守られる者
エシェカの森の見回り後、ベルガ殿下の執務室で「汗流したいなぁ」と呟いたら、早朝だというのに出勤していた補佐仲間のラミーさんが「城内にシャワー室あるよ」と教えてくれた。
さっそく場所を教えてもらって利用したが、やはり汚れを落とすと、心身ともにさっぱりして気分が良い。
濡れた長い髪を乾かすため、リュカ様のところに行くまでの時間は裏庭に行くことにした。
今日も裏庭の樹は、たっぷりの深い緑色の葉をつけている。この色を見ると、リュカ様の瞳を思い出すようになった。
涼しい風が吹く中、手近な木のベンチに座った。シャワーで目が冴えているので、寝るでもなく、ただのんびりと休憩することにした。
「あの丸い猫、今日もいるかなー」
あの食にはまったく困っていなさそうな、愛嬌満点のまん丸のハチワレ猫。裏庭で見かけるが、猫は気まぐれだから、会えるかはあの子次第だ。
さわさわと葉の擦れる音を聞きながらぼんやりしていると、人の足音がした。
この裏庭では、イリスが連れてきたダイさん以外で人に会ったことがない。誰だろうと目を向けると、薄灰色の作業着を着たお爺さんがやって来た。
その白い頭には、あのまん丸な猫がひしっと短い手でくっついている。お爺さんは丸いお腹を押し当てられながら、肩に乗るその猫の体をしっかりと手で押さえてあげていた。
「おや。お客さんとは珍しい。お嬢さん、お一人で何してるのかな?」
「仕事の休憩時間でして。髪を乾かしていました」
「にゃふっ」
「あぁ、シャワーを使ったのか。なら人目のないところにいて正解だね。女性が無防備な姿を見せるものではないからね」
「にゃ!」
穏やかにしわを深めて微笑むお爺さんは紳士的な方のようだ。土のついた作業着で鎌を持つこの人は、庭師なのだろう。
そして丸い猫がこの人に相槌を打つように喋っているのが可愛い。ご機嫌にその短い尻尾を揺らしている。
「その猫は飼っていらっしゃるのですか?」
「いや、いつの間にか城内に棲み着いた子でね。私が世話をしているということもないのだが、裏庭の整備でよく来るから、懐かれたんだ」
「そうだったのですね。名前とかあるのですか?」
「私は勝手に『ロト』と呼んでいる。雨風が強い日が心配だから、向こうの方にこっそりと彼の家も作ってしまった。内緒だよ」
「ふふっ。分かりました、内緒ですね。ロト、良かったね」
「ふっふん!」
ロトは可愛がられている自覚があるのか、鼻息をふんふんしている。すこぶる可愛い。今のイリスは溶けた顔をしているんだろうなという自覚がある。
「に!」
「おや。お嬢さん、ロトがそっちに行きたがっているのだが、良いかね?」
「もちろんです!」
その人がこちらに向かって腰を屈めると、ロトが「ふんっ!」と鼻息を鳴らしてイリスの膝に飛んできた。どっしりとした衝撃を受けるが、嬉しくてニヤニヤしてしまう。
「今日も本当に可愛いね!」
「はっは! もう仲良しだったんだね」
「この子と会うのは今日で三回目なのです。ねー、ロト?」
「にー!」
ロトは黄色い目を細めて舌をちらっと出した。その丸い体を撫でて、優しいお爺さんもいて、癒し度の高い空間に、イリスの機嫌はすごく上昇した。
その人の仕事の邪魔にならない程度に少しだけお喋りして、リュカ様の執務室へと向かった。
入室して早々、リュカ様は心配してるというのが前面に出た顔でイリスを迎えた。テオはまだ来ていない。
「イリス、昨晩エシェカの森に行ったらしいですね。怪我とか気になるところはありませんか?」
「大丈夫です。怪物には遭遇しませんでしたし、怪我とかも何もありません」
「なら良いのですが……」
どこからその話を聞いたのか、リュカ様は立ち上がって顔をじっと見てきたり、手を取って指先までいろんな方向から確認している。
昨日の握手といい、思ったよりスキンシップは平気なのかもしれない。必要なら普通に触れるのだろう。
至極真剣な彼に、気軽に「問題ないですよー」と言うのも不誠実な気がして、されるがまま確認してもらった。
「大丈夫そうですね。……髪が少し湿っているのですが、シャワー浴びたのですか」
「はい。乾ききってませんでしたか」
「無防備は感心しませんが、先ほどまではどこにいたのですか?」
「裏庭です。前にお話しした、丸い猫に会いました」
「あぁ、裏庭なら庭師以外はそう人がいないので、まだ良いですね。というか猫に会ったから、そんなに機嫌が良いのですね」
機嫌が良いのも出ていたらしい。ロトを思い出すと、つい口元が緩む。ロトは心底可愛い。目の前のリュカ様はすごく何か言いたげにしていたが、結局、脱力して「元気そうで何よりです」とだけ言って座った。
イリスがロトのことを考えてのんきな顔をしていたので、リュカ様の心配も幾分か和らいだらしい。それなら結果的に良かった、と自分も座った。
それにしても、この人は本気でイリスのことを心配してくれる。前世も含めてこれほど身を案じてもらうという経験がなかった。
平気で戦場でも何でも送り出されてきたので、こうも心配してくれる人には慣れていないし、胸がむず痒い。
今後もエシェカの森には行く。リュカ様には心穏やかでいて欲しいのだが。
森の見回りはしたが特に情報はなかったことを報告していたら、テオが入室してきた。
「おはようございます!」
彼の爽やかさは徹夜明けの目に染みるようだ。イリスも普通に元気なのだが、その明るさには勝てない。テオはいつも通り席に座ると、少し鼻を動かした。
「何かめっちゃいい匂いがする……イリスか?」
「うん? あ、シャワー浴びたからそれかも」
「あ、髪もちょっと濡れてるし。お前、リュカ様のところ来る前に乾かせよ、失礼だろ」
「もう乾いたと思ったの!」
「構いません。その状態で人目に触れる方が遥かに問題なので。というかイリス、徹夜明けなら眠いのではないですか?」
「私は一徹なら余裕です!」
「誇ることではないですね……」
自信を持ってグーサインも見せたが、リュカ様は何とも微妙な顔をしていた。軍人時代の名残なのか、イリスは一徹くらいなら勤務時間中には眠くならないし、能力面も変わらない。
むしろ、ベルガ殿下のところだと皆そんな感じだ。気が付いたら徹夜しているし、そのまま平然と働いてる。
テオの引き気味の顔には「分かるけど、普通おかしいからな?」と書いてあった。顔だけでこんなに明確に伝えてくるのは、もはや彼の特技だと思う。
「徹夜と言えば、でもないのですが……明日、私は休みを取ります。二人は兄上と宰相のところにいてください」
「了解です。……何故、そんな暗い顔を?」
テオが聞く通り、リュカ様は何だか萎れた感じの顔と声色だった。休みを嫌がっているように見える。
「本当は休みたくないのです。しかし私は未成年なので、定期的に休みを取らざるを得ないのです。この間、熱で休んだばかりなのに」
「その齢で仕事人間は早いですよ。すでに学業を終えているのもすごいことなのに」
「未成年は勤務時間も決まっていますし。自分のため、周りのためなのは理解しているのですが……早く成人したいです……」
ため息でもつきそうなリュカ様は、すでに仕事人間すぎる気質がある。十八歳で成人してもっと働けるようになったら、際限なく仕事に振り切りそうだ。むしろあと二年しかない未成年なのだし、もっと遊んでも良い気がするのだが……。
「……いろんな意味で、早く成人したいです。むしろ、あと何年か早く生まれたかった……」
伏し目がちに小さく呟かれたその言葉は、紛れもない彼の本音なのだろう。
しかし何故そんなに急いで大人になりたがるのかは、イリスには分からなかった。




