第2話 再出発 5
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「危ないで!」
ハルの鋭い警告が響いた。
私は意識を警戒モードへと切り替える。目の前の床に光の線が浮かんでいた。それは複雑な紋様を描き、巨大な魔法陣を形成していた。
魔法陣の中に、巨大な生物の影が浮かび上がる。天井の星辰図から降り注ぐ光を浴びて、その生物の体毛が銀色に輝いた。
「な、何なのよ、コイツは……!」
魔法陣の中に現れたのは、とんでもない大きさのイノシシだった。
2階建ての家よりも大きいのだ。こんなイノシシに体当たりをされたら、それだけで全身が粉々になるだろう。あの足の下敷きになったら、どんな頑丈な鎧を着ていても、鎧ごと踏みつぶされるだろう。
調査員を殺したのは、間違いなくこの怪物だ。
妖魔がいないのも当然だった。臆病な下級妖魔だったら、この怪物の気配を感じただけで遺跡に近づくのをあきらめるだろう。
私は全身の毛穴から、冷たい汗がにじむのを感じた。
それは、ダンジョンの奥底に置き去りにされたときと同じ、死に直面した恐怖によるものだった。
ついさっき見た、調査員の惨たらしい最期の姿が目に浮かぶ。
こんな怪物、どうやって倒せばいいのだろう。
勝ち目がなければ、逃げるしかない。しかし、逃げ切れるのだろうか。イノシシの走る速度は人間よりも遥かに速いのだ。
普通のイノシシなら、遭遇した際に背中を見せず、ゆっくりと距離を取れば逃げ切れるという。しかし、明らかに侵入者(私)に対して敵意を持って狙いを定めるこの怪物に、その手段は通用しないと思ったほうが良さそうだった。
万事休す。
首筋かどこかの太い血管を斬れば、失血死させられるだろうか。もしくはせめて、足の腱を斬れば、動きを止められるだろうか。
できるかどうか分からないが、それでも、やるしかなかった。ハルと協力すれば、倒すことはできなくても何とか逃げる隙ぐらいは作れるかもしれない。
奥歯を噛みしめ、恐怖を無理やり抑え込みながら剣を構える。
ドン!
それは、まさに一瞬だった。巨大なイノシシが私に向かって突撃してくる。私はほとんど勘だけでその突撃を避けた。体スレスレのところをイノシシの巨体が猛スピードで走り抜けていく。その風圧だけで私は転倒しそうになった。それでも必死に剣を振り、胴体に斬りつける。しかし、私の手に伝わってきた感触は明らかに異質なものだった。
「刃が、通らない!?」
厚い毛皮に阻まれて、肉体を傷つけることができなかったのだ。それは動物の毛皮というより、細かい鎖か、金属質の繊維を束ねて作った鎧のようなものだった。しかも、どうやらあの毛皮は魔力を帯びているらしい。「斬撃無効」か「弱体化」「物理攻撃無効」のスキルのような効果を持っているのかもしれなかった。
……詰んだ。
私に、打つ手はない。
敵の防御スキルを無効化する勇者の特殊スキル「聖断の刃」や、魔法による攻撃手段があれば対処できたかもしれない。しかし、いまの私にはどちらもない。逃げることもできない。
「危ないっ!」
後ろからハルの叫び声。突然、突き飛ばされて私はホールに転倒する。一瞬後、私が立っていた空間をイノシシの牙が切り裂いた。鈍い音が響く。イノシシの牙は私ではなく、私を突き飛ばしたハルの体を捉え、軽々と弾き飛ばした。ハルは十数メートルの距離を吹き飛ばされ、壁に叩きつけられる。その衝撃で壁や天井の一部が崩れ、瓦礫が容赦なく彼の体に降り注いだ。
「ハルーッ!」
私は悲痛な叫びを上げた。いくら彼が非常識な強さを持っていたとしても、あれだけの衝撃を受けて叩きつけられ、何十キロもの瓦礫の下敷きになれば、無事では済まないだろう。せっかくパーティーを再結成したのに、初めてのクエストで仲間を失って、私はまた一人になってしまうの!?
「……はーい」
ガラガラと瓦礫を押しのけ、呑気な返事をしながらハルが這い出してきた。
「はあ!?」
ちょっと待て。いくらなんでもあれで無事っていうのは「非常識」では済まされない。もはやギャグだ。コメディだ。やることなすこと全てがふざけすぎている。
「あぶなっ!」
瓦礫から這い出してきたハルを狙って、イノシシが突進する。ハルが慌てて飛びのくと、イノシシは壁にぶつかり、そのまま石壁をぶち抜いた。薄暗い遺跡の中に外の光が飛び込んでくる。ハルは走り寄ってくると、いきなり私を抱きかかえた。
「外へ逃げるで!」
「あっ、こら、ちょっと!」
抱き上げられた際、どさくさ紛れにあちこち触られた気がする。
ハルはそのまま一気に遺跡の外へ飛び出した。少し遅れて、壁をぶち抜かれた石組みが均衡を失い、遺跡がガラガラと音を立てて崩れ出した。あのままボンヤリしていたら、私まで瓦礫の下敷きになっていただろう。
崩れ落ち、もうもうと粉塵を上げる遺跡の後ろから、イノシシが現れる。
私たち二人を目がけて、猛スピードで突進してきた。
「下がっとき」
ハルは私を下ろすと、腰の長剣に手を添え、抜き打ちの構えを取った。
「いやいやいやいや、あなた何やってんの!?」
「抜き打ち」、いわゆる「抜刀術」のスキルは、サムライソード、つまり軽くて反りの入った、鋭利な刀で威力を発揮する技なのだ。
長剣という武器は、言うなれば刃のついたこん棒のようなもの。振り回したときの勢いと、剣の重量で敵を叩き切るのが基本的な戦い方だ。刀のように、敵を滑らかに切り裂くことはできない。
それに、刀は反りがあるからこそ、抜刀からの動きを途切れさせることなく、刀身に十分な加速を乗せて斬撃を行えるのだ。反りのない長剣で抜刀術を使おうと思っても、剣を抜く、振りかぶる、斬りつける、といった動作がつながらず、まったく威力を発揮しないのだ。
というか、そもそもあのイノシシの毛皮が魔力を帯びていて、剣を使った攻撃が効かなかったのだ。
だけど……。
私は、昨日のハルの戦いを知っている。
私を抱きかかえたまま、足だけで魔物の大群を文字通り「蹴散らした」ことを知っている。いつもふざけた態度だけど、彼の強さは本物なのだ。
そして、いま、彼はふざけているわけではない。
「えーっと……。『奥義・めっちゃすごい斬り』~」
……前言撤回。こんなときまでふざけてるどうしようもないオッサンだコイツ。
なんなのよ「めっちゃすごい斬り」って! そもそも、攻撃の前にいちいち技の名前を口で言うなんて、絵物語の演出の話でしょうが! 実際の戦場でそんなことやってる暇なんてあるかっての! それに、せめてもう少し迫力のある技名だったら分かるけど、「めっちゃすごい斬り」なんて言われても全然強そうに思えないんだけど!
無数のツッコミが頭の中を駆け巡る。というか、もう、さっきからずっとツッコミしかしてないよね私。
重い地響きを立てながらイノシシが迫る。刹那、ハルの腰から光が閃いた。
それが刃に反射した太陽光だったと理解できたのは、ハルが剣を抜いて踏み込んだ姿勢のまま動きを止めたからだった。
彼の横を走り抜けたイノシシの首が、まず音を立てて地面に転がり、続いて胴体が木々を押しつぶしながら倒れる。
あっけにとられている私のほうに歩み寄りながら、ハルはヒュッと剣を振って血しぶきを落とし、ゆっくりと鞘に収めた。
「……どう? どう? おっちゃんすごいと思わへん? ちょっと惚れたんちゃう?」
目をキラキラさせて尋ねるハル。
「すごいけど……。すごいけど、本当に、いったい何者なのよあなたは……」
私は呆然としたままつぶやく。コイツ……本当に長剣で抜刀術やっちゃったよ……。しかも「斬撃無効」の能力を持った相手に……。
「あのな……。実はおっちゃん、昔、女神様に加護をもらってんねん」
「何それ。『五英雄』の伝説じゃない」
「そやで。おっちゃんの本名、バルフォードやねん。ほら、ハルとバルフォード、似てるやろ?」
「タダノ・ハルって言ったくせに」
「そんなん偽名に決まってるやんか。おっちゃんの本名、『バルフォード・ゴライアス』やで。ギルドにそんな名前で登録したら『伝説の五英雄が来た!?』なんて騒ぎになってまうやろ」
「ふざけるのも大概にしてよっ! 500年前の英雄!? いくらなんでもそんな話を信じられるわけないでしょ!?」
「うーん……。やっぱりバルフォードのフリするのは無理があるかあ……」
「そもそもあなた、鏡を見たことある? その細身で『剛腕の戦斧』って名乗るのは無理があるでしょ……」
「それもそうやなあ……。だったら、エルディンって名乗るほうがいいかなあ……」
「はあ……。エルディンに訴えられるわよ……」
頭を抱える。
とはいえ、彼のおかげで命がたすかったことは事実だった。やっぱりこの男は、「ただのおっちゃん」なんかじゃない。
私はいつか、彼の正体を教えてもらえるのだろうか。
ため息をつきながら見上げた空はどこまでも青く、のどかに広がっていた。




