その十四(2)
「あと三回も、そうなると明日になっちゃう。野球って、そんな、スポーツだったの!」
天美の驚いた声に、絵里が反応した。
「心配ねえよ。王者は抑えが出てきたんだ。軽くひねって表は終わり、そしてサヨナラよ」
「サヨナラって勝てるの?」
「あたりめえよ。同点では冥王は出てこねえからな。王者は一番からだぜ、最高の打順よ。堺だって、百五十は余裕で出るからな、きっちりしめて、サヨナラを待つだけさ」
二人の会話中、競羅と数弥は小声で話し合っていた。
「あんた、どう思う?」
「絵里さんの想像通りす。残ったHОWの投手陣、塚間投手以外は、九回裏はとても、王者の上位打線を抑えられそうもありませんから。でも、向こうとしても、これで決着が、つけれて胸をなでおろしていると思います。逆転サヨナラの百倍までは賭け率は上がりませんが、サヨナラ勝ちを予想できたことで、差し引き損害はなくなりますから」
「ああ、奴の名演技のおかげでね」
ここで、場面が動いた。HОWの九番、渡瀬が球威に押し負け、打球がキャッチャーの手前に転がったのだ。須藤が取り、そのまま一塁に投げた。だが捕球時、大勢を崩したのか、その送球は右に大きく外れて一塁側のカメラ席に入ってしまった」
「キャッチャーの悪送球す、ボールがカメラ席に入り込んでしまいました」
「となると、どうなるのだい?」
「ボールデッドとなりランナーは二塁に進塁します。ノーアウト二塁すね」
HОWの監督代行が現れ、選手の交代を二塁の代走だ。思わず競羅は口走った。
「奴ら、あきらめてないよ。あの控えキャッチャーが仕込み屋の一人だったのか」
「ええ、そうだったみたいすね。しかし、何と言いますか闇が深いすねえ」
バッターボックスには、一番与野が入った。与野は初球ボールをうまく殺して、ファーストゴロ、ワンナウト三塁になった。
ここで、次の打者は二番の鴨池。競羅が口を開いた。
「今回の三塁は価値が違うね。さて、ここは、ついにやるかね、あれを」
「ええ、スクイズすね。どうでしょう。鴨池選手だから、あるかもしれませんね」
「実行したら、この子に見せる、いい教科書になるね。これを、待っていたしね」
競羅は答えながら天美をちらりと見た。
「ええ、それに、ここでの一点は、もう決定的なりますからね。それと例の達成も」
「ああ、そうだね、それで絵里、あんたはどう思う、スクイズあるかねえ」
「す、スクイズなんかで、て、点を取られたら、も、もう王者は」
彼女の語尾は震えていた。
「ははは、そうだね、あんたは、そんな気持ちだね。それで、結局どうなんだい?」
「王者は前進守備でバントを警戒してますね。ただ、鴨池選手はバントの超達人すから。今までも、大事なところでは、きちんと送ってますし」
そして、そのバッターボックスに立った鴨池は、バントの構えをしだした。競羅は、じっと状況を見つめている天美に向かって言った。
「これはもう、やっぱり、やる気だね。あんた、三塁ランナーの動きを、しっかりと、よく見ているのだよ、どのタイミングで走るか」
マウンドでは堺投手が、牽制を続けていた。その都度戻る三塁ランナーの松川。
堺が投げた、初球は一五二キロのスライダーだ。バットを引いた鴨池。判定はボール。
堺投手は二球目に入った、ウエストボールだ。慌てて戻る松川、
「あのランナー、やはり、足が速そうだね」
「ええ、五十メートル五秒台す。チームで一番速いだけでなく、リードからの戻りも一流なんす。優勝争いには欠かせない戦力の一人で、王者の方もそのあたりのことを、よく知ってますので。これでノーツーです。次、外したらボールスリーすから」
そして、堺投手が三球目を投げた。今度はウエストではなく、内角ギリギリ百五五キロの決め手のシュートだ。見極めができたのか、ホームに向かって突っ込んでくる松川。
「ああ、あんた、見ているかい、これがスクイズだよ」
競羅が天美にそう声をかけると、その天美は、
「うわー、ピッチャー球投げる時、三塁ランナー、こんなこと、やっちゃってもいいんだ!」
内角のボールに合わす練習をしていたのか鴨池、うまく、ボールを前に転がした。
右斜め横に転がったボールを、猛然と突っ込み処理する堺投手、取るいなや、ホームを守ってる須藤に送球したが、松川のスタートがよく、残念ながら間に合わなかった。だが、すぐに、須藤が一塁に投げ鴨池をアウトにした。天美が声を上げた。
「もし、球当てれなかった時、あのまま突っ込んで、タッチされなかったら、点なるの?」
「いい質問すね。ホームスチール、むろん、そのまま得点になりますよ」
「あんた、こっちが許可を与えない限り、だめだよ。野球感が変わってしまうからね」
競羅は、そうくぎを刺していた。
最終回に七対六と一点、勝ち越し。HОWの応援団のいるレフトスタンド、三塁側からも、残った観客たちの慶びの歓声が響いてきた。絵里が面白なさそうな口調で言った。
「俺もう帰るよ」
「えっ、あんた、先に帰るのかよ」
「そうだぜ、ハマのディストピアに虐殺されるの見たくねえからな」
「虐殺って、あんたさっき、この裏は、最高に期待が持てる一番からだ、サヨナラ、と自慢をしていたよね。あんたの好きな屯倉選手に回るかもしれないよ」
「さっきはさっき、へなちょろ二人にフルソンよ。どうやって、屯倉さんに回るんよ?」
「ですけど、もし回ったら、サヨナラホームランの可能性が出てくるんすけど」
数弥も引き留めたが、
「ないない。それより、見てみなよ。もう、みんな、帰り始めてるぜ」
絵里の言うとおり、ライトスタンドが妙な雰囲気に変わった。大勢の観客、それも、ほとんどが出口に向かっているのだ。
「もう、すでに、五時間半を回ってますからね。明日の会社もありますし、王者ファンは限界だったんすよ。近郊の人たちも、ぎりぎりの時間まで待っていましたが、心の糸が切れたのでしょう。子供連れで残っているのは僕たちだけになりそうす」
「そうだね。この感覚、確かに、一万人以上は帰宅の移動をし始めたね。十時過ぎには、向こう側も半分以上は帰っていたからね」
「そういうことよ。だから、俺も帰るぜ。あばよ、今日は天国から地獄だぜ」
絵里はそう言って球場をあとにした。
落胆した顔をした観客が次から次へと、ぞろぞろと出口に向かっていた。深夜十一時半近くのせいか、結構な数の大移動だ。その様子を天美は不思議そうに見つめていた。
その間に三番の小杉がセカンドゴロを打って、九回のHОWの攻撃は終わった。
一塁側、ライトスタンドは寂しくなり、九回の裏、王者の攻撃に入った。
『ライトラインズ、選手の交代を申し上げます。ピッチャー沢井に代わりまして塚間、背番号13』
三塁側は大きく盛り上がった。レフトスタンドでは勝利を予期する応援歌が流れてきた。
「来たね」
「ええ、来ましたね。ハマのディストピアの登場す」
そして、塚間投手が堂々とした雰囲気をまといマウンドに現れた。




