SPRINT 05:賢者様からお父さんになる
あのとき行った「選択」は正しかったのか?
その問いが、波のように繰り返し打ち寄せる。
この世界で目覚める前に起きた出来事が、時間とともにより鮮明に蘇ってくる。
自分の頬を涙が流れ落ちるのを感じた。
そして、ハンカチのような布で、涙が拭き取られるのを感じた。
ラミーシャの澄んだ声が響く。
「賢者様、どうされましたか?」
「悲しい気持ちがいっぱいです」
「なんだか私も、悲しくなって涙が出てきちゃいました」
「前の世界の出来事を思い出していました」
「衝撃的な非日常の出来事だったのに、しばらく思い出せなかった自分が情けなくなるよ」とマリトは言った。
「召喚後は、それまでの記憶の一部が戻るのに時間がかかると聞いたことがあります」とラミーシャは答えた。
元の世界の出来事は重大ではあるのだが、今この世界を知ることの方が優先度は高い。
そう自分に言い聞かせて、とりあえず、目先の問題に集中することにしよう。
ひとつ新しくわかったことがある。
それは、彼女の感情が自分に影響を与えるだけでなく、反対に自分の感情が彼女にも影響を与えることもあるということだ。
最優先事項は、ラミーシャとの適切な関係構築だ。
そう。最初が肝心だ。
マリトは召喚されてからずっと気になっていることを聞いた。
「『賢者様』という呼び方はなんとかならないかな」
「自分自身がそれほど賢いつもりがないので、名前負けしてしまうんだよ」
「本名はマリトなので、『マリトさん』と呼んでもらえると、こちらとしては自然に感じるんだけど」
しかし、ラミーシャは言った。
「お名前でお呼びするわけにはいきません。失礼になります」
「私がいいって言ってるんだから、失礼じゃないよ」
「いいえ。失礼です。自然に尊敬の気持ちが込められる呼び方じゃないといけません」
意外に、頑固な娘だなとマリトは思った。そして、
「他の案はありませんか?」と彼女が聞いてきた。
マリトは、こっちが考えるのも変だよな、と思ったので次のように言った。
「君の方で、失礼と思わなくて、しっくりする呼び方を考えてください。『賢者様』は却下です」
そう宣言した。
ずっとしゃべっていた口が止まった。沈黙が続く。
なおも続く。
「どうしましょうか」そう口を開く。
「あの、『先生』とか『博士』とかはどうでしょうか?」
「うーん。私は賢くも偉くないので、もうちょっと身近な呼び方のほうが助かるんだけどね」そう答えた。
「『お兄さん』とかどうかな?」
マリトは男兄弟だったので、妹という存在には憧れがある。
しかしラミーシャは、
「それは絶対だめです」と即答した。
「私には兄がいますが、最低です。尊敬できません。『お兄さん』は却下です」
そう宣言されてしまった。
「じゃあ、ゆっくり悩んで決めてください」
「しっかり悩んで、決めたら、それが正解です」
悩んだときにいつも自分に言い聞かせている言葉を伝えたのだったが、ラミーシャは、
「はい。お父さん」と答えた。
「え?いま、何と言った?」マリトが尋ねると、
「あ、すみません」と恥ずかしそうに答えた。
「それ、私の父の口癖だったんです」
「私のお父さん、小さい頃に事故で死んじゃって…」
「あまり多くは覚えてないんですが、その言葉は印象に残っていて…」
「私が悩んだときに、それが唯一、絶対の後悔しないための方法なんだって、教えてくれたんです」
悲しい気持ちが広がってきた。
涙がこぼれそうになってきた。
「すみません。つい、お父さん優しかったなって思い出して……」
「あ」
一転、春の日差しのような温かい気持ちが広がった。
良いアイデアを思いついたという気持ちが伝わってくる。
「あの、『お父さん』とお呼びしたら、ダメでしょうか?」そう問いかけてきた。
「ええー? この私がお父さんだって?」マリトは絶句した。
「いやいや、この年で『お父さん』とか勘弁してください」
「でも、さっき、おっしゃっていましたよね、『しっかり悩んで決めたらそれが正解だ』って」
「私、しっかり悩みました」とラミーシャは主張する。
マリトは心の中で思った。
『もうちょっと悩もうよ。なんなら、二、三日悩んでもいいと思うぞ』
「君と年齢はそんなに違わないから、『お父さん』というのはさすがにちょっと…」
「私はまだ26歳で、君くらいの娘がいるような年じゃないんだよ」
そう伝えた。
「大丈夫です」ラミーシャは答えた。
「このボルディアでは18歳で結婚できます」
「私がいま、17歳なので、賢者様が18歳の時に私が生まれたと考えると…」
口を軽く開いたまま固まり、しばし沈黙が流れる。
「35歳だよね…」と引き取った。
『君、今、あまり考えなしに勢いでしゃべったよね……』と心の中でつぶやいた。
一転して悲しい気持ちが広がる。
「私のお父さんになるのは、そんなに、お嫌ですか?」
マリト自身も悲しい気持ちになる。
これは参った。
世の中のお父さんが、小さい娘のお願いに弱い理由がわかったような気がした。
それは、大人にはできないその表情や仕草から、計算のない、純粋で無垢な悲しみの気持ちがダイレクトに伝わるからなのだろう。
今はそれ以上だ。マリト自身の内側から悲しい気持ちが沸き上がってくる。
「いや、そういう意味じゃないんだよ」
そう言うのが精一杯だった。
少し悲しい気持ちが収まる。
しばらくの沈黙の後、ラミーシャは聞いてきた。
「それとも、『お父様』のほうが良いですか?」
どういう思考過程を経たのかはわからないが、いつの間にか二択になってる。
マリトには、なんとなくおかしく楽しい気持ちが芽生えてきた。
困ったことに、その気持ちが自分のものか、彼女のものか、区別がつかなくなっている。
もともとの父親の記憶も希薄なところに、姿のない声だけの年上の存在。
父親がいたらよかったのに、という積年の願いもあったのだろう。
そしておそらく、考え方にも似たところがあったのだろう。
もしこの年まで本当に生きていれば、お兄さん同様、尊敬できない存在になっていたかもしれない、とは思う。
しかし、今は、彼女が埋めたがっていた空白に、ぴったりはまってしまったということか。
身体を貸してもらっているという恩義もあるし、それでこの娘が幸せな気持ちになれるというなら、受け止めてあげてもいいかな、そういう気持ちになってきた。
「わかりました。『お父さん』のほうにしてください」
居心地の悪さはあるが、じきに慣れるだろう。
うれしいという感情が湧き上がってくる。
この感情の浮き沈みと、これから付き合っていくことになるのだな、とマリトは思った。
頬が笑顔を作るのを感じる。
「はい。では、これからは、『お父さん』と呼ばせていただきます、お父さん」
マリト自身も、とてもうれしい気持ちになってきた。
そしてその感情は、脳内物質による錯覚なんかではなく、彼女が喜んでくれていることを、好ましくうれしく思っている彼自身の気持ちだと気付いた。
#STATUS: SPRINT COMPLETED. PROJECT IN PROGRESS.
なぞの流れで、親子関係になってしまった異世界転生でした。「最初が肝心」とか言っていて、結局押し負けてしまう主人公。こっちはこっちで、温かく見守っていただければ幸いです。




