03. 薔薇の棘
それはその日の、お仕事中のことでした。
「あっ」
お部屋のお掃除中に、チェリーさんが短く息をのむような声をあげました。
「どうしました?」
私が振り向くと、チェリーさんは安心させるように優しく微笑みます。
「大したことはないのですよ。ただ、お花のお水を変えようとして、薔薇の棘が刺さってしまって」
見れば、細い指先に、ぽつりと鮮やかな紅い血が滲みはじめたところでした。
チェリーさんがそれを拭おうと、ポケットから白いハンカチを取り出します。
――その瞬間。
私の頭の中で、何かがぷつりと音を立てて切れました。
喉の奥がからからに乾き、激しい目眩のような衝動が全身を駆け巡ります。
チェリーさんがハンカチを広げるより早く、私は衝動のままに、指が食い込むほど強い力で、華奢な手首を掴んでいました。
そのまま引き寄せ、吸い寄せられるように傷口へ唇を重ねます。
「き、キウイさん……っ!?」
あまりの勢いに、チェリーさんの手から離れたハンカチが、音もなく床に落ちました。
けれど、私の世界からは、お掃除中の部屋も、薔薇も、床のハンカチも消えていました。
驚いた妻の声すら、水底から聞こえるかのように遠く霞んでいたのです。
――ただ、チェリーさんの血が欲しい。
理性を失ったまま、その細い指を口の中に含みます。
舌先に触れた温もり。
次の瞬間、鉄の香りを含んだ、信じられないほどの甘さが口いっぱいに広がりました。
焼けつくように乾いていた喉へ、その甘さがゆっくりと染み渡っていきます。
唇へ伝わってくるのは、傷口の奥でどくどくと脈打つ生々しい熱。
ぞくりと背筋を駆け上がるあまりの快感に、一滴すら逃すまいと貪るように、私は滲む血を啜り続けました。
その間の記憶は、ほとんど残っていません。
「……さん、キウイさんっ! もう、大丈夫ですからっ!!」
妻の切実な叫びに、私は、はっと意識を浮上させました。
気がつけば、チェリーさんは恥ずかしそうに顔を真っ赤に染め、息を荒らげて私を見つめていました。
「あ……お気をつけて、くださいね」
私は震える指先で床からハンカチを拾い上げると、まだわずかに滲んでいる血を包むように、きゅっと優しく結びました。
傷口を覆い隠した途端に、急速に思考が澄んでいきます。
それはまるで、悪い夢から覚めたようでした。
「もう、キウイさんってば、すぐにそうやってからかうんですから。でも……ありがとうございます」
照れたように笑うチェリーさん。
いつものおふざけの延長であると、そう信じて疑う様子もありません。
ですが、私の背筋には、今しがたの自分の異常な衝動を思い出して、恐ろしいほどの寒気が走っていました。
(私は……今、何を……?)
あの数秒間。
私の理性はすべて吹き飛び、ただチェリーさんの身体を流れる紅い蜜――それを飲むという欲求だけが、私を支配していたのです。




