仮面のキス
「では、行ってまいります」
めかしこんだルシナが馬車に乗りこもうとするのを、コーネリアスの声が追いかける。
「ルシナ」
振り向いた彼女の額にコーネリアスは軽く口づけた。
「……!」
「公爵夫人によろしく伝えてくれ」
甘い微笑みに、ルシナはぽっと顔を赤らめる。隣に控えていた侍女のセリーナはわざとらしく顔をそむけた。コーネリアスは周囲にまったくかまわないといった様子で、ルシナの髪に顔をうずめてそっとささやく。
「あまり長居するなよ」
「は、はい」
「何かあれば夕食のときに話そう。気をつけて行ってこい」
「ん……、ふ♡」
あたたかい唇同士がふれあった。見送りのキスにしては長く、抱き寄せる腕も力強い。ルシナはときめきと一緒に――どろりと冷たいものが胸をうずまく心地がした。
――やさしい。穏やかで静かだわ。少しもやましいことなんてないみたいに。あの夜の残忍な一面が幻だったみたいに。
✧ ✧ ✧
――使用人にもホットチョコレートを振る舞うなんて。しかもお砂糖まで入ってる。さすがホルム公爵家だわ。
セリーナは小さなカップを飲み干した。サロンの参加者の付き人のための控え室はにぎやかで、セリーナは他の家の侍女と長椅子に並んで座っている。ホルム公爵邸で開かれる夕方サロンともなれば、中規模の社交イベントで参加者も多い。おのずと控え室もちょっとしたパーティーを思わせる雰囲気になる。大勢の付き人は、普段より少しいい菓子や軽食に喜びながら談笑していた。彼らが口にするほとんどは、主人の秘密暴露や愚痴大会だ。
「ナリクレスト伯爵令嬢の話聞きました?」
「ええ。ヴィヴィアン嬢、社交界から締めだされているのでしょう? 誰もなんの招待状も送ってないみたい」
「チャリティーパーティーで、アシュフォード大佐夫人にワインをかけたのがホルム公爵夫人の耳に入ったんですのよね」
「よりにもよって公爵邸で女の修羅場を演じるなんて、ずいぶん頭の軽いお嬢様ですこと」
近くの侍女の会話が耳に入ったセリーナは席を立った。
まずい。アシュフォード家の侍女だと気づかれる前に離れよう。奥様が大きめのサロンに招待されるのは初めてだと思ったけれど、これは夜会のときの詫びで公爵夫人が招待してくださったのね。
控え室の付き人たちが、セリーナにとって見慣れない顔ぶれだったのは救いだ。
夜会からお帰りになったとき奥様のドレスの染みは気になったけれど、そんなことより旦那様と奥様は今にもおっぱじまりそうだったし。そのあとも奥様は何も言わなかったから、まさかよその令嬢に絡まれていたなんて。
「まあ、砂糖漬けのオレンジが。取り放題ってこと!?」
壁際の軽食台にたどりついたセリーナは、小さく驚きの声をあげた。パイやタルトをながめながら噂話にもしっかり耳をそばだてる。
こうして時間をつぶしていよう。その令嬢が断罪されたなら十分だし、たぶん奥様は無粋なことは好まないわよね。よその侍女たちに余計なことを話して、悪口のネタを与えないのがいいわ。
✧ ✧ ✧
サロン会場である大応接間。ゲストたちの会話の輪がそこかしこで出来あがっていく。その間を縫うように挨拶をして回るのはホストのホルム公爵夫人だ。そんな彼女にそっと近づく人影があった。その男は公爵家の家令らしく、声を落として公爵夫人に話しかける。
「奥様、アシュフォード家よりこちらが」
そう差しだした中ぶりのギフトボックス。少し開けて見えるようにしてある中には、砂糖細工の薔薇が並んでいる。
「アシュフォード夫人は急病によりご欠席だそうで。カードとお菓子をいただきました」
「あら、残念ねぇ。仕方がないけど。これ、テーブルにお出ししておいて」
「承知いたしました」
家令が下がっていくのをぼんやりと見送る公爵夫人は、ほんのりと口を尖らせていたが、我に返るとまた挨拶回りへと戻った。
✧ ✧ ✧
コツコツ、と控えめにヒールの足音が響く。公爵邸の外壁沿いの通路は、張り出したひさしが午後の日差しをさえぎり影が落ちている。そこを裏手のほうへ進むのは――固い表情のルシナだった。
馬車庫までやってきたルシナは、迷いなく一台の馬車に吸い込まれていく。
「アシュフォード夫人、どうぞ」
馬車に乗りこんだルシナを迎えたのは――
「……お待たせいたしました、シャノン様」
「本当に便りをいただけるなんて驚きました」
地下室でジェーンとコーネリアスの尋問を盗み聞いた夜。私室に戻ったルシナはあの笛を使った。チャリティーパーティーでテオ・シャノンから託された笛。吹いても細く小さな音が鳴るだけだったが、そのあとルシナの元にフクロウが飛んできて、シャノンと文通を交わし――今日のサロンを利用して、ふたりは待ち合わせることになった。
「参りましょう、旧ハンティントン領へ」
ルシナは、パーティーで彼が申し出た旧領への案内を受けると手紙を送ったのだった。馬車のシートに背を預けるシャノンは、あいかわらずの爽やかな笑みを浮かべるが、ルシナには今までのような愛想を浮かべる余裕はなかった。
「……シャノン様。約束をしておいて恐縮ですが、私は貴方を完全に信用してはいません」
「は、はい……?」
「私は毒殺されかけましたし、夫に敵対する者もいますから。サロンの終わりまでに私が公爵邸に戻らなければ、夫に知らせが届きます。よからぬ企みがあっても上手くいきませんよ」
「はは……。ええ、承知しております。それくらい警戒なさったほうがよろしい。貴女は一国の王女なのですから」
――あまり動じてないわ、シャノン様。ハッタリだと気づいているのかしら。牽制しないよりはいいよね。放浪の学者だった彼なら、私を狙うアストニアのコーネリアスの政敵と通じていなさそうだけど、彼がアストニア内紛の駒だったら保険をかけないと。
「不躾で申し訳ありませんが、お力をお貸しください。警戒が必要でも、王宮に残したものを取りに行きたいのです」
「もちろん。貴女の力になりたいと申しあげたでしょう」
〝王国の歴史を学びたい〟という建前はもう使えそうにない。それにシャノン様は、もとから私がコーネリアスに隠れて調べものをしてることに勘付いていたし。コーネリアスが私の行動を制限していると彼は決めつけていたから、変には思われないよね。シャノン様がハンティントンびいきなら都合がいい。
✧ ✧ ✧
王都を離れ辺境に向かって走る馬車。車窓からの景色はだんだんとわびしくなっていく。
「荒れてる……戦争が終わったばかりですものね。毎日が目まぐるしくて国や民のことに意識が向いていませんでした……」
ぽつりと吐き出したルシナ。シャノンは視線だけ動かして彼女を見る。
「ただの田舎道ですから。見た目ほど治安は悪くありませんよ。貴女にとっては複雑でしょうが、大佐閣下のご活躍のおかげで」
「……」
シャノンの言葉は、ルシナの不安を慰めはしなかった。
――怖い。こんな大胆なことをしてしまって。毒殺に誘拐……軍内部にスパイまでいると聞いたうえでわざわざ危険を冒すなんて馬鹿みたい。だけど、狙いは私が屋敷にいるときに絞られてる。コーネリアスが私を囲ってるって噂のせいかしら。
ルシナはスカートを握りしめて、自身を落ち着かせようとした。
逆に考えれば、私が突拍子もない勝手な行動をとるなら動きは読まれにくい。今ならまだ動ける。多少のリスクは背負わないと。
ルシナの心の中には、コーネリアスのふたつの顔が浮かんでは消える。10年かけて侵略戦争を計画した彼。ハンティントン王家に復讐すると言った彼。軽い怪我でも大げさに手当てする彼。夜通しの看病。ふたりきりのダンス。おやすみのキス――そして、ジェーンを詰問した声。
ジェーンが殺された夜、わかってしまった。コーネリアスには、私に見せていない巨大な裏の顔がある。それに私――本当はその存在にうすうす気づいていたんだわ。「私にはやさしいから」と目をそらしていただけで。昔だって、コーニーが甘い言葉をくれたのはギブス家の利益のためだとわかっていたのに、見ないふりをしていた。
馬車の行く道は、林から森へと姿を変えていく。
見ないフリ、知らないままではいられない。彼への初恋も今の想いも消えないけれど、今度こそ私の感情ではなく事実を確かめる時よ。何よりもまず――コーネリアスという人間について、最初の、最大の謎から明かすべきだわ。
✦ つづく ✦




