予想外の敵
髪型を変えた日から二晩が過ぎた日の午後、リュカ様の執務室に再びダイさんが来た。今回は先日と違って至って真面目な顔つきで、こちらの近くまで来ても椅子にも座らない。
「ダイ、何かありましたか?」
「ラシュハの樹が見つかったらしい」
「えっ」
難航していたラシュハの樹がついに見つかった。その報告に、テオが驚きの声を出した。イリスも声こそ出さなかったが同じ気持ちだ。
しかし朗報と言えるはずの情報に、ダイさんは困ったように頭を掻いている。
「ただな、その樹を見つけた植物研究所の所員が、所長のヘルンと一緒に今ベルガのところにいるんだが、そいつがひどく怯えててさ。よく分かんねぇこと言ってんだよ」
「よく分からないことですか?」
「『樹が走ってた』とか『自分に向かって枝を振り回された』とか」
何だそれは。『枝を振り回された』なら風で煽られた枝が暴れたのがそう見えたのかもしれないが、『樹が走ってた』は見間違えたりはしないだろう。
冗談かと思うが、わざわざそんなことを言う理由はないと思う。幻覚でも見たのだろうか。
よく分からない話にぽかんとダイさんを見上げていたイリスに、ダイさんが視線を向けてきた。
「そんで、イリスは嘘を見抜けるらしいじゃん? そいつのいうことが本当かどうか見てほしいんだ。ってかもう三人で話聞きに行こうぜ」
「分かりました」
皆で立ち上がり、ダイさんと共にベルガ殿下の執務室へ向かった。リュカ様はいつも以上に真面目な様子で黙っている。ダイさんの奥側を歩くテオが、ちらりとこちらに顔を向けてきた。
「……樹も気になるけど、イリス、そんな特技あったんだな」
「うん。あと人の善悪も見抜けるよ。でも相手の瞳をよく見ないと分からない」
「何だそれ、すげぇな」
テオは、リュカ様の熱に気づいた時と同じ、感心したという顔をしている。自分でも何故こんな特技があるのか分からないが、役に立てるなら何でも良い。四人ともあまり話はせず、黙々と歩いた。
ベルガ殿下の執務室に入ると、殿下の前に白衣のヘルンさんが立っていて、その横には同じく白衣の男性が床に座り込んでいた。その近くでグレイさんたち三名の補佐仲間が心配そうに見る中、その男性はひどく泣いていた。
椅子から立ち上がって眉を寄せてその彼を見ていたベルガ殿下が、イリスを呼んだ。
「イリス。ダイから大筋は聞いたと思うが、ラシュハの樹を見たと言うこいつの話がどうも現実味がない。嘘をついてるようにも見えねぇが、お前も見ろ」
「了解です」
座り込んでいる男性に近づき、しゃがんだ。若い彼は、涙で盛大に顔を濡らした顔を向けてきた。リュカ様たちも近くに寄って来て、目の端に彼らの脚が見えた。
泣き顔からして疑いにくいが、先入観を捨てるために一度目を瞑った。そのまま一呼吸おき、顔ではなく彼の青い瞳だけを見た。ぐっと顔を近づけて、その瞳にだけ完全に集中する。
「樹が走っていたというのは、本当ですか?」
「っはい、本当です! エシェカの森で、ラシュハの樹を見ました。樹があったと、近づこうとしたら、その樹が突然僕に向かって走り出したのです! 枝を何度も振り回されて、本当に、本当に殺されるかと思いました! それで必死に逃げたんですけど、すごい足が速くてっ、でも、僕、たまたま、崖から滑り落ちたので助かったのです!」
イリスは一度も瞬きをせずに彼の話を聞いた。部屋はとても静かだ。結論が出たので、彼に近づけていた顔を離し、瞬きをして、ベルガ殿下を見上げた。
「嘘はありません」
「そうか」
誰かの息を飲む気配を感じた。その不思議な話は、嘘じゃない。少なくとも彼は本気で言っている。
走る樹……暴れる樹なら、この間の民話の本で読んだ、ラシュハの怪物を思い出した。近くにいたリュカ様を見ると、リュカ様もイリスを見ていた。
「……リュカ様」
「えぇ。ラシュハの怪物、ですね」
リュカ様は顎に手を当てて困惑しつつも、真面目に受け取っていた。その隣でテオはにわかに信じがたいという様子だ。
魔法などのないこの世界で、怪物という存在がいる。そんなおとぎ話みたいなことが現実にあるということだ。無理のない反応だし、イリスもまだしっかりと受け止めきれていない。ダイさんも「あれ本当にあったってことか? はぁー、ぶっとんでんな」と珍しく目を開きながらひげを触っている。
「ラシュハの怪物って何だ?」
ベルガ殿下の声でハッとする。殿下やヘルンさんたちは何のことだという顔をしていた。リュカ様が口を開いた。
「黒体病の民話で、ラシュハの樹が暴れて人を襲うという話があったのです。枝が人を刺して、刺された人は体が黒くなって死ぬ。そんな樹の怪物がいたという内容でした」
「…………」
すんなり受け止めるのが難しい話に、誰も何とも言えず、部屋には白衣の彼の嗚咽だけが響いている。彼の薄灰色のハンカチは大部分が濃灰色に染まってくったりとしていた。イリスはポケットから新しいハンカチを出して彼に渡した。
「……っすみません」
「いえ。崖から落ちたとのことですが、怪我はありませんか?」
「大丈夫です……っ僕は、本当に運が良かったです……あんなに恐ろしいものは、見たことありませんっ……樹は、動きがすごく早かった……あんなの、騎士でも敵わないんじゃないかと、思ってしまいます」
「そんなに強かったのですね」
ようやく落ち着いて彼の様子を見たが、顔は青ざめ、ハンカチを押さえる指は震えていた。相当に恐怖を感じたのが伝わってくる。
「死んだ補佐三人は剣も結構強かったぜ。あいつらがその怪物に遭遇して勝てなかったなら、そりゃかなり強敵だな」
「病院の方からは、三人の剣は鞘に収まった状態だったと聞いています。戦ってすらいないのかもしれません。しかし、彼らの謎の怪我も、怪物に襲われたなら説明はつきます」
「……ヘルン。いったん研究所でのラシュハの樹の捜索はやめろ」
「了解」
ダイさんが言うなら本当に強かったのであろう三人が敵わないほどの相手だ。下手に樹の捜索を続けて怪物に近づいたら、所員が死んでしまう。
「リュカ、ヘルン。宰相も捕まえて、陛下に報告に行くぞ。グレイ、今の話を紙にまとめておけ」
「分かりました」
「イリス、悪いけどチャーミーを頼むよ」
『了解です』
未知の敵の出現にこれからどうなるのか分からないが、イリスとしては自分の目を信用してもらえたことに、こっそり安堵した。
ベルガ殿下たちが颯爽と部屋を出て行ったのを見送り、ヘルンさんに頼まれた、このチャーミーという人の背中にそっと触れた。
「ソファの方へどうぞ。喉が渇いたでしょう、お茶を淹れますね」
「すみません……」
ソファ席に移動させ、「俺はどうしよう」みたいな顔をしていたテオと一緒に座ってもらった。話を聞いていた他の補佐たちも各々の机に戻り、不安気な顔で怪物の話をしている。
イリスはすぐ隣の調理場でたっぷりの水と、皆の分の紅茶を手早く用意してソファ席に持って行った。
チャーミーは泣き止み、赤い鼻をこすっていた。彼らに飲み物を勧め、ダイさんやグレイさんたちにも紅茶を置いていく。
全員分置いてソファ席に戻ると、チャーミーは水を一気飲みしていた。
「ぷはっ」
「良い飲みっぷりだな」
「走って、泣いて、水分不足だったみたいです……」
隣で少しだけからかうようなテオに、チャーミーは照れたように返した。震えが止まり、先ほどよりは血色も良くなった彼は、続いて温かい紅茶も飲んだ。イリスも彼らの向かい側に腰掛けた。
「しかし災難だったな。いきなり襲われたらそりゃ怖いよな」
「はい……まさか樹が襲ってくるなんて思いもしませんでした。僕が弱いからかもしれませんが、それでもやはり、あの樹は相当強い存在だと感じました」
「なぁイリス、本にもその怪物はそんなに強いって書いてあったの?」
他の補佐と話していたダイさんが、先ほど渡した紅茶を持ってイリスの隣に座った。
「いえ、怪物の強さは特に書かれていませんでした。本で襲われていたのも剣の達人とかではなく普通の人だと思うので、強さは測れないかと」
「そうかぁ。まぁ怪物は放置出来ねぇし、討伐隊でも作るのか、植物研究所の方で手を打つのか。どうなるかねぇ」
ソファの背もたれに寄りかかって、ぶはーと息を吐くダイさんに、イリスも頷く。
「ラシュハの樹が見つからなかったのは、樹自体が動くからですよね。樹の根城的なのがあるかもしれませんけど、それを見つけないと燃やすとかも出来ませんね」
「だな。チャーミーが見た樹一本だけとは考えない方が良いんだろうけど、どう見つけるよ。エシェカの森は闇雲に燃やせる範囲でもないしなぁ」
「そうですね。家具などあらゆる素材となる樹に、食用の蜜にキノコなど、エシェカの森はたくさんの資源ありますし、生態系などを考えても闇雲には燃やせないと思います。しかし場所を特定するにはどうしたものか、僕も見当がつきません……」
「まさに木を隠すなら森の中状態だな」
テオが上手いこと言い、まさにそうと全員頷く。チャーミーさんと自己紹介をしたり、報告書を書いてもらったりして陛下たちの判断を待った。




