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応接間にはいつの間にか香ばしいお茶の匂いがただよっていた。公爵家の侍女らしき女が気配を消してサーブしていく。公爵夫人はチェス盤を見つめてしばらく手をとめていた。
さっきから私の♞を邪魔する♙を消してしまいましょう。ポーンで追い立てられると気に障るのよねぇ。
公爵夫人の次の手を見た貴婦人は、隣にそっと耳打ちした。
「あ、♞がやっと♙をやっつけたわね」
「地道に白の駒を削ってる。これは黒のゲームだわ。アシュフォード夫人はなかなか♚を攻めないわね」
公爵夫人は内心「もう少し声を落とせないものか」と呆れるが、ティーカップに口を付けてほっとひと息ついた。そこで、対するルシナの指がつまんだのは――
「別の♙!? ♞をまだ追いかける気? それも安い駒で……」
虚をつかれて一同は固まった。
「あははは」
沈黙は公爵夫人の笑い声によって破られた。
「♞がそんなに嫌いなの?」
「そんなつもりは……流れを取り返したいだけですよ」
「いいわよ。付き合いますわ」
そう言って公爵夫人が♞を逃がしたのは、♙を刺せるマス。
「♞が睨み返したわ。どうしてアシュフォード夫人はわざわざ煽るみたいなマネを」
「うーん……見せ場づくり? それにしても……彼女、公爵夫人を接待する気が少しもないのかしら」
その貴婦人が言葉を濁すのとほとんど同時に、ルシナは♗を前線に突っこませた。
「――チェック!?」
ギャラリーの一部は反射的に腰をあげた。
「なんで驚いているの……?」
「このチェックは意味がないわ。♗は♚にすぐ食われるから。駒をタダで公爵夫人にあげるようなものよ!」
そのとおり、♚は♗を獲った。
「さっきから別の意味で攻撃的だわ、アシュフォード夫人。わざわざ司教を捨てるなんて……教会派の公爵夫人への当てつけ?」
貴婦人たちの混乱とは逆に、公爵夫人は静かに思案していた。
――この♗の攻め筋。聞いたことがある。たしか、あとから攻撃に合流してくる♘をかわせばよかったはず。受けきれるわ。それにしても、この戦術……。
ちらりとルシナを見て切りだす公爵夫人。
「アシュフォード家は教会に負い目があるから、今日は私と和解しに来たのかと思っていたけど勘違いだったみたいね。それとも貴女のキングに命じられて対立を深めにきたのかしら」
「婦人会には私の意思で参りました。ゲームに他意はありません」
「冗談よ。でもそう答えるしかないでしょうね。大佐は仇であってもアストニアで貴女の生命線だもの」
視線を落としたままルシナが閉口したのを見て公爵夫人はつづけた。
「安心して。みんな私が教会派だと言うけれど、それは正確じゃないわ。ホルム公爵家はアストニアの秩序を長年保ってきたの。近頃は軍部の肥大化ゆえに王室と教会に肩入れしているだけ」
公爵夫人は話しながら指をあげて侍女を呼びつけた。
「軍部が勝手にはじめた戦争に、どう収拾をつけようか調整役として悩んでいたら――大佐のスキャンダル婚だなんて。うまくやったわね。終戦を陛下の慈悲に託して王政を尊重しているように見せた。異教徒との結婚で負担をかけた教会には金策で譲歩して……隙がないわ。公爵家は蚊帳の外」
侍女がおかわりのお茶を注いでいくのをながめながら、ルシナはじとりと汗をかいた。
「役目を奪われたからって恨んではいないのよ。でも、今のバランスは危うい」
口ではそう言っても恨んでいないはずがない。公爵夫人は今日一番の鋭い視線でルシナを射抜いた。
「〝戦鬼の恋〟が軍部の筋書き通りの政略婚だなんて明らかだわ。計画的な反乱の意思があるとみなされてもおかしくないのに、大佐のキャラクターがうやむやにしているだけ」
ゴシップに沸きあがっていた覚えのある貴婦人たちまでソワソワと居心地悪そうにしだす。
「それとも……本当は私情があるのかしら」
「……」
「それもアウトね。大佐が私的に戦利品を得たとすれば軍の絶対性はじわじわと崩れる。上層部は理解しても末端まで感情を統制するのは難しいわ。〝いい思いをしている上司〟なんて妬まれて当然よ」
ルシナは公爵夫人が他の貴婦人とは違い、好奇心ではなく情報としてコーネリアスとの結婚の真相を探ろうとしていると察した。
〝これ以上教会に敵対する気がないと示してほしいから私を招待した〟――そう思っていたけど、状況はもっと複雑だったわ。私だけでなく他の貴婦人にも手厳しいところを見て油断してしまった。
読みの甘さを後悔するルシナ。公爵夫人はやれやれと額を押さえた。
「このあとのコントロールに公爵家が噛めればいいけれど……どうしたものかしら」
立場が真逆なだけでなく、コーネリアスは公爵家の面目をつぶした政敵。アシュフォード家の人間として私は彼女の仇だわ。味方にするなんて……。
「失礼ながらホルム公爵夫人のお立場を存じあげませんでした……このたびは大変なご配慮をいただきありがとうございます」
ルシナは深々と頭を下げた。
「……ゲームをつづけてもかまいませんか」
力なく口にすると、公爵夫人は目で同意した。ルシナは盤に手を伸ばす。
予定通りここから逆転して最後は勝ちを譲ろう。公爵夫人は謝る機会を用意してくれたとも言えるし、こんなゲームははやく終わらせてしまいたい。お膳立てして楽しませるなんて馬鹿だった。彼女もゲームを楽しむどころではないのだろうし。
「では……」
ルシナの♘が♚を攻撃すると、公爵夫人は♚を前に踏みこせて♘を攻め返した。
ギャラリーでは、ある貴婦人が隣の夫人をひじで小突く。彼女は「どういう戦況か」と相手にめくばせした。さっきの今でピリついた空気の中、要求してくる彼女に呆れた夫人だったが、解説を引き受けることにした。
「アシュフォード夫人はここからチェックをくり返していくはず。それに対して♚を前線に出すなんて公爵夫人は怖いもの知らずね。相手の♕が攻め筋にいるけど……下がるよりむしろ良い手なんじゃないかしら。後手に回るより前に出た方がいいのかも」
ルシナが♕を前線にあげる。そこへ黒の♟が飛びだし、♕を下がらせる。
「ここでアシュフォード夫人がクイーンを失うわけにいかないものね」
「そういうこと」
公爵夫人は♟でさらに踏み込んで白い♕に狙いを定める。今度は黒が安い駒で追い回す番だ。もがく♕の前に盾のように♞が立ちふさがる。
「黒の♛も走る道が開けたわ。次は白がチェックよ」
渋滞しているマスで、♘が道を譲り♕がチェックした。攻撃された♚は後退。ルシナはさらに♚を追う。
「公爵夫人は逃げるしかないわね。アシュフォード夫人が押してる……! いい勝負ね!」
ギャラリーの興奮した声に反して、ルシナは眉をひそめた。
――ここが勝ちを譲るタイミングだわ。ミスをするには♛を獲らなければいい。でも――
ふとルシナが顔を上げると、公爵夫人は真剣に盤に目を走らせていた。先の手を目算しているのだろう。
彼女なら私のミスに気づく。それがわざとであることも。だけどこれでいい。これで……いいのよね。だって今日は……もう失礼がないようにしないと。
ルシナはそっと駒に手を伸ばした。が、ぴたりと止まる。
それでも何かひっかかる。私はどうしようとしていたっけ。公爵夫人を――
「…………」
思いがけず、目の前には幼い頃の光景が浮かんで見えた。
――……コーニー。
✧ ✧ ✧
「参りました。またルシナ王女の勝ちですね」
日差しが心地よい庭園の芝。敷物の上でチェス盤を挟んでくつろぐ小さな王女ルシナとコーニーの対局は終わったところ。はにかんだコーニーが負けを認めた。月に一度、婚約者の彼がハンティントン王宮を訪ねてくる日だった。
「コーニー……」
ルシナは盤を覗きこんで難しい顔をしている。
「……手加減していませんか?」
「ッそんなわけないでしょう」
「でもここのナイト見落としてましたよ。あからさまなのに」
「え」
「そんなに勝ちを譲られると落ちこみます。王女だからと甘やかさないでください」
口を尖らせるルシナ。コーニーは思わず大きな声を出した。
「わ、わざとならこんなに負けませんよ!」
気まずそうに顔を赤らめる彼にびっくりして、ルシナは視線を上げた。
「王女殿下ほど読みが鋭くないのです。チェスは嗜む程度で……お気持ちを害さないレベルまで精進します」
彼の声がだんだん小さくなるので、ルシナは慌てる。
「責めるつもりは……ごめんなさい、そうですよね。コーニーは学にも武芸にも励んでいますから」
もう。病でベッドに籠ってチェスばかりしている私とは違うんだから。婚約者を負かすなんて可愛くないと思われちゃう……!
ルシナの伏せた表情が見えたコーニーは、やさしく笑った。
「いいえ、次こそ驚かせてみせます。男なら好きな子にいいところを見せたいですから」
「……!」
好きな子だって。好きな子……♡
素直にぽっと赤くなるルシナ。口元も思わずゆるむ。
「それに……甘やかすならこのほうがいいでしょう?」
コーニーはルシナの手をそっと取り――
「知的で可愛いルーが好きですよ」
くす、と笑って指先に口づけた。
✧ ✧ ✧
沈黙がつづく応接間。貴婦人たちはまだ決着のつかないルシナと公爵夫人の対局を見守っている。長いこと宙を彷徨っていたルシナの手が駒を持ちあげた。目には決意がある。
公爵夫人に礼を尽くすなら――♛を獲りにいく。
✦ つづく ✦




