第79話:一年、合わない
霜は、朝のうちに消えるようになった。
消えるといっても、湯路が届いている帯だけだ。幅にして三十歩ほどの、細長い黒い筋が、白い霜野を縦に切っている。
その筋を見ながら、俺はエイクを待った。
彼は炉端で、リタの父の綴じ本を読み続けている。夜通し読んでいたらしく、目が赤かった。
「フェーン殿。二十年ぶんの温度を、年ごとに均した表を作りました」
差し出された紙には、二十一本の線が引いてある。
「下がり方が、一定ではありません。最初の五年で大きく下がって、そのあとは緩やかに下がり続けている」
「詰まったせいか」
「いえ。詰まりなら、下がり方はもっと急です」
彼は指で線をなぞった。
「これは、湧いてくる湯そのものが減っている形です。……上流で、何かが変わったときの形」
俺は炉端に、二枚の紙を並べた。
一枚は、エイクが持ってきた院の記録。黒峰の熱脈を封鎖した年月。
もう一枚は、俺が盆地で写した東部監督府の台帳の一部だ。セルヴァ盆地に塩が上がり始めた年。
「読んでください」
エイクは二枚を見比べた。
一度目は、意味が分からなかったらしい。二度目で、彼の手が止まった。
「……一年」
「合わないんです」
俺は言った。
「封じたのが二十一年前の秋。盆地の塩害が始まったのが二十年前。封じたのが先で、塩が上がったのが後だ」
***
エイクは長いこと黙っていた。
やがて、荷から地図を出して、床に広げた。王国の東半分が描かれた、測地院の地図だ。等高の線が細かく引いてある。
「地脈というのは、水の脈に似ています」
彼は黒峰に指を置いた。
「山の下に、熱を持った水の道がある。それが東へ下って、この線に沿って」
指が、地図の上を滑っていく。谷を抜け、丘を回り、平野へ出て、止まった。
セルヴァ盆地。
「……ここまで来ています」
リタが炉のそばで顔を上げた。
「東の話は分からん。ここの話をしろ」
「同じ話です」
エイクが向き直った。
「山の口を石で塞ぐと、そこから先へ行くはずだった熱と水が、行き場を失います。上では湯が細くなる。下では、押されていた別の水――塩を含んだ水が、上がってくる」
「押さえてたものが、外れたってことか」
「はい」
「じゃあ、東の土地が塩を吹いたのは」
エイクが答えるまでに、少し時間があった。
「……断言はできません」
「できませんじゃない」
リタが立ち上がった。
「あんたの役所が、山に石を詰めた次の年に、東の土地が死んだ。そう言ってるんだろう」
「時期は、そうです」
エイクの声は掠れていた。
「ですが、時期が並ぶことと、原因であることは違います。私の仕事は、そこを混ぜないことです」
その言い方は、俺には好ましかった。
役人として正しい。混ぜたら、彼の言葉は使えなくなる。
「リタさん」
俺は間に入った。
「彼の言うとおりだ。並んでいるだけでは証拠にならない。だが、並んでいるものを誰も調べていないというのは、それ自体が問題です」
リタは俺を睨んで、それから座り直した。
「調べたら、分かるのか」
「分かるかもしれない」
俺はエイクを見た。
「熱脈の下流に何が起きたかは、測れば分かる話ですか」
「測れます」
彼は即答した。
「東の塩水層の高さと、こちらの湧出量。二つを同じ年の数字で並べれば、連動しているかどうかは出ます。ただ」
「記録が無い」
「東は、盆地の塩害のあとに監督府が測っています。北は、二十一年前で止まっている」
止めたのは彼らだ。
封じて、以後は測らないと決めた。だから、封じた影響を確かめる手段を、自分たちで捨てた。
悪意ではない。手続きだ。
手続きは、たいてい悪意より遠くまで届く。
俺は地図を覗き込んだ。
黒峰から東へ、細い線が下っている。線は途中で二つに分かれ、片方は南へ逸れ、片方はまっすぐ盆地へ入る。
「この線は、誰が引いたんですか」
「二百年前の測量です」
エイクが答えた。
「熱の脈は掘り返せませんから、湧いている場所を繋いで推し測ります。温泉と、冬に凍らない池と、雪の消える早い斜面。それを線で結ぶ」
「二百年、更新していない」
「更新の必要が無い、とされています。山は動きませんので」
「山は動かなくても、人が石を詰めます」
エイクが目を伏せた。
二百年前の線の上に、二十一年前の杭が打たれて、その先に二十年前の塩がある。三つの時代が、この一枚の紙の上に重なっていた。
誰も繋いで見ていない。繋いで見る係が、この国には置かれていないのだ。
その日の午後、エイクは問い合わせ状を書いた。
院への正式な照会だ。二十一年前の封鎖に関する原記録の閲覧、封鎖後の下流域の観測記録の有無、そして再測量の許可。
俺は横で見ていた。彼の字は、几帳面だが速い。
「一つ、伺いたいことが」
途中で、彼が手を止めた。
「照会状には、現地で協力を得た者の名を書く決まりです」
「書いてください」
「書きます。ただ、名を書くと、院が照合します」
「照合」
「王都の身元の帳です」
エイクは筆を置いた。
「昨夜、私は自分の控えで先に引きました。フェーン殿の名が載っておりましたので」
「載っているでしょうね」
俺は炉の火を見た。
王都の帳には、俺の名が確かにある。行政官として入った年と、辺境へ出された年。それに、査定の結果だ。
「何と」
「――適性の発現を認めず。無能力者と判定す」
エイクは、そらんじるように言った。
「そう書いてあります」
リタが炉端で顔を上げた。彼女は俺の身の上を知らない。
「あんた、それか」
「それです」
俺は隠さなかった。
「王都でスキル無しと判じられて、辺境へ捨てられた。ここに来る前は、東の盆地で暫定領主をやっていました。それも降りた。いまは、ただの旅の男です」
リタは何か言おうとして、やめた。
代わりに、鼻を鳴らした。
「役立たずが、また一人来た、と言ったな。あたしは」
「言われました」
「……訂正はしない。まだ、湯は下ノ瀬まで届いてない」
俺は笑った。この人は、そういう人だ。
夕方、ミリアが薬湯の椀を持ってきた。エイクが咳をしていたからだ。
「北は、冷えますでしょう」
「王都育ちですので、正直に申しますと、こたえます」
「無理をなさらないでください。指の先が白くなっていますよ」
彼は自分の手を見て、驚いた顔をした。測っている最中は、寒さに気づかない性分らしい。
ミリアが掌をかざすと、彼は椀を落としかけた。
「これは」
「温めるだけです。光の民の血で、ときどきこういうことができます」
「……記録に残してもよろしいですか」
「駄目です」
ミリアが笑った。俺も笑った。エイクだけが真面目な顔で、なぜ、と言っていた。
「フェーン殿」
エイクが、まだ帳面を睨んでいた。
「一つ、腑に落ちないことがあります」
「どうぞ」
「あなたの査定書には、実技の記録が一行もありません」
俺は顔を上げた。
「王都の査定は、書面の審査と実技の二段です。実技をやらずに判定は出せません。やって駄目だったなら、駄目だった記録が残ります」
エイクは帳面の頁を叩いた。
「あなたの頁には、審査の日付と、判定の一行しかない。実技をやった記録も、やらなかった理由も、書いていない」
「不備でしょう」
「不備です。ですが」
彼は言い淀んだ。
「王都の身元の帳で、私はそういう頁を、以前にもう一つだけ見たことがあります」
俺は、それ以上訊かなかった。
訊けば、彼は答えただろう。だが、彼はまだ院の人間で、俺は照会される側だ。彼に、上役へ黙っている頁を作らせるのは筋が違う。
その代わりに、一つだけ確かめた。
「その頁は、いつのものでしたか」
「……古いものです。百年より前の」
エイクは筆を取り直した。
照会状の末尾に、彼は自分の名を書いた。文字が、それまでより少し濃かった。
お読みいただきありがとうございます。
「時期が並ぶことと、原因であることは違う」というエイクの台詞は、この話でいちばん大事な一行かもしれません。彼は最後まで、そこを混ぜない人でいてもらう予定です。混ぜない人の出した数字だけが、あとで効くので。
次回、薪の値と戦います。値下げ交渉はしません。要らなくします。




