月が浮かばせる
ぼんやりとした星が浮かぶ真っ黒の空の下、一つの古い倉庫があった。外からは空と同じ色に染まった波が、風に打たれる音が響いている。
イリスはその倉庫の中で、背中側で手首を縄で縛られて木箱に寄りかかるように座らされていた。柔らかな生地のスカートが脚に沿って床に広がっている。彼女を縛る縄は端が余ったまま適当に流されていた。
波音しか聞こえなかった庫内に、革靴が石の床を蹴る音が混じる。
「お嬢さん、気分はどうかな?」
「良いわけないでしょう?」
「ははっ、そうだよね。まぁでも俺に付き合ってもらうよ」
男はやや面長の顔に残念そうな笑顔を浮かべた。垂れた目尻にこそ薄く細いしわが寄るが、他はつるりとした肌が暗い庫内でも光る。質は良くないが張りのあるシャツは清潔感を与えた。
「ほら立って」
男が余った縄の端を持った。言われた通りに彼女は立ち上がった。長い銀髪とふわりとした白のワンピースは暗い室内でも目立つ。
「そんな顔をして。女性が夜に一人で歩くのが悪いんだ。恨むのは俺じゃないだろ?」
「突然ここに連れてこられて縛られて、恨むなというのは無理があります。私は何故こんなことをされたのですか?」
「見せしめだよ。爆弾を仕掛けたんだ。あいつらに、自分の非を分からせてやらないといけないから」
「あいつらとは?」
「うちの家族を破滅に追い込んだ奴らさ。まぁ、そんなことはいい。そろそろ奴らが出て来る。『お前のせいで罪のない人が死ぬんだ』ってところを見せに行かないとね」
男は縄を掴んだまま、くるりと背を向けて、姿勢良く入り口に向かって歩き出した。当然、縄に引っ張られてイリスも歩き出す。
倉庫から出ても誰もいない。水の音が響く中、緩く波打つ銀髪が海風にそよいだ。ぼやけつつも明度の高い月の明かりをたよりに歩く男の行く先は、倉庫から近い馬車乗り場だった。
すでにがらんとしているそこに、一台の立派な馬車が停まっている。イリスはその馬車の前に立たされた。男はすぐ近くの、船の絵の旗を掲げた建物に視線を向け、ズボンのポケットから懐中時計を取り出してその針の位置を確認した。
「もうすぐ奴が来る。君には悪いけど、これは必要なことだからね。ごめんね。これも君の運命だからね」
残念で仕方ない、というような声色で男はまた目尻の垂れた笑顔で、時計をポケットにしまいながらイリスを見た。彼女の手首に巻き付いていた縄は解けていた。
「……え」
男が目を開くと同時に、イリスは男の顎を、縄を握りしめた拳で空に向かって突き上げた。鈍い音とともに男の体はぐらりと揺れた。
倒れないために踏ん張った膝は曲げられ、位置が低くなったその頭頂部を、彼女は一瞬の間もなく肘で打った。ワンピースの裾から細い足首が僅かに覗く。
「……っ」
響く痛みに頭を押さえようとする男の手首を取り、イリスは縄をかけた。男女の体格差を勝るほどの手慣れた早さに、男は呆気なくその腕を縛られた。力を込めて解こうとするも、ぎりぎりと手首に縄が食い込むだけだった。
彼女が手を叩くと、馬車から御者一名と、建物に隠れていた騎士二名が駆け寄ってきた。
「馬車内の爆弾は回収しましたね?」
「はい! 安全に回収済みです!」
「ありがとうございます。彼をここから一番近い牢屋へ連れていきます」
『了解です!』
馬車の御者に扮していた騎士も連れ、男は引き摺られるように地下牢へと連れて行かれた。
じめじめとした地下牢の一室で、男は縄に縛られ、簡素な椅子に座らされた。
男の後ろの、到底人が触れない高い位置にある窓から差し込む月明かりのみが、その狭い室内を照らした。
男はただ無言で目の前の机を見ながら、監視係に見張られている。
そこに、手早く制服に着替えたイリスと聴取係の若い男が入ってきた。二人は男の前の椅子に腰掛けた。
「やぁお嬢さん。今晩はこんなに月が綺麗なんだ。見逃してくれよ」
縛られた男は心底困ったというようにイリスに笑ってみせた。汗一つかかない彼の余裕さは消えない。
「そうですね。月が綺麗なので、あなたの顔がよく見えます。では始めましょうか」
表情なく返したイリスが、男の期待に一切取り合う気がないのは誰の目にも一目瞭然だった。
「名前は?」
「ハープ・モロン」
「住所は?」
「さっきの近くさ。三丁目のグリーモスアパート、201号室」
「他にどこに爆弾を仕掛けてますか?」
「もうないよ」
「時限式ですか?」
「もうないって」
「他のテロ仲間は?」
「いない。俺だけ」
粛々と質問に答える男の瞳を、彼女は瞬きをせずに見ていた。聴取係は聞いた内容を紙に書き出す。
イリスはゆっくりと目を閉じた。
再び開けられたその灰色の瞳に、もう光は入っていない。
「テロ仲間がいない以外はすべて嘘ですね。もう一度聞きます。次は必ず答えてください」
鋭さを増した声は、男の耳を突き抜けた。男は始めて、額にじわりと冷や汗をかいた。
だが、イリスの再度の質問にまったく同じように返答した。今度も声は上擦らず、口角は上げて。
イリスは「そうですか」と冷えた声で言うと、そっと視線を外した。
男は歓喜を顔に出さないように余裕の笑みを再び調整した。聴取係の男に睨まれるが、むしろ笑顔を返した。
「なら、あなたの女に聞きましょう」
「は?」
「いるでしょう。家に」
当たり前のように彼女の口から吐き出された言葉に、男の笑みは揺らいだ。
「いないよ、女なんて」
その言葉は無視され、イリスは腰を浮かせて、ぐいっと男に、その月明かりに照らされる真っ白の顔を近づけた。いつもより色素の薄い灰色の瞳は再び、男の瞳を捉えた。
「住所」
「は?」
「四丁目」
「え?」
「五丁目」
「……」
「六丁目」
「……」
「六丁目ですね。アパートメントでしょう。日のよく当たる、東側の」
「は……」
男があんぐりと目を開けているのと対照に、イリスは月明かりに目を細めた。聴取係はペンを動かす。
「そこで女と二人暮らししてますね。立地の悪いあの辺にこの条件の家はそう多くありません。あの、すみませんが今の条件の家をあたってきていただけますか。女がいればこの男の特徴を伝えて反応ある人を連れてきてください」
『了解です!』
「え……本気で言ってるのか?」
牢屋の前で話を聞きながら待機していた騎士たちは、イリスが声を掛けるとすぐさま走っていった。すでに遠くから勢いよく階段をのぼる足音が響いている。彼女は近づけていた顔を戻し、すとんと座り直した。
「次は」
「おい待ってくれ、本当に"あいつ"を連れてくるのか?」
「はい。あなたが口を割らないので」
「連れてきてどうする? あいつはこの話は知らないぞ!」
「……あぁ、本当ですね」
顔ではなく瞳だけを見る彼女は、それに納得した。
「でもあなたが口を割らないので、この先は拷問に移ります」
「だからって、あいつを連れてくる理由はないだろ?」
「ありますよ。拷問を受けるのは彼女なので」
「は……?」
淡々と言われたその言葉が、決して冗談でないことは全員理解させられた。聴取係と監視係はイリス同様に冷静な表情で仕事に徹した。顔色を失ったのは、縄で縛られた男ただ一人。
「……嘘だ」
「嘘ではありません。私は本気でやりますよ。実績もあります」
「…………」
光を失っていた彼女の瞳にようやく、ぎらりと強い光が宿った。男は完全に笑みを忘れ、視線を落とした。
「それとも他の爆弾の場所を教えてくれますか?」
「…………」
「残念です」
以降、全員沈黙した。イリスは瞼を閉じ、男も目を瞑った。聴取係の持つ懐中時計の秒針の音だけが響いた。
月の位置がやや西寄りになった頃、ばたばたと階段を降りる足音が鳴る。低い男の声の中に、細い女の声が混じっていることに気づいた男は目を見開いた。
「……本当に、連れてきたのか……」
「当たり前でしょう」
イリスは閉じていた瞳をぱちりと開け、後方に目をやった。
「連れてきました!」
「ありがとうございます」
「アンリ!」
「何これ……」
三人の体の大きな騎士に囲まれ腕を取られているのは、髪の長い若い女。ひどく困惑した顔で男やイリス、聴取係、監視係と目を向けていく。
男が立ち上がろうとして、縄に阻まれて半端に腰を浮かせて、またすぐ座らされた。
イリスは音を立てずに椅子から立ち上がると、聴取係にも声を掛け、二人でその部屋の鉄格子をくぐった。
「なん、ですか? 急に連れてこられたんですけど……」
「突然ごめんなさい。あなたに案内したい部屋があります」
「え?」
「待ってくれ! そいつは関係ない!」
「こちらにどうぞ」
「待ってくれ!!」
男が発した耳をつんざく声に、ようやくイリスたちは足を止めた。
「全部話します。アンリには、何もしないでください」
「……これが最後ですよ」
イリスは騎士一人に女を連れて行かせると、聴取係とともに鉄格子の中に入って先ほどの椅子に腰掛けた。
彼女は真っ白な細い手で、下がっていた男の顎を掴んで正面を向かせ、再びその顔を近づけて瞳を捉えた。
「テロの計画についてすべて話してください。次に嘘や誤魔化しがあればもう聞きません。他のテロの場所と時間、狙いを教えてください」
「はい……」
男は話し出した。イリスは男の言葉を聞くと、聴取係が手に持っていた懐中時計を見た。
「すみません。私は現場の方に行ってきますので、あとお願いできますか」
「了解です」
彼女は風のように部屋を去った。ぶわりと彼女の花のような香りが一足遅れて部屋に残った。




