1562年12月 織田家攻略
織田家を攻略する前に全国の勢力を話そう。
東北を南部家が支配している。
その南部家をふたをするように、上杉家が越後から会津(現代の福島県辺り)にラインを作っている。
関東は北条家、信州は武田家。
越後を除く、北陸は我ら神保家。
尾張と美濃は敵対している織田家。織田家は観音寺城も制圧し、琵琶湖の南側まで勢力が伸びている。
三河の徳川家(当時は松平家)は鳥羽に進出。遠江には今川家が健在。
近畿はあまり勢力の動きがないが、三好家が大阪(石川御坊以外)と四国の東部を支配している。
中国地方の西部は、毛利家が支配している。毛利家は四国の西部も支配し、四国を三好家と分け合っている。
中国地方の東部は、浦上家など諸大名がまだ生き残っているが、尼子家は毛利家に滅ぼされそうだ。
九州は、北は大友家、南は島津家に分かれている。隆造寺家も辛うじて、九州の西部に生き残っている状態だ。
今回戦うのは織田家、織田家に関することは有名すぎるので特に言うことはない。
ただ、ゲームに関していえば別だ。過去の作品の織田家は有力な武将がそろっているが、拡大する前に東の武田家に滅ぼされる。
今回は違う。尾張は支城が多くいつもより国力が高い。拡大しやすくなっている。拡大すると有力な武将が多いので手が付けられない。
若狭武田家攻略後、すぐに織田家と戦闘に入った。放っておくと斉藤家の最後の城、小谷城が制圧されるからだ。
織田家に琵琶湖北側の小谷城が取られると攻めにくい、小谷城の攻略は絶対に阻止する。
織田家、攻略の方針は飛騨側は岐阜城を制圧する。琵琶湖側は鎌刃城を制圧し、尾張と観音寺城の連絡路を遮断する。その後、兵を尾張へ雪崩れ込む。
六角家が同盟の依頼にやってきたので受ける。六角家は神保の城と隣接する清水城がある。受けることにする。織田家攻略期間は同盟を切れては結ぶ、切れては結ぶような関係になる。武田家には岐阜城攻略の援軍を要請をする。
飛騨側は若干押されぎみ、群上八幡城へ兵を下げることもある。
琵琶湖側も、鎌刃城で接戦をしていた。
そんな時、斉藤は小谷城から尾張の方へ兵を出すが、もちろん織田家に撃退される。
斉藤家と戦闘が発生しても、織田家の圧力は変わらない。
だが我が家にはもう一つの頼み綱がある。援軍を要請した武田家だ。
武田家は一部は岐阜城に援軍を出してくれているが、過半数は織田家の岩村城を攻略している。
岐阜城で神保家が織田の軍勢を受け止めるので、楽に攻略できそうだ。
少しだけ役に立っているが、期待が大きかった分、がっかりした。
しばらくして、武田家がハイエナみたいな行動をしてるような印象が出てきて、腹が立った。
あと、織田家と同盟している徳川家はなぜか今川家に攻めている。
なんとか、鎌刃城を落とすことができた。支城を制圧するのにも苦労するのに本城なんて落とせるのか。
特に清洲城から出る織田信長の軍勢は大兵力だ。こちらでは太刀打ちできない。
その織田信長が岐阜城付近に張り付いている。飛騨側の兵がどんどん削られて退却している。
その状況を打破するため、琵琶湖側からも兵を出した。岐阜城を挟みうちにするのだ。
琵琶湖側がすこし無理をすれば、岐阜城を制圧できると考えた。
それでも、岐阜城の兵は倒せない。短期間だけ岐阜城を包囲することができたが、それも一回だけ。
織田家の総兵力自体は減ってきているのに、このままでは攻略できない。方針を変える必要がある。
無理をして岐阜城を狙うのではなく、脇を固めてから攻めるようにする。
琵琶湖側は鎌刃城を落としたことで変化が起きた。斉藤家が鎌刃城と越前(元朝倉の領地)の通路をふさぐようになったのだ。
神保家の兵は移動するので、偵察のつもりかもしれないが、こちらは移動できない。無理に移動すると斉藤家と戦闘になる。
今までは、織田家の岐阜城を制圧することを第一目標にしていたので、黙認してきた。
これからは兵站を安定させることを第一にするため、斉藤家を先に滅ぼすことにする。
そして、そのまま岐阜城を攻めるのではなく、岐阜城より近い大垣城を先に制圧する。
飛騨側は琵琶湖の攻略を邪魔されないようにする。織田家の兵を大垣城の方へ行かせないためだ。
つまり、そのまま岐阜城の兵と戦闘だ。
戦闘が長期化して内政の方も大変なことになっている。
米が足りないのだ。毎月、毎月、季節関係なく米を買っていたのを覚えてる。
1561年8月に斉藤家の小谷城を制圧し、滅亡させる。これで琵琶湖側の兵の移動が少し早くなる。
大垣城の攻略を開始する。
しばらくすると、織田家から停戦の依頼が来る。毛利家を通している。毛利家は神保家より勢力がでかいが隣接していない。無視をする。停戦の依頼が来るとは織田家も弱ってきたか。
飛騨側でも動きがある。岐阜城での戦闘が膠着したので、岐阜の隣、関に築城を開始する。
その関の隣に美濃大田がある。そこに900の兵で、織田家の犬山城防衛の兵3500を釘付けにする。美濃大田にも築城をする。
関に城を築城後、岐阜城の攻撃を中止し、関で態勢を立て直おす。その時、柴田勝家が怒りモード?になり襲い掛かって来た。
兵力がこちらの方が少なかったので、焦る。
後詰が来たのでなんとか撃退に成功。こんな感じで岐阜城攻略は一進一退です。
一方、武田家は徳川家と戦闘をしている。徳川家はすでに今川家を滅亡させている。
それでも、国力差を考えると徳川家の滅亡は近そうだ。
1562年3月、大垣城の前に岐阜城を制圧する。
岐阜城は耐久力が高い堅城だった。その岐阜城を制圧したことで、一気に風がかわる。
1562年5月大垣城を制圧
大垣城を攻めた兵で、大垣城の南の長島城を攻めた。その時、やっと徳川家が織田家に援軍を送ってきた。
徳川はもう鳥羽周辺にしか城はない。一番近い長島城に兵を送ってきたのだ。
大勢が決した後でも、援軍を送る徳川家は律儀者だ。
こういう感想が出たのは岐阜城攻略中に織田家に援軍を送らなかったからだろう。
あの時、援軍を送られてたら、岐阜城は攻略できなかった。
織田家から停戦の依頼がまた来る。毛利家を通してだ。停戦期間が先ほどの申し入れより長い。
毛利家と友好な状態にできるが、断る。織田家のポテンシャルはそれだけ恐ろしい。
1562年6月犬山城を制圧
1562年8月末盛城を制圧
1562年10月那古野城を制圧
1562年12月清洲城を制圧
この辺りで盟友の上杉家が滅んだ。南部と北条と武田に挟まれて、領地を削り取られたようだ。
越後は武田家に、会津(現代の福島県辺り)は南部家に制圧された。




