悪魔のラッパ
彼の剣が吹き飛んだ直後、イリスはリッタさんの後ろ襟を掴んで後ろに投げ、前に出た。
目の前には、紫色の実をぶら下げた、二足で立つ樹がいた。
ラシュハの怪物、それも紫に会ってしまったと認識すると同時に、怪物は枝をイリスに向かって振りかざしてきた。
咄嗟に後ろの扉を閉め、四方から向かってくる枝を全身を使って避け、ギリギリでかわした。が、間をおかずに、今度はうるさいほどの葉のざわめきと共に、すべての枝が高速でこちらを捕らえに来た。
後退しながら細剣を振り、枝の一本を切って今度もかわすが、枝が突き刺さった地面にはヒビが入っていた。
扉の方はリッタさんがいるので、樹を奥へと誘導しながら枝を切っていく。だが、何十本もある枝と、それにつく葉が邪魔で、相手の動きの認識が遅れる。かわすだけでも精一杯だった。
これは、たしかにかなり強い。
前世でも今世でも、こんなに強い相手と戦ったことがない。しかも、かすり傷でもつけたら黒体病になって死ぬ。
すべての攻撃を避けながら樹の核を狙うが、どうしても枝を切っていかないことには到底そこに辿り着けない。
洞窟内は広い空間なのに、壁に追い込まれそうになっては位置を調整する。
周囲の状況をまともに確認する間もなく、足元に刺さりそうな枝を飛んで避け、同時に上体に向かってくる枝は仰け反って、不安定な体制でまた枝を一本切る。
地面に刺さった枝を蹴って空中の別の枝を切り、頭に向かってくる枝を半回転しながら避けて切る。
空中で回転しながら、また枝を蹴って他の枝を切る。
その繰り返しで一本一本削っていくが、一瞬でも集中力が切れたら確実に即座に殺されるほど次から次に攻撃が来る。
地面がどんどん穴だらけになり、耳元で常に葉の擦れる音が続き、どれだけ時間が過ぎたか分からなくなる。
空中で体を捻っていると、壁の高い位置にリッタさんの飛ばされた剣が突き刺さっているのが見えた。その直後に葉が鼻をかする。
怪物の枝を半分以上は切った頃には、イリスはひどく息切れをしていた。
「っはぁ、はぁ……」
肩で息をするが、怪物の攻撃の手は止まずにまた走り、飛び、切る。体力の温存なんてまったくさせてくれないまま激しく動き続け、鈍りそうな足を止めないことに必死だった。
ダイさんたちが言っていた通り、怪物は好戦的、そして攻撃の威力がまったく落ちない。
このままでは、こちらの体力が先に切れる。すでにかなり限界に近く、少しでも気を抜いたらあっさり倒れる。腕も剣を落としそうなほど疲れていて、気力だけで握りしめている。
残りのすべての枝を切る体力はない。
これだけ枝を切った今、捨て身になれば、おそらく核は切れる。
だがその場合、イリスはこの怪物と相打ちで、共に死ぬことになる。
これだけの脅威を削れるなら、それも良いかもしれない。これを殺すだけでも、対樹部隊の皆や、この森を通る人たちを守れることになる。もともと生きることに執着もない。
枝を切りながら核に向かう機会を狙っていると、怪物の後ろで、扉の隙間からリッタさんがこちらを窺っているのが見えた。
逃げて良かったのに。きっと彼はイリスを心配して、ここから離れることもできずにいるのだろう。
そう考えながらまた枝を一本切ったところで、突然、怪物が後退した。
「……?」
攻撃の手が止んだと思ったら、枝のうちの一本が、イリスに向かって横に大きく振りかざされた。
だが、イリスへの攻撃ではなく、何かの勢いをつけている。
止める間もなく、その枝はリッタさんの方向に、鋭く振りかざされた。
一瞬にして木の扉と、その周りの壁が砕け散った。
リッタさんはその攻撃をかわしたが、激しい衝撃で背中が地面についている。
「っリッタさん! 立って!」
再び、枝が横に大きく振りかざされた。枝の先には、ラッパの形をした赤い花があった。あれが、『悪魔のラッパ』だろう。
怪物は、リッタさんにその毒を当てようとしている。今度はきっと、避けられない。彼を守る扉も壁もない。
「イリスちゃんっ!」
「……」
顔の前に舞う赤い花が、甘い香りの霧を吐いた。
間に合って良かった、と思うと同時にめまいがしてきて、体に力が入らなくなってきた。
『マリゼンバナの霧を鼻や口から吸うことで、即効性のある毒が体内にまわる』。本に書いてあった通りだなと思う。ふらつく体は、立つだけで必死だった。
リッタさんがひどく焦っているのが、背中越しに伝わってきた。
怪物が後退し、少し離れたところで、攻撃の手を止めてこちらを様子見している。
知能は高くはないと聞いたが、著しく低いわけでもない気がする。おそらく、向こうも自身が危ない状態なのは分かっていて、今はできるだけ枝を温存しようとしている。
もう少し頑張れば勝てるかもしれない。だが、どんどん視界がぐらついてくる。
これは、死ぬなぁ。
視線が落ちた先に、地面に落ちた赤い花があった。
マリゼンバナ。リュカ様の顔を思い出した。
リュカ様は、イリスが仕事で夜に出歩くことも、エシェカの森に行くことも、ひどく心配してくれていた。
対樹部隊に入らないよう手で押さえ、ささくれ一つで軟膏を塗ってくれた人。
ここでイリスが死んだら、きっとあの優しい人は、泣いてしまう気がする。
それは、見たくなかった。
あの人を悲しませたくない。
まだ、ここでは、死ねない。
死ぬべきで場所は、ここじゃない。
黒い実の怪物を倒した時だ。
頭で考えたわけではない。
湧き上がったその思いに、全身に力が入った。
剣を強く握り直し、様子見を続けていた怪物に向かって、全力で走った。
一気に間合いに入り、枝の攻撃が飛んできたが、走った勢いで高く跳躍して、そのうちの一本に飛び乗った。
目の前は、怪物の幹と枝の境目。
力の限り、そこに向かって剣を振り降ろした。
たしかな手応えと共に、攻撃の手が止んだ。
乗っていた怪物の枝が急激に萎れ、イリスは体に力が入らないまま地面に落とされた。
強いめまいが襲う中、樹が細く萎れて、折れるのを見届け、イリスは瞼を閉じた。




