思いやり
真夜中、イリスは王立病院に着いた。
院長室がある場所は病棟からは離れているので、廊下はとても静かで暗い。
リュカ様から届いた院内の地図には「ここをまっすぐ行って右手の階段を昇る」などの細かい道順のメモも書いてくれていた。おかげで迷うことなく院長室に辿り着けた。
すでに院長が退勤しているのは確認済みだ。部屋の周りに護衛などもいない。
そっと忍び込んだ部屋は、窓からの月明かりのおかげで意外にも視界は悪くない。
院長の執務机には本や書類、文具などがまとめられており、その下には六段の引き出しがある。
隠したい物は引き出しに入っているだろうと、静かに中を開ける。
上から引き出しを開けていくと、予備の文具に、手指用の保湿剤、虫眼鏡、病院関連の書類と、ごく普通のものが収められている。書類はざっと確認した限りでは特に怪しい物はなかった。
ここまでは予想通りだ。きっと隠し収納がある。引き出しをすべて出して、月明かりと手の感覚を頼りに探ると、五段目の上部だけ不自然に膨らんでいた。
簡単に取り外せた板を外すと、本と書類が出てきた。
「『ラシュハの怪物』……?」
今のイリスたちにピンポイントすぎる本のタイトルに、体が硬直した。
さほど厚みのないその本を開くと、タイトルの通り、ラシュハの樹の怪物の生態が、図と共に記されている。
どうして院長がこんな本を持っている? 何故わざわざ隠した? 院長は、こちらよりも怪物について把握していた?
疑問が尽きない。院長の悪事に怪物が関わっている予感に、じわりと冷や汗をかく。
この本は押収したい。だが、今ではない。今は院長の悪事を探しに来ている。焦りは禁物。深呼吸をして、自分にそう言い聞かせて、本は閉じた。
本と一緒に入っていた書類の方を手に取る。
上部にしっかりと「契約書」と書かれたその内容は、すぐには理解が追いつかなかった。
「院長が、怪物の封印を解いた……」
その契約書は、ハイター院長が、マイラスという人間から多額の資金を受け取る代わりに、ラシュハの怪物の封印を解くという内容だった。
書類はすべて目を通し、動揺する気持ちを抑えて本と共に元に戻した。
机の後ろの本棚にも確認したが、こちらは怪しいところはなかった。すべて元に戻して、気持ちが落ち着かないまま病院を後にした。
まだ真っ暗の夜空のもと、続いて院長の自宅に忍び込んだ。
顔を見られないようにフードを被り、欠伸をして油断していた護衛たちは眠らせていった。院長とその家族が寝ていることを確認して、彼の私室に入った。
静かに引き出しを探っていくと、こちらも隠し収納の中に書類が入っていた。
こちらは、人身売買の報酬の受領書だった。子どもが二人、地下街の商人へと売られていた。
太陽が出る前、院長の家を後にした。さすがに今の時間に帰城しても、殿下たちも執務室にはいないだろう。
ひとまず自宅に帰って、シャワーを浴びて仮眠を取った。だが、先ほど見た内容が頭から離れず、上手く寝つけない。
少しだけ寝て、彼の悪事については頭の中で整理がついたが、これをどうリュカ様に報告するかまでは、考えがまとまらなかった。
早々に目が覚め、出勤してすぐにベルガ殿下へ一連の話を報告した。
「分かった。イリス、夕方にラミーが戻ってきたら、一緒に院長を捕まえて来い」
「了解です」
ベルガ殿下への報告はいつも通り冷静にできたと思う。部屋を出て、ふうっ、と一息ついた。
もうすぐリュカ様のところに行く時間だが、まだ機嫌を立て直せていない自覚がある。この状態でリュカ様には会えない。
何となく歩きながら、どこに行こうか考えるが、頭の中にはやはり院長の件が戻ってくる。
夜からずっと、院長のクソ野郎という怒りもあるし、この話をリュカ様に話して大丈夫かという心配も頭を支配している。
院長は確実に処分が下る。処分内容はきっと陛下かベルガ殿下が決めるだろうが、医療方面はリュカ様の管轄だ。真面目で優しい彼にとって、この件は負担に感じるのではないかと気がかりだった。
ぼんやり歩いていたら、すぐ目の前に人がいて、慌てて足を止めた。
「わ、すみませんっ……リュカ様?」
「イリス。考えながら歩くのは危ないですよ」
目の前に、リュカ様が立ち塞がっていた。ぶつかりそうなほど近い距離だったので、慌てて一歩下がる。少し眉を寄せて心配そうにこちらを見ている。
急なことに、心の準備が出来ていない。
「……まだ機嫌が戻ってないです!」
「は?」
冷静でないままだったので、イリスはむくれたのを丸出しにしてしまった。いきなりそんなことを言われたリュカ様は、呆気にとられている。
「えぇと、私、何かしましたか?」
「すみません。違うのです、リュカ様ではありません」
イリスは顔を手で覆った。こんな姿、見せられない。
「ちょっと、いったん去ります。後で来ます」
「私のところに来ようとしたのではないのですか? この辺りは他に用ないでしょう」
「え?」
不思議そうに言われた。この辺り、と言われて周りを見ると、イリスがいたのはリュカ様の執務室の近くだった。
「え。私、無意識にここに来てた……? いや、というかどこ行こうとしてたんだっけ……」
「大丈夫ですか? すごい困惑した顔してますよ」
本当に、完全に無意識だった。いろいろ考えているうちに、ここに来てしまっていたらしい。
『……』
どうしよう。リュカ様に会ってしまったからには、言わないと。本当に話して大丈夫だろうか。
リュカ様は、じっとイリスの言葉を待っていた。
年齢以上に冷静で、それでいて信頼を向けてくれているその顔を見ていたら、先ほどまでの重苦しい不安が、ふわっと軽くなった。
「もう、リュカ様、聞いてください」
「聞きます。私の部屋に行きましょう」
素のまま怒っているイリスに、リュカ様は落ち着いて、そっと手を引いて執務室に連れて行ってくれた。大丈夫。この人なら、話せる。
執務室で、リュカ様とテオに事実を素直に話した。二人は上手く相槌を打ちながら聞いてくれていた。
「ありがとうございます。……なるほど。とんだクソ野郎ですね」
「うわー……とんでもない奴じゃん。ってか怪物って封印されてたの?」
聞き終わったリュカ様は、ため息をつきそうな顔で、額に手を当てている。テオは一緒に怒ってくれていた。
「……院長への対応については、私は未成年なので、陛下が決めることになります。陛下には後ほど私から報告しますが、兄上もすでに話は聞いているなら……今は裏庭に行きましょうか」
「裏庭ですか?」
「イリスの機嫌が悪いままでしょう。私も良くないですし、このまま仕事をするより、いったん皆で休憩します。テオも良いですか?」
「もちろんです! というか、俺も胸糞悪いので!」
リュカ様について行き、三人で裏庭に向かう。
イリスは話しているうちに冷静になってきていたが、それでも機嫌は完全には戻っていなかった。そこにも気を回してくれて、やはり優しい人だなと思う。
「……リュカ様、地図ありがとうございました。メモもついていたので、迷わずに行けました」
「それは良かったです。私としては、イリスが無事に戻ってきてくれたので安心しました」
言い損ねていたお礼を伝えると、リュカ様は優しく微笑んでくれた。
裏庭に入ると、相変わらずの深緑色の木々が強い太陽光を上手く遮り、心地の良い空間だ。
「裏庭はかなり久しぶりに来ました。良い場所ですね」
「俺は初めて来ました。すごく空気が良い……これはイリスがよく来るのも分かる気がするよ」
「そうでしょう? あと丸い猫も生息しているので二人にも見せたいのですが、今日はいるかなぁ」
特にあてもなく歩いているだけでも、心なしか二人の顔も先ほどより優しくなっている気がする。
丸い猫の話をしながら木陰を歩いていると、前方から薄灰色の作業着の男性が三人、歩いて来ていた。
そのうちの一人、以前も会った庭師のお爺さんの頭に、丸い猫がひしっと、くっついている。
「あ……ロト!」
「……え」
「にゃー!」
「おや。リュカ殿下に、お嬢さんと、ご友人まで」
丸くて可愛すぎるロトを呼んだら、一瞬、リュカ様の強張った声が聞こえた。だが、同時にロトが短い手足を伸ばしてイリスに飛び込んできたので、そちらを受け止めるのに必死だった。
「ロトー、今日も可愛いね! 会いたかったよ」
「に! にゃっ、ふん!」
「うお。イリス、デレデレじゃん。ってか、この猫、丸っ! すげぇ丸いんだけど!?」
ロトを受け止めたは良いが、ずっしりと重たかったので、しゃがみこんで膝の上にロトを乗せて抱きしめた。一緒にしゃがんだテオは、猫の丸さに目をものすごく見開いている。
「……『ロト』は猫の名前なのですね……心臓に悪い」
「リュカ様、どうかしましたか?」
「いえ、何でもありません。猫で良かったです」
何故かリュカ様は、手で心臓を抑えて息を吐いていた。そう言えば、猫の名前は教えてなかった気がする。膝の上ではロトがイリスに擦り寄ってきていた。
「ロト。可愛い。本当に、可愛いすぎる」
「イリス、語彙力ないぞ」
「可愛い以外……? 愛しいね?」
「お前、猫にはデレが尋常じゃないな。さっきから顔も声も溶けてるぞ」
「はっは! お嬢さんは本当にロトが好きだからねぇ」
「にゃふー!」
庭師とロトはイリスのこの様子を見慣れている。温かい笑顔のお爺さんと、大変丸くてモフモフのロトに、先ほどまで感じていたストレスが霧散していった。
「あー……癒し……」
「にゃー、むふー」
「あっ、猫吸いってやつだ! うわ、ロトがめっちゃ『しょうがねぇな』って顔してるぞ。ってか丸すぎね?」
「ロト、ありがとう……」
ロトの丸いお腹から顔を離したら、本当に「やれやれ」みたいな顔をしていて、それも可愛かった。
庭師の方々は微笑ましそうに頷いている。お爺さん以外の二人は初めて会ったが、皆優しそうな雰囲気で落ち着く。
というか、リュカ様が静かだ。立ったままのリュカ様の方を見上げると、目が合った。
「リュカ様もロトに触りませんか? 癒されますよ」
「え……はい」
無表情でじっとこちらを見ていたリュカ様は、誘うとイリスたちの横にしゃがんだ。ロトがリュカ様の方に鼻を寄せて、ふんふんと嗅いでいる。
「にゃふー」
「こう、背中を優しく撫でてみてください」
「はい」
リュカ様にそっと背中を撫でられたロトは、目を細めて誇らしげにしている。
「猫、初めて触りました」
「そうなんですか? モフモフで良いでしょう」
「たしかに、これはモフモフ、ですね」
「ふふっ」
「ちょっと」
「にゃ?」
リュカ様が「モフモフ」と言うのが可愛くて少し笑ってしまった。リュカ様が照れてしまい手を離したので、テオにも触らせる。
「おぉー、俺も猫に触るの久しぶりだなぁ。毛が柔らかいな。あったけー」
「テオの家は犬がいるんだよね」
「番犬な。賢いし、可愛いし、犬もいいぞ?」
「にゃー?」
「ロトも賢くて可愛いもんね?」
「ふっすー!」
「すごく会話が成立する猫ですね。何故か主張がだいたい伝わります」
しばらくロトに触らせてもらい、イリスの機嫌は回復した。
「すごい癒やされた」
「イリス、機嫌戻ったな。良かったぜ」
「テオも顔が明るくなったね。リュカ様も、あんまりロトに触ってなかったですけど、顔が柔らかくなってます」
「あの空間は悪くなかったです」
テオがさっぱりと笑い、リュカ様が穏やかに微笑むのを見て、イリスも嬉しくて笑った。




