その九(2)
ネクストバッターズサークルから、指名打者のガーナーが右打席に向かった。HOWの応援団はチャンスに大合唱である。激しいトランペットの応援歌も流れてきた。
「ガーナー選手は、ここまでホームランを二十三本、打っています」
「となると、二人で四十本か」
「ええ、この二人がHOWの主力す」
だが、ガーナーがバッタボックスに入っても、ギラートの投球は始まらなかった。ずっと、牽制球の連続である。鴨池選手に加え、ウイリアムス選手までも塁上をチョロチョロし始めたからだ。競羅が声を上げた。
「あの投手、牽制球もそうだけど、何か、間合いが少し長くなってないかい」
「ランナーが複数いますからね、特に二塁が二番ですし」
「へえー、理由があるのかい」
「ええ、そうすね。二番バッターはバントなど小細工がうまいんすよ。だから、いろいろと工作ができる選手が多いんす。王者もそうでしょう」
「あの選手か、きのう、いろいろ、ちょこまか動いたね」
「そういうことす。鴨池選手も、相手をかく乱させることがうまい選手の一人す」
「たとえば」
「リードもそうなんすけど、いかにも、サインを盗んでいるように思わせるんす」
「サインっていうと、あれか、監督やコーチが選手に出す」
「それも、あるんすけど、今回はバッテリー間の話す。キャッチャーは、あらかじめ、どんなボールがくるかわからないと、安心して受けることはできません。だから、それを、ピッチャーに聞きます。または指示をします。でもそれを、会話で伝えることはできませんので、サインであらわすのですけど、その行為は、二塁ランナーからは丸見えになります。実際、球種やコースがわかっていたら、ヒットが打ちやすくなりますから」
「だったら、盗まれても文句なんて言えねえだろう。勝手に見えるのだから」
絵里がそう声を出した。
「そうすね。盗まれて当たり前すね。でもそれを、伝えるのがマナー違反なんす」
「違反すると、どうなるんだ?」
「怪しければ、その場で審判から注意をされます。二塁ランナーが、膝をたたいたり、ヘルメットや胸元に触れたり、手を振るような行動をしたときは間違いなく注意をうけます」
「そんなことでも、違反なのか」
「ええ、昔のビデオを見ると、よく、そういうシーンがよく出てきますけどね、今では、してはいけない行動となっています。鴨池選手は、ぎりぎりをして、わざと挑発するんす」
「それでも、警戒をするのか」
「ええ、二塁ランナーから、キャッチャーの仕草が見える限り、どうしても、盗まれることを警戒をしなければなりません。だから、盗んだふりをするのも作戦なんすよ」
「でも、防ぐ方法ぐらいあるだろう」
「むろん、ありますよ。サインを複雑にすればいいだけすから、ですが、複雑にすればするほど覚えきれなくなります。昔は乱数表というものがあったらしいすよ」
「乱数表ねえ」
競羅が会話の中に入ってきた。
「ええ、頭で暗記できるものではなかったすから、ピッチャーは、グローブに貼り付けていたみたいすね。でも、中止になりました。試合時間が長くなるということで」
「今でも、じゅうぶん、長いと思うけどね」
「何にしましても、牽制球や、そのような駆け引きの連続で時間が長くなるんす。乱数表がなくなっても、サインは簡単に、わからないようにしなければいけませんから」
「しかし、よくよく考えると、サイン盗みなんて正々堂々ではないね。卑怯者というか」
「卑怯者すか」
「そうだよ、野球は投手と打者との一対一の競技でもあるよ。だから、勝ち投手、負け投手があるのだろ。だいたいね、もともと、コースや球種なんて考える必要なんてないのだよ。来た球を打つ、ただ、それだけだよ。どうしても、絞りたければカンにたよるのだね」
「面倒だねえ。もういっそのこと、サインなんか、やめればいいんじゃねえか」
絵里が声を出した。競羅より面倒くさがり屋の、いつもの絵里らしい暴論である。
「さすがに、それは無茶すよ。選手たちが、てんでバラバラに動くことになるんすから」
一連の会話を聞きながら、天美は内心、こう思っていた。
〈こんな、大きな欠陥あるから、野球はセラスタでははやらないんだ〉と
このとき、大きく、球場がざわついた、グラウンドを見ると、なんと、一塁ランナーと二塁ランナーが、それぞれ、進塁をしはじめたのだ。数弥の声がした。
「ボークすね。不正投球す」
「不正投球だって」
「ええ、ギラート選手、イライラしすぎて、やっちゃったみたいす。普段、投球するときピッチャーは、ピッチングプレートというものを踏むんす。逆に牽制球は踏まずに行うものなのです。踏んでもできるんすけど、そのときは、モーションに入らずにしなければなりません。つまり、プレートを踏んで一度モーションに入ると、絶対にそのモーションを止めてはならないんす。きっと、今回はこれすね。あと、ボークには、ピッチャーが・・」
「もう、ややこしいね。今回の説明だけでいいのだよ。とにかく、簡潔に言うと、あの投手、走者に気を取られて、投球動作がおかしくなったということだね」
「そう、取ってもらっていいす。ボークの説明は難しいすから、それより、天ちゃん、姐さんの話だと走者になるらしいすけど、気をつけてくださいよ。あそこに見える白いピッチングプレートを踏んでないときは、投げるふりをして牽制球が来ますから」
「そんなことまで、教えていなかったけどね」
「確かに、草野球では、見逃されることが多いかもしれませんね」
「そうかい、まあ何にしても、こっちが野球をしているときも、投手って、それだけ、気をつかって投げていたのだね。やじだけでも大変なのに」
「やじすか」
「ああ、相手もひどいけど、味方からだって、『おお、調子いいねえ、昨日、母ちゃんとやったばかりか』というセリフが出る始末だからね」
「そんな、世界なんすか」
「ああ、だから、ケンカだって、しょっちゅう起きるよ」
競羅がそう答えたとき、天美が叫んだ。
「あー、また当てちゃった」
球場にとてつもなく、ぶっそうな空気が流れた。球審の声が上がると同時に、右ひじにボールを当てられたガーナーが、怒りのあまり顔色を変えてマウンドに向かっていった。
ボークで、ランナーが二塁三塁になったばかりの最初の球、あきらかに、わざと当てられたと思ったのだ。なるべくしてなったという感じか。
そのウイリアムスも一塁からギラートに向かっていた。
両軍から、選手たちが飛び出した。だが、その行動より早く、ガーナーがギラートを殴ったのだ。殴られたギラートも応戦し、マウンド付近は両軍もみくちゃの大騒動だ。
ライトスタンドからは、不旋律な太鼓とトランペットの音が、そして、レフトのHOWの応援団も同様に騒ぎ始めた。こちらも、一触即発の状況である。
「乱闘よ、乱闘。これは、いい日に来たよ」
絵里がはしゃいだように声を出した。
「おいおい、あることは知っていたけど、初回からかよ」
競羅もそうつぶやいていた。




