浮き沈み
目を開けると、薄暗い白い天井が見えた。ぼんやりする頭で、ラシュハの怪物と戦って毒を受けたんだったな、と思い出した。
生きてたんだなぁと他人事のように思う。体がひどくだるい。目だけ動かすと、体にはブランケットが掛けられて寝かされている。ここは療養室なのだろうと、やっと認識した。
左側に見える、閉まった白いカーテンの隙間からは、暗い青色が覗いている。まだ太陽は出てない時間のようだ。
目が覚めたことを伝えた方が良い気がして、重たい体を何とか起こすと、ベッドサイドテーブルにベルが置かれていた。これで呼べと言うことだろう。
だが、それを取るより早く、シーツの衣擦れの音に気づいたらしい人が、扉をノックしてきた。
「起きたかい? 入るよ」
白衣を着た中性的な人が入ってきた。丸眼鏡を掛けていて、長い茶髪をゆるく結んだこの人は、たしかリュカ様が熱を出した時にも対応していた医者だと気づいた。
「起きて良かったよ。二日以上ずっと寝っぱなしだったんだよ?」
「二日……」
前世でも、本気で戦った後に二日間眠り続けることがあった。イリスはもともとあまり体力がないためか、戦闘で本気を出すと体力を二日分、前借りするような感じになる。今回も限界まで体力を使ったので、そうなったのだろう。
体はとてもだるくて重いが、とにかく空腹を感じた。
「……お腹が空きました。あとシャワー浴びたいです」
「はいはい。準備するからまずは水を飲みな」
ベッドの横のサイドテーブルには水が入ったピッチャーが置かれていた。その人がコップに注いでくれた水を受け取り、緩慢にしか動かない腕を持ち上げて飲んだ。
あまりにゴクゴクと喉を通ることに、体が水を欲していたことに気づく。一気に体が冴える感覚があるが、それでも腕を下ろす動きは我ながら遅い。
「毒を受けたからね。水を飲んで出さないとね」
「ありがとうございます」
水のおかわりも注いでくれ、「まずは体温測定と採血しようね」とてきぱきと動くその人を見ながらゆっくりと水を飲む。
「あ、僕はヒュー。君の担当医だからよろしくね」
親しみのある笑みを浮かべてくれるヒューさんはベテランのような風格があるが、見た目からは年齢不詳だった。だが、まだ会って間もないのに、不思議と信頼できる人だと感じた。
「ちなみにここは特室ね。リュカ殿下が手配してくれたよ。いやー、本当良かった。殿下が毎日様子を見に来てくれてたんだよ。イリスの状態は毎朝報告してくれって言われてるけど、やっと目が覚めたって報告できるよ」
ヒューさんがイリスに体温計を渡しながら笑顔で話す内容に、ふわふわしていた頭が日常に戻ってきた。
そうだ、リュカ様。心配してくれている姿が想像できて、「もう大丈夫ですよ」と言いたい気持ちだ。
「解毒薬を作って飲ませたのもリュカ殿下だよ」
「そうだったんですね」
「うん。毒もだけど、黒体病の心配もあったから来ていただいたんだ。もう、すごい早さで解毒薬作ってたね。イリスが自力で飲めない状態だったから、口移しで飲ませてたんだよ」
頭の処理が追いつかない。口移し? リュカ様が……?
「……人命救助ですね。ありがたいやら、申し訳ないやらです」
「まぁそうだね。一応、医務室内では口止めしてあるけど、君には話しておくべきだと思うから伝えたよ。あ、体温どう?」
動揺しすぎて脳がパンクしそうになったので、慌てて考えることをやめて、測った体温計を渡す。「うん、平熱だね」とヒューさんは満足そうだ。
そのまま採血もされた後、腕に力が入らないイリスは、医務室勤務のメイドに料理を口まで運んでもらった。
「食べさせていただいて、すみません」
「良いんですよ。ゆっくり召し上がってください」
柔らかな笑みを浮かべて、優しく食事を食べさせてくれるメイドに癒される。食事を摂って、また水を飲んで、気持ちはかなり元気になった。
食べ終わる頃には窓の外がほのかに明るくなり始めていた。
「シャワーも介助させていただきますが、私ではイリスさんを運べないので、騎士様を呼んでまいります」
呼ばれた騎士に抱き上げてもらい、メイドにシャワーを手伝ってもらった。人に世話してもらうことに慣れていないので、申し訳ない気持ちだった。
さっぱりしてベッドに戻ったら、急に眠くなり、抗うこともなく瞼を閉じた。
次に起きたときはカーテンから太陽が見えた。外からいろんな人の声も聞こえてきて、すっかり昼になっているのが分かった。
再び起き上がると、いったいいつ寝ているのか、またすぐにヒューさんが体温を測りに来た。
「平熱だね。体力の方はどうかな。立ち上がれるかい?」
そう言われて立ち上がろうとしたが、ふにゃりとその場に崩れ落ちた。脇に腕を差し込んでくれていたヒューさんが受け止め、ベッドに戻してくれた。
「うぅ……」
「体力はまだだね。食事を摂ろう。あとベルガ殿下とリュカ様に、イリスが起きたよって報告するね」
「はい。ありがとうございます」
食事の準備をしてもらっている間に、グレイさんとリッタさんが来た。
「イリスちゃんんんんんん!」
「リッタさん、無事でしたか。あ、剣も復活して良かったです。……あの、グレイさん、大丈夫ですから。リッタさんの首が締まりそうです」
「イリス、本当に心配しました。リッタ、女性に抱きつこうとしてはいけません。それも病み上がりで、薄着の状態ですよ」
「ごめんねぇぇ! 生きてて良かったよぉぉぉ!」
半泣きのリッタさんが、すごい勢いでイリスに飛びつこうとして、グレイさんが彼の後ろ襟を掴んだ。その状態で話しているが、苦しくないのだろうか。
「ごほっ! うぅ、不甲斐ない先輩でごめんねぇ。何にも出来なかったし、守ってもらっちゃって」
「そんなことないです。あれはリッタさんが先導してくれていたからです。それより、私を運んでいただいたのですよね? ありがとうございます」
「それは当然だよぉ! ごほっ! もう毎日、神にイリスちゃんの無事を祈ってたよぉ」
「リッタがあまりに嘆くので、ラーナス様が『鬱陶しいですね! もう回復を待つだけなんですから、嘆いている暇があったらイリスの分も働きますよっ!』と怒りながら励ましていました」
「そのラーナス様も、今朝イリスちゃんが起きたって報告を聞いて嬉しそうにしてましたねぇ。あ、もちろん他の皆もね」
「ふふっ、ラーナス様らしいです」
リッタさんが申し訳なさそうに肩を狭くしているが、彼はまったく悪くない。怪物は殺意を出していなかったし、イリスだって先導していたら剣を弾き飛ばされていたと思う。本当に大丈夫ですよ、という気持ちを込めて微笑んでおいた。
「イリス。まだ動けないと聞いているのですが、手伝えることはありますか?」
「大丈夫ですよ。食事とかは医務室のメイドさん、移動は騎士の方に、お世話していただいているので」
「……騎士、ですか……シャワー室とかも?」
「はい、そうですね」
「冷気すごっ! グレイさん、ちょっと抑えてくださいぃ」
「何かリッタさん、いつも冷気の話してますね。というか冷気ってグレイさんの話だったのですか? 全然分かりませんけど」
「イリス、冷気のことは気にしないでください。イリスには当てませんので」
緩慢な動きながらグレイさんの周りに手を当ててみるが、まったく寒くない。それよりも彼の目が笑ってないのが気になる。いつも穏やかな人なのに、どうしたと言うんだ。
「グレイさん、ストレス溜まってるのですか?」
「……少し、いろいろと」
「私が復帰したら、また休みをもらいましょう」
「嫌です。ますます無理になります。もう結構限界です」
「もう、仕事人間すぎます。ただでさえ私の分とかで忙しかったでしょう?」
「イリスちゃん。多分、休みとかは今は大丈夫なやつだよぉ。頭とか撫でてあげたら良いと思うよ?」
「先輩にそんなことしませんよ?」
「冷気がぁぁぁ!」
何故か本当にイリスには冷気は当たらないが、リッタさんは腕を震えさせている。あと、さっきから彼が持っている紙もはためいていた。
「その紙は報告書を書くように、ということですか?」
「あ、はい。起きたばかりですみませんが、お願いします。夕方くらいにまた取りに来ますね」
「了解です」
リッタさんが「またねぇ」とようやく笑顔で手を振り、グレイさんも微笑んで退室した。
にこやかなメイドに再び食事をさせてもらった後、報告書を書き始めるが、やはり腕に力が入らず、時間がかかる上に字は下手だ。
まぁ前世でもこんな感じだったので、ベルガ殿下も分かっているだろうと、焦らず書き進めた。
ようやく半分まで書けたところで、部屋の外から足音がした。
「イリス、リュカ殿下とテオ君が来たよ。入ってもらうよ?」
「はい、どうぞ」
入ってきたのは、隈を作ったリュカ様と、少し緊張気味なテオだった。二人の顔を見れて、イリスは自然と笑顔になった。
イリスの顔を見たリュカ様は表情を柔らかくし、テオもホッと安心した様子で、ベッドの横の椅子に腰掛けた。
「イリス、起きて本当に良かったです。心配しました」
「ご心配をお掛けしました。体力はまだ戻ってないですが、もう大丈夫です」
「ほんっとうに肝が冷えたぞ。これお見舞いに、食堂のクッキー。テーブルに置いとくぞ」
「やったあ。ありがとう、テオ」
素人がもう大丈夫と言っても信頼はないだろうが、前世を含める経験と体の感覚から、これは問題ないやつだという自信があった。
リュカ様がイリスの手を取ったので握ると、さらに顔を緩めた。
「顔色が良くなりましたね」
「はい。リュカ様に解毒薬を作っていただいたようで、ありがとうございます」
「効いて良かったです」
微笑むリュカ様の、瞳の下にある濃い隈が、イリスを心配してくれていたのを如実に伝えてきた。
その隈に、思わず繋いでない方の手を伸ばすと、リュカ様は少し顔を寄せて触らせてくれた。指で撫でるが、目を細めて大人しくしている。
「……すみません」
「私のことは良いのです。イリスが起きたので、今晩からは寝れると思います」
「俺はイリスも心配でしたけど、リュカ様も心配でしたよ。どんどん隈が濃くなっていくから」
「そう言うテオも、明るく振る舞ってくれていましたけど、たびたび分かりやすく顔が曇っていましたよ」
随分と二人に心配を掛けていたのを自覚した。スキンシップの件を思い出してリュカ様の顔から手を離すが、繋いでいる方の手はそのままだ。
「というかお前、右側の髪、ちょっと切れてるぞ」
テオが気遣わしげに、リュカ様も少し眉間にしわを寄せてイリスの髪に視線を向けた。
髪が切れているのはシャワーのときに鏡を見て知っていた。介助してくれたメイドが髪を見て悲しそうな顔をしていたが、ほんの少しだし、イリスとしてはあまり気にしていなかった。
「まぁ、また伸びるよ」
「軽っ! 髪は女の命じゃないのかよ。伸びるまでどうすんだ?」
「ヘルンさんに何とかしてもらうよ。髪切るのすごい上手いから」
前世から髪はヘルンさんに切ってもらっているが、彼女の腕の良さは間違いない。この、ぱつっと切れてしまった髪も、彼女なら良い感じにしてくれるだろう。
「おまっ、ヘルン様に髪切らせてんのかよ……」
「わりと楽しそう切ってくれるよ?」
「髪を結んでいた件といい、彼女は一応、侯爵令嬢のはずですが、何故そんな特技が?」
「器用ですし、庶民的な方でもあるので、そういうものなんだと思います」
前世ではヘルンさんも平民だったので、そういう特技もおかしくなかったが、たしかに今世の彼女には不思議な話だ。リュカ様には誤魔化すしかない。
その隣で、おそらく前世のことを察しているテオが大変落ち着かない顔をしている。幸いリュカ様はそちらには顔を向けず、「まぁそういうものですか」とひとまず納得していた。
「長居してもいけませんから。とにかくしっかり休んでください。また来ます」
「無理すんなよ」
「ありがとうございます」
リュカ様とテオが椅子から立ち上がって、いつものように手を振るのを、イリスも緩く手を振って見送った。
二人の顔を見たら気力が湧いてきて、一気に報告書を仕上げた。
書き上げた報告書を読み、「さて」と冷静に考える。怪物と戦って、倒したという実績を作ってしまった。
「これは、対樹部隊に入ることになるよね」
グレイさんたちも実績で入ったと言っていたので、間違いないだろう。
前世で教会の皆が死んでから生きる理由を失って、ずっとぼんやりと死を待つように生きてきた。
だけど毒を受けてリュカ様のことを考えた時、初めて、今は死ねないと思った。
黒い実の怪物を倒して、大事な人たちの未来を守りたい。死んだらやはりリュカ様を悲しませてしまうだろうが、どちらにせよ部隊には入ることになるし、それが達成できればイリスとしては満足だ。
だから対樹部隊に入るのは良い。むしろ本望。だけど――
「……もしかして、リュカ様のところは外れることになる……?」
その予感に焦りを感じた。でも、さすがに部隊まで入って、リュカ様の手伝いもさせてもらえる気はしない。
ベルガ殿下に「補佐と部隊に専念すべきだ」と言われるのは容易に想像できる。
つまり、リュカ様とテオに今のように会えなくなる。
黒い実の怪物と戦うのがいつか分からないが、そう遠くはない未来な気がする。ますます危険な身になるイリスが側にいると、また不安な思いをさせてしまう。
もうリュカ様にはテオがいるし、むしろ彼らからイリスの存在を消していった方が、お互いに別れの悲しみも軽いはずだ。頭ではそう考えるが、気持ちが追いつかない。
「ちょっと、寂しいな」
まだ体力がない状態なのに、久しぶりに自分の未来を案じたその晩は、なかなか眠れなかった。
◇◇◇
ようやく起きた彼女の顔を見れた。
イリスはまるで人形のように眠り続けていた。寝息が浅く、熱が出ても肌は白いままで分かりにくく、まめに状態を見る必要があった。
手を握っても握り返してくれず、身動き一つ取らずに死んだように眠り続ける姿に落ち着かず、早く起きてほしいと何度も願った。
兄上が何故か「イリスは二日もすれば起きる」と言っていた。根拠もないのに、と腹が立つと同時に、それに縋る思いもあった。
夜は寝ようとするが寝つけない。いっそイリスの横でずっと自分が見ていたいが、それは叶わない。
隈は段々と濃くなった。そのまま執務室に行ってテオに心配された。彼は自分に気を遣っていつも通り振る舞ってくれるが、ふとした時に心配そうな顔をしている。
イリスが寝てから二日半が経った今朝、執事から朝の報告を受けた。
「医務室からの報告で、イリス様が早朝四時に目を覚まされたそうです」
待ち望んでいた報告に肩の力が抜け、執事が「良かったですね」と温かい笑みを向けてくれた。
「目を覚まされて、食事とシャワーを所望されたそうです。熱は下がったようですが、体力の消耗が激しいらしく、自力で立てない状態だそうで。今はまた眠ってらっしゃると報告を受けています」
「そうですか。ありがとうございます」
執事から受け取った医務室からの細かい報告書を読み、ひとまず大丈夫そうだと息をついた。沈んでいた自分の調子も戻ってきた感覚があった。
テオにもイリスの状態を話すと、彼らしい素直な喜びの顔をしていた。
昼過ぎにテオと医務室に行くと、イリスは起き上がっていて、ふわりと笑いかけてくれた。
ようやく見たかった顔を見れて、気を抜いたら、ふらふらと抱きついてしまいそうだった。
隈のことはあまり気にしてなかったが、イリスが気にしていたので隠しておけば良かったと思った。でも、珍しく自分から触れてきた彼女の揺れる瞳は決して人形ではなく、イリスの回復を実感させてくれた。
だが、イリスが怪物を倒したと聞いてから、彼女の体調と、もう一つ心配していたことがあった。
「……リュカ様。イリスは対樹部隊に入ることになりますよね」
「……はい。第一王子も入っているくらいなのに、怪物を倒した実績のあるイリスが入らないという訳にもいかず、散々抵抗しましたが、回避できませんでした」
紫の実の怪物を一人で倒したという、驚異的な実績を作ったイリスの対樹部隊入りが確定した。
そして同時に、自分のところは外されることになるだろう。さらに危険なことをさせる上に、今のように会うこともできなくなる。
もう危険に曝したくない。安全な所にいてほしい。ずっと自分のもとにいてほしい。
さして難しいことを願っているつもりはない。なのに、イリスに限っては難しいことばかり。どうして、こんなにも叶わないものなのか。




