第78話:測地官エイクの巻尺
湯気は、霜ノ辻の祠の前まで届いていた。
朝、祠の石段に湯気が触れて、苔の霜が消える。村の女たちがそれを見に来て、何も言わずに帰っていく。三日ほど、それが続いていた。
測地官が来たのは、そういう朝だった。
役人の一団を予想していたのだが、来たのは一人だった。
背に大きな荷を負って、両手にも箱を提げている。二十代の半ばくらい。細い体で、荷のほうが本人より大きく見えた。
「測地院、東方係、測地官のエイクと申します」
彼は荷を下ろすより先に名乗り、深く頭を下げた。
「アルト・フェーン殿でよろしいでしょうか」
「そうです」
「では、まず測らせていただきたいのですが」
挨拶も、詰問も、脅しも無かった。
いきなり、測らせてほしいと言った。
俺は少し笑ってしまった。
「何がおかしいのでしょう」
「いえ。話が早くて助かる」
***
彼の荷の中身は、道具だった。
巻尺が三本。長さの違う基準杭が束で。水を張って傾きを見る器と、細い硝子の管。それに、目盛りの入った真鍮の棒が何本も。
「これは温度の器です」
エイクは硝子の管を一本掲げた。中で銀色の粒が細く伸びている。
「王都と、南の海沿いと、東の関で同じものを使っております。同じ器で測れば、離れた土地の数字を並べられますので」
「並べたことは」
「北ではありません」
彼は素直に答えた。
「北の記録は、二十一年前で止まっています」
俺は、その数字を聞き逃さなかった。
だが、口には出さなかった。まだ早い。
「見せていただけますか。院の記録を」
「持ってきております。写しですが」
彼は箱から帳面を出した。表紙に測地院の印。中は几帳面な表になっている。
黒峰の熱脈について、測った年月と、湯の温度と、湧く量が並んでいた。
最後の行で、数字が途切れている。
その下に、短い一文があった。
――当該熱脈は不安定と判定。封鎖措置を実施。以後の観測は中止。
「観測を中止したのか」
「はい」
「危ないから封じた場所を、以後は測らない」
エイクが、少しだけ黙った。
「……そう書いてあります」
「あなたはそれを、おかしいと思ったことは」
「あります」
彼は即答した。
「入院した年に、上役に訊きました。危険な場所こそ測るべきではないかと」
「答えは」
「封じたものは、動かさない。動かさないものは、測らなくてよい。そう教わりました」
それは、役所の理屈としては筋が通っている。
役所は、危険を管理しない。危険を封じて、封じたことを記録する。記録が残っていれば、次に何かが起きたときに、我々は手を打っていたと言える。
俺はそういう文書を、王都で何百枚も見た。書いたこともある。
「一つ伺います」
エイクが姿勢を正した。
「フェーン殿は、なぜここを掘っておられるのですか。院の記録では、この谷は誰の担当地でもありません」
「誰の担当でもない土地に、二百四十人が住んでいます」
「……はい」
「それだけです。俺は領主でもないし、この土地に縁があるわけでもない。ただ、目の前に直せる仕組みがあって、直し方が分かった」
エイクは何か書き留めようとして、やめた。
「変わった方ですね」
「よく言われます」
彼は少しだけ笑った。笑うと、年相応の顔になった。
***
俺は、こちらの持っているものを全部出した。
掘った場所を書いた図。抜いた石の数。杭が出た位置。湯路の勾配。畑の霜の記録。
隠すという選択は最初から無かった。盆地でも同じことをした。相手が事実で動く人間なら、事実を全部渡すのがいちばん速い。
エイクは図を一枚ずつ見て、そのたびに小さく唸った。
「勾配を、どうやって」
「水を流して測りました。器が無いので」
「三十歩で二寸半。……これは、ほぼ正確です」
彼は真鍮の棒を取り出して、樋の脇に据えた。
「測らせてください」
彼は本当に測り始めた。
朝から日暮れまで、樋に沿って歩いて、二十歩ごとに杭を打ち、水準を見て、湯の温度を書き取った。誰も手伝わないので、俺とガルドが杭を運んだ。
村の連中は、遠巻きに見ていた。
役所の外套を着た人間が、地面に這いつくばって石を覗き込んでいる。その光景を、彼らは初めて見たのだと思う。
昼を過ぎたころ、子どもが一人、杭を運ぶのを手伝い始めた。母親が慌てて呼び戻そうとして、リタがそれを止めた。
「あの役人は測ってるだけだ」
リタはそう言った。声が小さくなかったので、エイクにも聞こえたはずだ。
彼は顔を上げずに、水準の器を覗いていた。耳が少し赤かった。
日が落ちて、彼は帳面を閉じた。指がかじかんでいた。
「フェーン殿」
「はい」
「この湯路は、勾配が一定です」
「そうですね」
「いえ、そうですね、では済まないのです」
エイクは帳面を開き直した。
「二千五百歩にわたって、傾きが一定に保たれています。途中に谷が三つある。谷を跨ぐたびに、石組みの高さで調整してある。……これは、測れる者にしか作れません」
彼は顔を上げた。
「誰が作ったのですか」
「分かりません」
「百年より前だと聞きましたが」
「それも、村の伝承です」
エイクは口を開いて、閉じた。
自分が何を口走りかけたのか、自分で驚いた顔だった。
夜、リタが古い箱を持ってきた。
昼のあいだ、彼女はずっと離れたところから測量を見ていた。役人に近づかなかったのは、二十年前のことがあるからだろう。
「これも見せてやれ」
箱の中に、綴じた紙の束が何冊もあった。
開くと、日付と、数字が並んでいた。
湯路の、村はずれの決まった場所での温度。それが、毎日一行ずつ。
「父のだ」
リタは短く言った。
「役人が石を詰めた次の日から、死ぬまで毎朝つけてた。死んでからは、あたしが」
エイクが、綴じ本を手に取った。
最初の頁を見て、次を見て、それから束の厚さを見た。
「二十年、毎日」
「休んだ日もある」
「……何のために」
「分からん」
リタは肩をすくめた。
「たぶん、下がっていくのを見てたんだと思う。数えてれば、いつか誰かが訊きに来ると思ってたんじゃないか」
エイクの手が、少し震えていた。
彼が扱っている数字は、たいてい一度きりのものだ。役所は同じ場所を二度測らない。費用がかかるからだ。
二十年ぶん、毎日、同じ場所を、同じやり方で測った記録。
そんなものは、王国のどこにも無い。
「お借りしても」
「持っていけとは言わん」
リタは腕を組んだ。
「ここで読め。何日でも」
エイクは深く頭を下げて、綴じ本を炉端に並べ始めた。
俺は最初の一冊を手に取った。
紙は粗い。字は決して上手くない。数字と、その日の空模様が短く添えてある。晴、風、雪。それだけだ。
最初の年、湯の温度は人肌より少し上を保っている。
五年目に、一度落ちる。
十年目に、また落ちる。
落ちるたびに、その前後の頁に、同じ書き込みがあった。
――石を抜きに行く。
――抜けず。
二十年で、七回。七回、この家の人間は山へ登って、石を抜こうとして、抜けずに帰ってきている。
「七回か」
俺が呟くと、リタが炉の火をつついた。
「八回だ」
「一つ足りない」
「最後の一回は、書いてない。父はそのまま帰ってこなかったから」
***
その晩、俺はエイクの持ってきた院の記録をもう一度めくった。
最後の行の、封鎖の日付を見る。
二十一年前の、秋。
俺は荷の底から、油布に包んだ鉄の杭を出した。頭の刻印の下の数字を、灯りにかざす。
同じ年だった。
指が、そこで止まった。
セルヴァ盆地が塩を吹き始めたのは、二十年前だ。
東部監督府の台帳にも、ヨナの口にも、同じ年が刻んである。俺はその年を、盆地で何十回も書き写した。
封じたのが先で、塩が上がったのが後。
一年。
順番が、逆だった。
お読みいただきありがとうございます。
エイクは寝返る役ではありません。彼は最初から最後まで測地官のままです。ただ、測るという仕事を本気でやっている人間は、測った結果が上役の望みと違ったときに困る。その困り方を書きたくて出した人物です。
次回、一年が合いません。合わないと分かると、順番が変わります。




