのだから否定。否定だから口笛は二つ。ミックは正確に口笛を二度鳴らした。それにキッドが笑った後に、そのままこう言った。
「見せつけながら町を歩くぞ、しばらく俺の腕にしがみついていろ」
了解だから肯定。肯定だから口笛は一つ。ミックはこれも正確に鳴らし。ぎゅうっと、キッドの腕にしがみついた。身長差のために、若干ぶら下がったような調子だが、キッドはご満悦でミックの頬に軽く口づけた。
見せつけるというのだから、多少はべたべたされるらしい。キッドがそうするのは、ちっとも怖くない。それはキッドが自分に対して、怖気の走る行為をしてこないと経験値から分かっているためだろう。
キッドは大丈夫。キッドだから大丈夫。キッドのする事はちゃんと理由がある。理由があって、自分が納得できる物のはずだから大丈夫。
それはまっすぐな信頼で、キッドがその信頼を読み間違えないからこそ、ミックはキッドに体を預けて歩くのだった。




