イリスの過去②
「まずは国の法律と裁判例を覚えろ。俺らの身を守るのに必要だ。俺の部下になる奴は全員これから覚えさせている。とっとと頭に入れろ」
「了解です」
ドルバさんが壁一面の本棚からひょいひょいと抜き取り渡してきた本は、サンダリア国と他国の法規集と判例集だった。
分厚く重たいそれらの中を開くと、ぎっしりと文字が詰め込まれていて、一ページ読むだけでもかなり時間がかかるものだった。
それでも「文句は言わない」、「とっとと頭に入れろ」と言われたため、目に隈を作りつつ読み込んだ。
必死に覚え、ドルバさんの口頭テストに合格した。ただ覚えるだけではなく、応用した考えが出来るか、法律の抜け穴を探せるかを試されるテストで、六歳にさせることか? と思った。
「イリス。ここからは守秘義務を守れよ」
頷きつつ、何故そんなことを言うのだろうと思ったが、すぐに分かった。
この男の仕事は、倫理観には欠けるが犯罪という訳でもない、ややグレー寄りなやり方をするものが多くあった。
「雨の森でツーハァ蝶を採って来い。希少性を謳って外国で高値で売る」
ツーハァ蝶は七色の羽根が特徴の幻想的な蝶で、我が国ではさほど珍しくはない蝶だ。何のフォローもなく「行ってこい」とだけ言われたので、一人で森に向かって捕まえ、道に迷いながら帰った。
その蝶はドルバさんの御使いの一人が外国に持ち込み、「幸運の蝶」としてオークションに掛けた。そんな謳い文句の根拠は一切なかったが、法律上は一応引っ掛からない。
相当な額の売り上げの一部が、イリスの給料として支払われた。
「この侯爵令嬢が拉致される計画がある。こいつと入れ替わって、相手はブチのめして来い」
ドルバさんに渡されたドレスを着て、令嬢の身代わりとして男五人に拉致された。
気色の悪いニヤけた顔をした男たちに、鞭で頬をぺちぺちされて腹が立ち、鞭を奪い取って盛大に引っ叩いた。鞭を扱うのは初めてだったが、男たちが動けないほどしっかりと叩きのめし、依頼主の侯爵に引き渡した。
「ありがとうね」と渡された謝礼の入った封筒が、異常に分厚かった。
「これ、取りすぎでは……」
「取れる奴から取れば良いんだよ。ちなみに、謝礼額はお前が決めたことになっている。あ、取り分は俺が決めるからな」
「ちょっと、恨まれるの私じゃないですか」
「上手くやれ」
「おい、海岸にこれを持って行け。一時間後に黒髪で白い服を着た奴らが来るからそいつらに渡せ」
「え、一時間後……? 馬車でも間に合わないんですけど!」
「お前が森で迷ってるから遅くなったんだろうが。何回迷うんだ」
夜、中身が何かも分からない黒い袋に包まれた物を渡され、かなり全力で走って海岸へ向かった。言われた通りの人たちが現れて、言われた通りに物を渡した。
「袋の中身は何だったんですか?」
「俺が作ったでっちあげのオカルト集とゴシップ集。あいつらの国はクソ陰気だからな。こういうのが人気で高値で売れるんだ」
「クソじじい……」
「おん? 今月の給料なしにすんぞ」
「お前、あそこにいる男をナンパして来い。うちの客になりそうな金持ちだ」
ナンパなんてやったことないが、質の良い赤茶色のスーツを来た男性にとりあえず声を掛け、何の情報もない中で、必死に話題を探して会話をした。
結果的に男の鼻の下が伸びたので、ドルバさんのところまで誘導した。その家庭のある男にはイリスへのセクハラを盾に大仕事をぶん取り、結構な額の報酬を定期的に得る契約を結ばせていた。
「ナンパしてるお前、すごい愉快だった。脚を触られそうになって、微笑みながらその伸びた男の手を握って抑えてたのとか、小悪魔っぽいことしてるのに絶対内心は必死だったろ。クソ笑ったわ。蟻が蝶を気取ってるみたいな」
「クソじじい……!」
「よし、口を縫い付けてやる。そこに座れ」
法律と裁判例を真っ先に覚えたのは、平民である自分たちは不敬罪だの何だのと、簡単に投獄してくる貴族たちから身を守るため。
加えて、ドルバさんの仕事をするには、法律に触れないこと、もし抵触しても交渉や裁判で絶対に勝てるようにしておく必要があったからだった。
怪しい仕事をイリスや他に雇っている従業員に振りつつ、ドルバさん自身は闇医者としても稼いでいた。
それはもう普通に法律に引っ掛かることだったが、「バレなきゃいいだろ」と続行していた。
いつしか、大怪我を負った海賊が、海から距離のあるドルバさんの店にわざわざ来ていたことがあった。かなりの大男が体を床に投げ出し、細身のドルバさんに腹を診られている光景は印象的だった。
「いてぇ! てめぇ殺すぞ!」
「その前にてめぇの腹を掻っ捌くぞ。それで馬とくっつけてケンタウロスにでもしてやろうか」
海賊は黙った。馬はその辺に売っている。やろうと思えば、おそらく天才の部類であるこの人なら本気で出来てしまいかねない。
ドルバさんはクソじじいだが、ポンポン無茶を言ってくるところは、前世で上司だったベルガ総隊長に似ていて、意外と仕事はやりやすかった。
そういえばあの人は今はこの国の王子になってるらしいが、元気だろうか、とぼんやり考えた。
「勉強しろ。妙に賢いわりに、基礎的なところが抜けてる。教科書はそこの本棚にあるのを使え」
イリスはこれまで、先の法律と前世での軍人としての勉強以外はしてこなかった。一般的な数学や歴史といったことはまったく知らなかった。
普通の勉強とはどんなものか、と久しぶりに少し胸をわくわくさせながら、さっそく本棚から一冊本を抜き出すと、すべて外国語で書かれていて内容がまったく分からなかった。
翻訳するために、本棚にあったボロボロの辞書も取り出してみたが、調べたい単語が載っていないことも多かった。時間をかけて分かったのは、おそらく生物学の本ということだけだった。
教科書と言われた本は、どう見ても初心者向けではない。
他の本も取り出してみたが、数学らしき本は謎の図が書かれていて何を示しているのか分からないし、この国の歴史の本は誰の何の話をしているのか事前情報がなくて分からない。
かろうじて小説は読めたが、昔の言葉で書かれているので、これも理解は曖昧だった。
分からないことだらけで、イリスの勉強へのやる気はなくなった。
本を読み解くのに疲れたイリスが顔を上げると、ドルバさんがニヤニヤと笑いながらこちらを見ていた。
「俺が子ども向けの教科書なんて持ってるわけないだろ。分からないところは教えてやる。代わりに家事をやれ」
最初からその魂胆だったのだと気づいたが、黙って頷いた。掃除も洗濯も料理も、六歳にしては手際良く動くイリスに、ドルバさんは少し関心していた。
「家事はまぁできる方だな。針仕事はクソ過ぎたが、料理とかは動きも早いし、出来も良い。メイドとかでもやっていけるだろうな」
もう捨てられるのかと思ったが、ドルバさんは顎に手を当てて、「でも、何かメイドのタマじゃないんだよなぁ」と不思議そうに続けた。
「シスター……いや、騎士? 暗殺者?」
ドルバさんは思案を続けていたが、とにかく捨てられるわけではないと分かったイリスは安心した。まだ母と男爵の件が癒えていなかった。
「お前、六歳にしては落ち着きすぎてるんだよなぁ。得体が知れないが、大物になりそうだな……」
観察力の鋭いこの人には、前世のことすら見抜かれそうだった。まぁ、もし前世の話をしてもこの人なら、平然と受け止めるか、聞き流すし、それで態度が変わるということもないだろう。特に気にせず普通に過ごした。
平民のはずのドルバさんは、やたらと食事のマナーに厳しかった。最初のうちは食事のたびに叱られた。
「違う。フォークを持つ手にそんなに力を入れるな。顔を前に出すんじゃなくて、料理の方を口まで持っていくんだ。口元が汚れてる。一口をもっと小さくしろ。よく噛め。姿勢が崩れてる、戻せ」
「ドルバさんって平民ではないのですか?」
「平民でもこんなのは当たり前だろうが。お前も身に染み込ませろ。ほら、脇を閉じろ。音を立てるな。葉ものが食いにくくてもフォークだけで畳むな。ナイフと挟むんだ」
「貴族ですよね?」
「舐めんな、平民だ」
それからはドルバさんの指示のもと、仕事、家事、勉強に明け暮れた。毎日の無茶ぶりとからかいに何回「クソじじい」と言ったか分からない。
その度に頭をぐりぐりと押されたり、口を縫い付けられそうになったりした。ドルバさんは初老で細く骨ばっている体つきのわりに力が強く、頭を押さえつけるの力があり得ない痛さだった。
「イリス。お前、ミセイラ高等学校へ入学しろ」
「え、学校ですか? 今まで通ってこなかったのに」
十五歳のある日、ドルバさんは唐突に言った。
イリスはあれからずっとドルバさんとの個人学習をしていた。一般的な子はもっと早く学校に通っていたが、イリスは中身が二十一歳の自分が本物の子どもと混じれる気がせず、学校に通ったことがなかった。
ドルバさんも「やめとけ、下手に通っても無駄足になるだけだ。あと俺がこき使う時間が減る」と言っていたので、そんな彼から学校を勧めてくるとは思っていなかった。
「あぁ。そろそろ良いだろう」
何かがもう良いらしい。今さらな学校という場に及び腰になる。でもこの人に言われたらそれは行くので、「分かりました」と答えた。
入学試験には不安があったが、ドルバさんは「誰が教えたと思ってる。お前はド阿呆だがこれくらい合格できる」と、さもバカにしたように言った。
一番近くの試験会場に着くと、久しぶりに緊張を覚えたが、ドルバさんのその言葉を思い出して乗り切った。
「合格しました」
「知っている。入学したら寮生活になる。それまでキリキリ働け。東の鉱石山でガーネットを採ってこい」
「分かりました」
それから数日後、突然ドルバさんが手を差し出してきた。
「ほらよ、やる」
「ピアスですか?」
「この間のガーネットを加工してやった。まぁ大部分は金にしたが」
「ピアス開いてないのですが」
「開けてやる」
針を刺されるのは苦手だが、ピアスは着けてみたくて「お願いします」と覚悟を決めた。元よりイリスの返事など待っていなかったドルバさんは、返事より先に針を準備し始めていた。
イリスの耳たぶに当たりをつけ、消毒した針でぶすりと両耳にピアスホールを開けた。
「おぉ……」
「良いじゃねえか。俺のセンスは良いからな。感謝しろ」
自信満々に口角を上げるドルバさんに「見てみろ」と渡された手鏡に写った自分は、小さな赤いガーネットの石を三連にしたピアスを揺らしていた。
数週間後、「精々頑張れよ」と九年の老いが分からないドルバさんにニヤリと見送られ、イリスはすっかり慣れた街を出て、ミセイラ高等学校へと向かった。




