第77話:「古炉に火を入れたのは誰だ」
道具は、荷車二台で来た。
鶴嘴が十一本、鏝が七本、鋸が三本。それに粟の袋が四つと、塩の壺が二つ。館の蔵を空にしてきたのだと、すぐに分かる中身だった。
荷を下ろした家令は、書付を差し出した。
――領主の名において貸与する。返却は春とする。
その一行の下に、ベルナ・カルドの署名があった。
「貸与ですか」
「貸与でございます」
家令は生真面目に答えた。
「返せと申し上げるためには、こちらが生きて春を迎える必要がある、と領主さまは仰せです」
俺は書付を畳んで、懐に入れた。
あの人は、賭ける言い方を知らないなりに、ちゃんと賭けてきた。
村の空気が変わったのは、その日からだった。
それまで、手伝いに出てくるのは石を運んだ五人と、その周りの数人だった。荷車が来た翌日、炉ノ村から十八人が出てきた。霜ノ辻からも十人来た。
理由は分かる。領主が道具を出したということは、この作業が「勝手にやっている余所者の道楽」ではなくなったということだ。
人は、許しが出てから動く。
それは責められることではない。二十年、この谷の人間は、勝手に動いた者が殴られるのを見てきた。
***
工事は速くなった。
三十日目までに、湯路は霜ノ辻の手前六百歩まで届いた。
残る難所は、崩落で樋そのものが失われている二十歩だ。そこは石を新しく積むしかない。俺たちが積むと下手になるが、リタが据えれば座りがいい。
「あんた、石を割るのは上手いな」
リタが言った。褒め言葉らしきものを、彼女から初めて聞いた。
「割るのは目分量じゃない。石の目を見る」
「据えるのは下手だ」
「据えるのは経験だ」
「なら、あと二十年やれ」
彼女は真顔でそう言って、次の石に取りかかった。
湯が届いた家から順に、石を抱いて寝る決まりが崩れ始めていた。
崩れる、というのは正しくないかもしれない。要らなくなった、というほうが近い。囲炉裏のそばに湯の桶を置けば、朝まで部屋が冷えきらない。
霜ノ辻の子どもが、余った石を炉ノ村まで返しに来た日があった。
「もう要らないから」
その言い方が誇らしげで、俺は思わず笑った。
誰かに配る係だった子どもが、返す係になった。この谷で二十年ぶりに起きた、たぶんいちばん小さな変化だった。
その頃には、村での呼ばれ方も変わっていた。よそ者、から、名前になった。リタだけは相変わらず「あんた」で、さま付けはこの人から最後まで出ないだろうと思う。それでいい。
***
三十三日目の昼、谷の道を三人が上ってきた。
二人は同じ形の外套を着ていた。灰色で、襟に銀の縁取りがある。役所の外套だ。もう一人は帯剣した護衛だった。
村の子どもが最初に見つけて、走って報せに来た。
大人たちの動きが、はっきりと変わった。
工具を置いて、樋のそばから離れて、家の戸口に引っ込む。誰も走らない。走らずに、静かに消える。
二十年前に一度、同じことがあったのだと分かる消え方だった。
俺は湯路の脇に立ったまま、待った。
役人の一人が、俺の前で足を止めた。四十くらいの、痩せた男だ。
「測地院の者だ。黒峰番所を開けに来た」
「番所は山の中腹と聞きました」
「その手前で、これを見つけた」
彼は湯路を指した。
湯気が上がっている。三十歩ごとに白い柱が立って、風に少しだけ傾いている。
「古炉に火を入れたのは誰だ」
声に、怒気は無かった。事務の声だった。
「火は入れていません」
俺は答えた。
「火室は空のままです。詰まりを抜いて、湯を流しただけです」
「同じことだ」
「違います」
俺は樋のそばへ寄って、石の縁に手を置いた。
「火を入れるというのは、熱を新しく作ることです。俺がやったのは、もともと出ている熱を、途中で捨てずに運んだだけだ。山から出る熱の量は、二十年前と一寸も変わっていません」
役人が言葉に詰まった。
彼は現場の人間ではないのだと分かった。書付の文言を持ってきて、それに合う事実を探しに来ただけだ。
「通水は禁じられている」
「その命令書を見せていただけますか」
「……なに」
「こちらにも写しがあります」
俺は懐から、リタの家の書付を出した。
役人は受け取って、目を通し、それから顔を上げた。
「これがどこから」
「二十年前、この村に置かれたものです」
「ならば話は早い。禁じられていると書いてある」
「書いてあります。日付が読めません」
俺は紙の下端を指した。
「命令が出た年が消えています。あなたの持っている記録には、年が入っていますか」
役人は答えなかった。
持っていないのだ。番所を開けに来ただけの役人が、封鎖命令の原本を持ち歩いているはずがない。
「年が何だというのだ」
「役所の書付は、年で効きます」
俺は言った。
「いつ出た命令か。何を根拠に出たか。それが分からない紙は、命令ではなく紙です。それは、あなた方がいちばんよくご存じのはずだ」
役人の顔が、赤くなった。
正しいことを言われて怒る顔ではない。正しいことを言われて、それを持ち帰る立場ではないと知っている顔だった。
「工事を止めろ」
「止める権限が、あなたにありますか」
「……測地官を寄越す」
彼は書付を俺に押し返した。
「一月のうちに、院から人が来る。それまでに、これ以上手を入れるな」
「では、ここまでは認められるということですね」
「そうは言っていない」
「では、書いてください」
俺は矢立を差し出した。
役人は俺を睨んで、受け取らなかった。護衛が居心地悪そうに足を組み替えた。
彼は最後に、湯路をもう一度見た。それから、谷の奥の黒峰を見上げた。
声が、少しだけ変わった。
「一つだけ言っておく」
「はい」
「黒峰の断ち口は、開けてはならない」
それは、命令を伝える口調ではなかった。
教えている口調だった。
「なぜですか」
「私は知らん」
彼は正直に言った。
「知らんが、院ではそう教える。新しく入った者は、最初の月にそれを覚える。理由は誰も言わない」
***
三人が去ったあと、村人が戸口から出てきた。
誰も、俺に何も訊かなかった。訊かないことで、訊いている空気だった。
「止めるのか」
リタが言った。
「止めない」
「役人が来るぞ」
「一月後にな。それまでに、霜ノ辻まで届く」
リタは黙って、鏝を拾った。
「アルトさま」
ミリアが近づいてきた。手が土で汚れている。今日は草を刈っていたはずだ。
「あの方、最後に何とおっしゃったんですか」
「断ち口は開けるな、と」
「開けるつもりが」
「無い」
俺は正直に答えた。
「山を開けるのは、俺の手には余る。いまやっているのは、出ている湯を捨てずに運ぶことだけだ」
ガルドが石を担ぎ直しながら口を挟んだ。
「けどよ。あいつら、その運ぶのも止めに来たんだろ」
「そうだな」
「じゃあ、どっちにしろ同じじゃねえか」
同じだ、と俺も思っていた。
役所が守っているのは湯路の水量ではない。二十年前に自分たちが下した判断そのものだ。判断が間違っていたと言われないかぎり、彼らは何も変えなくていい。
厄介なのは、その判断を下した人間が、まだ生きているかどうかだった。
その夜、ハーレンから早馬が来た。
役人がハーレンにも寄って、領主に工事の中止を求めたという。
ベルナの返事が、書付で届いた。
――当該工事はカルド領領主の許可により行われている。責は領主が負う。
短い一行だった。
役人に向けた文としては、これ以上短くできない。責を負う、とだけ書いてある。
俺は少し驚いていた。
領主が責を負うと書くのは、勇気ではなく手続きだ。手続きとして正しいことを、この人は三年目にして自分で調べたのだと分かる。誰も教えていない。
その下に、もう一行、走り書きが添えてあった。私信だ。
――アルト殿。私は、いま自分が何を守っているのか、まだ言葉にできません。ですが、守ります。
お読みいただきありがとうございます。
役所というのは、理由を覚えている人がいなくなっても命令だけが残る場所です。「理由は誰も言わない」まま二十年守られてきた決まりが、この部の相手になります。
次回から第2章です。王都から、若い測地官が巻尺を持ってやって来ます。




